八話 鏡の悪魔は容赦しない
恐る恐る問いかけると、公爵夫人は、大きな溜め息をついた。
「はぁ……。こんなことで正体を知られるなんて。やっぱり難しいものですわね。人間のふりというのは……」
公爵夫人の声が、機械を通したようにたわんでいく。
優しげな顔立ちはそのままだが亜麻色の髪の間から一本角が突き出した。角は悪魔の証だ。
私が固まっていると、放置されていた赤ちゃんがぐずり出した。
『あらまあ、お腹が空いたのかしら?』
公爵夫人が手袋をはめた手を広げると、空中が四角く波打った。
まるで垂直の池が現われたようだ。
その波に手を差し入れると、指先が鏡でできた箱に入れたように消えていき、引き出されたときには哺乳瓶をつかんでいた。
『鏡の向こう側から取り寄せましたのよ。この方が効率的に育児できるのに、旦那様は気味悪がるのですわ。どうしてそんな真似ができるんだと聞かれたから、角を出してみせたら絶句していらしたわね』
公爵夫人は、驚く公爵を思い出したのか、愉快げに笑った。
『旦那様ったら、悪魔だと分かっていたら、わたくしと結婚しなかったっておっしゃるのよ。何を言ってもあとの祭りなのに。人間て、ほんとうに愚か!』
「愚かだと笑う人間に、どうして化けていたのですか」
カラカラに乾いた口で問いかけると、公爵夫人は一転して真顔になった。
『……愛する人ができたからよ』
そう言って、赤ちゃんの口に哺乳瓶を含ませた夫人は、再び柔らかく微笑む。
『正体を知られてしまった以上、アリス様を生かしてはおけませんわね。ナイトレイ伯爵には、別のご令嬢をご紹介しましょう。悪魔の正体に気づかないような、浅はかなご令嬢がいいわ』
公爵夫人の体が波打った。
と思ったらボートから消えて、次の瞬間には赤ちゃんごと川岸に立っていた。
頭に出ていた角は影も形もなく消えている。
「こんな形になって残念ですわ。だけど、許してくださいな。幸せは自分の手で守らないと、消えてしまうものですのよ」
おくるみを片手で抱えた夫人は、逆の手で切り株に突き立っていた斧を取り上げて、ボートを繋いでいたロープを切った。
「なっ!」
「さようなら、アリス様。最期の遊覧を楽しんでくださいませ」
公爵夫人は斧を川に放り投げると、足早にその場を離れていく。
陸から切り放されたボートは、テムズ河の流れに乗って中央へと進んでいった。
(漂流しているわ。なんとかしないと!)
急いで運転席を覗くが舵がない。
スクリューを動かす動力機関は全て取り外されているようだ。
アンカーもないし、手で漕ぐオールも見つからない。
完全なる八方塞がりだ。
助けを呼ぼうと岸に手を振ると、歩いていた市民が振りかえしてくれる。
「ありがとう――って、そうじゃないの! 誰か、助けてー!」
両手でメガホンを作って叫ぶと、異常に気づいた人々が騒ぎだした。
こちらの意思は伝わったので、後は救援を待つだけだ。
胸をなで下ろしていると、急に船が陰った。
「え――?」
見上げると、プリンセス・アリス号の船首が頭上に迫り出していた。
漂流するうちに、ボートが遊覧船の航路に割り込んでしまったらしい。
船は、車とはちがって停止するのが難しい。
水に浮いているため、ブレーキの仕組みが通用しないのだ。止まったりバックしたりする際は、スクリューを逆回転させる。
止まるまでの大型船の推進力ともなれば、ボートなど簡単に破壊する威力がある。
(こんな死亡フラグがあるなんて聞いてないわ!)
とっさに頭を駆けめぐったのは、河に飛びこむ方法だ。だが、この距離ではスクリューに巻き込まれて、粉々にされてしまう確立が高い。
船首に潰されて死ぬか。
スクリューに巻き込まれて死ぬか。
残酷な二択を迫られていると、目の前を青い鳥の羽根がかすめていった。
小鳥は、パタパタと羽根を動かして水上を飛び、プリンセス・アリス号の船首にある女神の頭に止まる。
私にも翼があれば、この危機を乗り越えられたのに……。
ないものねだりをして、ふと気づく。
空へ飛び上がるだけなら、翼はいらない!
「小鳥にできて、私にできないことなんてないんだから!」
私はハート型のポシェットから拳銃を取り出した。
狙うのは、ほぼ真上。
女神の像の左右にある、アンカーを巻き上げている機械のレバーだ。
ロープを通すための穴を狙って銃撃すると、全五発中、三発が命中した。
レバーが傾いて、糸巻きが回り出す。吊られていた鉄製のアンカーが、ガラガラと酷い音を立てながら落ちてくる。
私は、スカートをたくし上げてボートの最前部へと走った。
小さな船体なのですぐに端まで辿りつく。
ロープを結ぶ柱に手を置いたとき、衝突は起きた。
「っ!!」
トラックに跳ね飛ばされたときを思い出すような、激しい衝撃が船体を揺らす。
続いて、落ちてきたアンカーがボートを真っ二つにへし折って水中へ潜った。
船首と船尾が高く持ち上げられる。
その勢いにのって床を踏み切った私は、プリンセス・アリス号の欄干へと手を伸ばした。
「届いてっ!」
願いも空しく、私の手は宙をかいた。頭からサーッと血の気が引く。
(まずい)
私の体は真っ逆さま。ボートの残骸が散らばる河へと落ちていく。
水面に飛びこむ覚悟をして、ぎゅっと目を閉じる。だが、いつまで経っても水に濡れる感覚はない。
何かがおかしい。
私は、そうっと細目を開けて、ぎょっとした。
「宙に浮いてる?」
私の体は、プリンセス・アリス号の勇壮な船体と並んで、空中を浮遊していた。
だが、船体の様子が変だ。
ピースを無くしたジグソーパズルのように、不自然に欠けている。
欠けた場所には、クッキーや肉料理が詰め込まれていて、シャロンデイル公爵家で嗅いだものと同じ胡椒の匂いが強くした。
頭上をあおぐと、ボートの残骸越しにもプリンセス・アリス号があった。
ただし向きが上下逆さまだ。先ほどボートを折ったアンカーのロープは、水面を境に逆方向へと伸びている。
「いったい何が起きているの?」
金魚みたいに空中を泳ぎながら両方の船を見比べた私は、あることに気がついた。
ボートの残骸で見えない部分だけが、こちらの船には欠けているのだ。
角度的に、向こうを反射している部分はまともで、それ以外はしっちゃかめっちゃかなのである。
上下が逆転しているのは、水面に映った向こうの景色が、そのままこちらの世界で形を得ているから。
つまり、ここは――。
「鏡写しの世界だわ」
思わぬ形で、私は鏡の向こうへと迷い込んでしまったのだった。




