七話 死亡フラグへの遊覧
「これが、我が家のボートですのよ。少し古いものですけれど」
公爵夫人に案内されて、私はロンドン橋から離れた川岸に辿りついた。
川沿いの道までは斜面になっていて、まとまって生えた木々がちょうどいい目隠しになっている。
茂みを回り込んだ公爵夫人は、切り株にロープで繋いでいた、屋根付きのボートに乗り込んだ。
産後で家に籠りきりの生活を送っているはずだが、足どりは軽快だ。
「さ、アリス様もどうぞ」
「はい。……きゃっ」
ぐらりと船体が揺れて、私は木の床に座りこんだ。「気を付けて」と言って腰を下ろした夫人の腕で、「おぎゃー」と元気な泣き声が上がる。
(生きてるわ!)
「あらあら、揺れにびっくりしたのね。泣かないで。ここには怖いことなんか何にもありませんからね」
優しい声で赤ちゃんに呼びかける夫人を見て、私は自分が恥ずかしくなった。
家庭料理に胡椒が多めに使われているだけで、彼女のことを死体を持ち歩く奇矯な人だと決めつけたのだ。
なんて浅はかな考えだったろうと反省する。
「船を揺らして申し訳ありませんでした。スージー様。私にも赤ちゃんを見せていただけますか?」
「ぜひ見てあげてくださいな。元気な男の子ですのよ」
嬉しそうに傾けられたおくるみの中には、ふっくらした頬の赤ちゃんがいた。
目鼻立ちのはっきりした顔は父親似で、初対面の私にも無邪気に笑いかけてくる性格は母親似だ。
すべすべした肌と金髪は、まるで宗教画に描かれる天使のようである。
「赤ちゃんってこんなに可愛いんですね」
「ええ、とっても。素直で弱くて、わたくしがいないとこの世に存在できないんですのよ。可愛く思えないはずがありませんわ。アリス様とナイトレイ伯爵にお子様が産まれたら、ぜひ仲良くしてやってくださいませ」
「あの、私たち、そういうことはまだ何も考えていなくて……」
赤面する私を、公爵夫人は微笑ましく見つめてくる。
「照れたお顔も可愛らしいこと。こんな花嫁さんをもらったら、ナイトレイ伯爵は夢中になってしまうでしょうね。子だくさんなご家庭になったら素敵だわ。わたくしは、旦那様の子どもを授かれなかったから」
「え……」
授かれなかったとは、つまり公爵夫人は出産していないということだ。
だが、彼女の腕の中には赤ちゃんが抱かれていて、彼女はその育児に熱心である。
「それでは、この子はいったい誰のお子様なのですか?」
尋ねてしまってから、赤の他人が踏み込んではいけない領域だったかもしれないと思った。
公爵夫人は、寂しげに眉を下げておくるみを揺らす。
「この子は、旦那様の恋人から産まれたの」
「恋人って……。不倫相手の子どもを育ててらっしゃるのですか……」
シャロンデイル公爵の不倫相手は、切り裂きジャック事件の被害者だ。
トレヴァーの情報によると、被害者は公爵の子どもを出産したが認知されなかったとして、養育費を請求する裁判を起こしていた。
請求者が亡くなったので、裁判自体が取りやめになったそうだが、子どもの行方については聞いていない。
(その子が、この赤ちゃんだったんだわ)
泣きやんだ赤ちゃんを、公爵夫人は優しい眼差しで見守っている。
結婚相手の裏切りの証を大切に育てている彼女は、慈愛に満ちた素晴らしい人だ。
けれど、それで本当に幸せだろうか。
喉の奥がつまったように苦しく感じるのは、私だけだろうか。
「私がそんな状況になったら、怒ったり悲しんだりすると思います。スージー様は、公爵殿下をお嫌いにはならなかったのですか?」
「嫌いに? なりませんわ。だって、わたくしの旦那様ですのよ?」
公爵夫人は、私の考えが理解できないらしい。おっとりと眉を下げた。
「旦那様の恋人が死んでしまったんですもの。妻であるわたくしが引き継ぐのが当たり前でしょう。旦那様は、この子を引き取ってから優しくなりましたの。妻として認めて、愛してくださるようになったのですわ」
「それは、少し違うと思います……」
「違う?」
きょとんとする公爵夫人に、真実を突きつけるのは心が痛む。
けれど、私が告げなければ、彼女はこのまま虚像の愛に縛られつづけてしまうような気がした。
「スージー様。殿下は、あなたを妻として認めたわけではありません。不倫相手とのあいだにできた子どもの育児を押しつけるために、優しくしていらっしゃるのです。そんなの卑怯だわ!」
「卑怯でもよろしいじゃありませんか。不完全で愚かしいのが人間の本質ですもの。アリス様だってそうでしょう? そんな指輪をはめているなんて――」
らしくないことを言いながら、夫人は私の右手首をつかんだ。
薬指には、ジャックからもらった指輪がある。
「――切り裂きジャックから贈られた宝石なんて身につけていたら、婚約者に愛想を尽かされてしまいましてよ。ナイトレイ伯爵はロンドンから出られないのだから、この機会を活用してもっと親密にならないと。結婚を撤回されてしまったら困るでしょう?」
親切そうな言葉の端々に、聞き流せない毒があった。
私は夫人の手を振りほどいて、床のうえを後ずさる。
ドレスのレースが引きつれて下がれなくなるまで。
「なぜ、この指輪がジャックから贈られたものだと知っているのですか。ダークがロンドンから出られないことまで……」
悪魔の干渉によって、ダークがロンドンに留められていることは、ナイトレイ伯爵家とリデル一家だけが知る秘密だ。
利口なダークが、赤の他人であるシャロンデイル公爵に伝えるわけがない。
だから、公爵夫人も知っているはずがなかった。
他に知っている者がいるとすれば、鏡の仕掛けをほどこした『鏡の悪魔』だけ――。
「あなたが、鏡の悪魔なの?」




