六話 チェシャ猫は二枚舌
公爵夫人とアリスが出て行ったボートハウスには、シャロンデイル公爵とリーズが残された。
公爵は、祝杯用に氷で冷やされていたワインを開けて、手ずからグラスに注ぐ。
室内には芳醇な葡萄の香りが広がる。
リーズは注意して匂いを嗅いだが、アリスが気にかけていた胡椒の香りはほとんどしなかった。
「君は、アリス嬢の護衛だろう。付いていかなくて良かったのかい?」
「はい。公爵殿下にお話がありまして……」
「何かな?」
友好的な笑顔で公爵に近づいたリーズは、逃げられないよう肩に手を当てて、耳元に囁いた。
『――汝、我が導に従え――』
すると、公爵はコルクの栓を落として腕をだらりと弛緩させた。
虚ろな眼差しで、リーズの言葉を復唱する。
「われ、そなたのしるべに、したがう……」
暗示がかかった。リーズの異能は『二枚舌』といって、耳に吹き込んだ命令通りに相手の思考や行動を操れるのだ。
悪魔の子の能力は、人体に異常を招く恐れがある。
他者に作用する二枚舌の能力は計り知れないため、アリスが許可を与えたときと、リーズが必要と感じたときにだけ行使することにしている。
今回の場合は、前者だ。
アリスが求めるならば、リーズは従う。
それで、能力を使った相手が死ぬことになっても。
『――切り裂きジャック事件の真実をつまびらかにせよ――』
命じると、公爵は目を見開いた。「ぐっ」とうめきながら喉を押えて、床に膝をつく。苦しいのか、額には玉のような汗が浮かんできた。
「ちょっと、大丈夫?」
公爵の背を撫でながら、リーズはさまざまな可能性を考えた。
烙印の能力による副反応か、もしくは暗示を凌駕するほどの反発心か……。
息を楽にさせるため、首を抑えていた手をどけると、公爵の喉仏のうえに円形の紋章が浮かび上がっていた。
円のなかは見たことのない文字でびっしりと埋められている。
「悪魔の印じゃないの、これ……!」
悪魔が烙印を押すのは、生者を操る場合と、死人を蘇らせる場合だ。
つまり、シャロンデイル公爵は、どこかの悪魔によって『切り裂きジャック事件』の真実を話せないように術をかけられている――。
リーズの背筋が、ゾワっと怖気だった。
「公爵が操られているってことは、公爵夫人も同じようにされているかもしれないわ」
急いで術を解き、気を失った公爵を椅子に座らせる。
ボートハウスを飛び出すが、辺りにアリスと公爵夫人の姿は見当たらない。
「どこに行ったの……」
桟橋には遊覧船に乗る人々が行列を作っていて、ロンドン橋を多数の観衆が往来している。木を隠すには森のなか。人を隠すには人混みのなかが適当だ。
この中に紛れてしまったら、探し出すのは困難である。
「返事をして、お嬢!」
リーズは、大切な少女の姿を求めて、群衆へと突き進んでいった。




