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【翻訳英語版③巻発売】悪役アリス  作者: 来栖千依
第五章 プリンセス・アリス号の悲劇

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六話 チェシャ猫は二枚舌

 公爵夫人とアリスが出て行ったボートハウスには、シャロンデイル公爵とリーズが残された。

 公爵は、祝杯用に氷で冷やされていたワインを開けて、手ずからグラスに注ぐ。


 室内には芳醇な葡萄の香りが広がる。

 リーズは注意して匂いを嗅いだが、アリスが気にかけていた胡椒の香りはほとんどしなかった。


「君は、アリス嬢の護衛だろう。付いていかなくて良かったのかい?」

「はい。公爵殿下にお話がありまして……」

「何かな?」


 友好的な笑顔で公爵に近づいたリーズは、逃げられないよう肩に手を当てて、耳元に囁いた。


『――汝、我がしるべに従え――』


 すると、公爵はコルクの栓を落として腕をだらりと弛緩させた。

 虚ろな眼差しで、リーズの言葉を復唱する。


「われ、そなたのしるべに、したがう……」


 暗示がかかった。リーズの異能は『二枚舌おおうそつき』といって、耳に吹き込んだ命令通りに相手の思考や行動を操れるのだ。


 悪魔の子の能力は、人体に異常を招く恐れがある。


 他者に作用する二枚舌の能力は計り知れないため、アリスが許可を与えたときと、リーズが必要と感じたときにだけ行使することにしている。


 今回の場合は、前者だ。

 アリスが求めるならば、リーズは従う。


 それで、能力を使った相手が死ぬことになっても。


『――切り裂きジャック事件の真実をつまびらかにせよ――』


 命じると、公爵は目を見開いた。「ぐっ」とうめきながら喉を押えて、床に膝をつく。苦しいのか、額には玉のような汗が浮かんできた。


「ちょっと、大丈夫?」


 公爵の背を撫でながら、リーズはさまざまな可能性を考えた。

 烙印の能力による副反応か、もしくは暗示を凌駕するほどの反発心か……。


 息を楽にさせるため、首を抑えていた手をどけると、公爵の喉仏のうえに円形の紋章が浮かび上がっていた。

 円のなかは見たことのない文字でびっしりと埋められている。


「悪魔の印じゃないの、これ……!」


 悪魔が烙印を押すのは、生者を操る場合と、死人を蘇らせる場合だ。


 つまり、シャロンデイル公爵は、どこかの悪魔によって『切り裂きジャック事件』の真実を話せないように術をかけられている――。


 リーズの背筋が、ゾワっと怖気だった。


「公爵が操られているってことは、公爵夫人も同じようにされているかもしれないわ」


 急いで術を解き、気を失った公爵を椅子に座らせる。

 ボートハウスを飛び出すが、辺りにアリスと公爵夫人の姿は見当たらない。


「どこに行ったの……」


 桟橋には遊覧船に乗る人々が行列を作っていて、ロンドン橋を多数の観衆が往来している。木を隠すには森のなか。人を隠すには人混みのなかが適当だ。


 この中に紛れてしまったら、探し出すのは困難である。


「返事をして、お嬢!」


 リーズは、大切な少女の姿を求めて、群衆へと突き進んでいった。


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