五話 プリンセス・アリス号進水式
少しでも見えたなら、赤ちゃんの生死は分かるのに。
後ろに控えていたリーズに、どうしよう……と視線を送るが、首を横に振られた。
公爵も、いきなり体操しだした私に顔を引きつらせているし、これ以上は探らない方が良さそうだ。
(仕方ないわね。進水式を終えてから、公爵夫人を追求しましょう。公爵と被害者の関係を知っているかどうかだけでも、ここで尋ねておきたいわ)
スタッフに呼ばれたので、リーズとはいったんお別れだ。
公爵と公爵夫人に挟まれて桟橋のそばに移動する。
ロンドン橋の欄干にずらりと並んだ聴衆に手を振ると、笑顔で振り替えしてくれた。
最近、近くで恐ろしい猟奇殺人事件が起きたとは思えない盛況ぶりだ。
水際に三人で並ぶと、金管のファンファーレが鳴り響いて、進水式は幕を開けた。
はじめに、船の持ち主であるシャロンデイル公爵が、式典を開ける挨拶をする。
『本日は天気にも恵まれ、プリンセス・アリス号の門出にふさわしい日となりました。そもそも私が遊覧船の事業を始めようと思い立ったのは――』
スピーチというのはどこの国でも長いものだ。
手持ち無沙汰な私に、スタッフがシャンパンの入った化粧箱を開けて中を見せてくれた。
ベルベットを張った土台に、グリーン色の酒瓶が収められている。
ラベルを読む私に、公爵夫人が小声で話しかけてくる。
「アリス様のために上等なお酒を用意しましたのよ。船体は硬いので、思い切りぶつけてしまえば、令嬢の力でも難なく割れます。心配なさらないでも大丈夫ですわ」
「もしも上手に割れないと、どうなるのですか?」
「航海中にトラブルが起きると言われていますわ。座礁したり、遭難したり、乗組員の喧嘩が絶えなかったりするそうです」
思いの他、責任重大だった。軽い気持ちで引き受けるべきではなかったと、今さらながらに思うが後の祭りだ。
『――というわけです。ぜひ、恋人同士やご家族、ご友人をお誘い合わせのうえ、この船での遊覧をお楽しみください。それでは、航海の無事を祈って、麗しいご令嬢にシャンパン割りをしていただきます。本日は、リデル男爵家のアリス嬢に来ていただきました。よろしく頼むよ』
「はい!」
返事をして桟橋に歩き出す。
ロンドン橋に集まった人々の期待が、視線となって私に飛んでくる。
(ここで割れないとガッカリさせてしまうわ)
スタッフから酒瓶を受け取った私は、すうっと深呼吸して心を落ち着けた。
落ち着こう。平常心でやればきっと上手くいく。
『それでは、アリス嬢による、シャンパン割りです』
公爵の合図で、演奏隊がドラムロールを奏で出した。ドロロロロと響く鼓は、じょじょに大きくなっていく。
場の期待を盛り上げきったところで、シンバルがジャンッと鳴った。
――今だ!
私は、桟橋を踏み切って酒瓶を放り投げた。
くるくると回転しながら飛んでいった酒瓶は、船体にぶつかるとガシャンと音を立てて割れる。
黄金色の泡が弾けるシャンパンが船にかかると、成功を報せるファンファーレが吹き鳴らされた。私は、心のなかでガッツポーズをとった。
(やったわ!)
『お見事でした。レディ・リデルに拍手を!』
盛大な喝采に私は一礼した。達成感を抱えて公爵たちの元へ戻ると、二人とも笑顔で迎えてくれた。
閉会の挨拶を終えた公爵に引き続いて、私と公爵夫人はボートハウスに入る。公爵は、賛辞を述べて私に握手を求めてきた。
「素晴らしい投球フォームだった。ご令嬢は、よく気を失って倒れるから、か弱いと思いこんでいたが、君はきちんと鍛えているね。何かスポーツでも?」
「射撃を少々たしなんでおります」
公爵の手を握り返した私は、ポシェットを反対の手で覆いかくす。
隠している拳銃は鉄製で重たい。火薬が弾けたときの反動も強いので、日頃から訓練をしなければよろけてしまうのだ。
そもそも、令嬢がよく倒れるのは、コルセットをキツく締めすぎて貧血になったり、密室で灯した蝋燭のせいで二酸化炭素中毒になったりするためである。
決して、か弱いせいではないのだが、倒れる様子を見ると男性諸君は守りたくなるらしいので、あえて女性側から訂正することはない。
私もご多分にもれず、上品に笑ってみせる。
(この世界の住民は知らないでしょうけれど、乙女ゲームの主人公はタフじゃないと務まらないのよ)
ゲーム内で流れる時間は有限だ。
学園が舞台だったら、卒業までに。異世界が舞台だったら、最後の大イベントが起きる日までに。日課のミニゲームやルート上のイベントを消化して、攻略対象キャラクターの好感度を上げておく必要がある。
効率よく攻略するために、午前中に敵を倒して、午後はイベントを求めて遠出し、夜にはわざと部屋から出かけて攻略対象とうっかり遭遇する生活を、連日のように続けるゲームもあるくらいだ。
主人公は、恋愛に興味がなさそうな顔をして、しっかり場数を踏んでいくのである。
プレイヤーは、ぽちぽち手元で操作するだけなので楽だが、実際に行動するとしたら屈強な体力とメンタルとポテンシャルが必須。その点は『アリス』も他と変わらない。
作り笑いで場を和ませる私に、公爵夫人がおっとりした笑顔で話しかけてきた。
「素晴らしいシャンパン割りでしたわ。ナイトレイ伯爵は、あとで評判をお聞きになって、アリス様の雄姿をご覧になれなかったことを残念がるでしょうね。旦那様。進水式は終わりましたから、アリス様と二人でお話ししてきてもよろしいでしょうか?」
おくるみを揺する公爵夫人に、公爵は、ほっとした顔で答える。
「かまわないよ。我が家のボートを使いなさい。子どもはわたしが預かろうか?」
「いいえ。お世話はわたくしがいたしますわ。では、アリス様。こちらへどうぞ」
「はい」
公爵夫人はボートハウスの出口へ向かった。その後を追いながら、私は隅に控えていたリーズに視線を送る。
(スージー様を引きつけておくから、後はお願いね)
小さく頷いたリーズは、すれ違いざまに舌を出した。
そこには、黒い薔薇の烙印が浮かび上がっていた。




