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【翻訳英語版③巻発売】悪役アリス  作者: 来栖千依
第五章 プリンセス・アリス号の悲劇

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四話 泣かない赤ちゃん

 ずれ落ちそうになった眼鏡を押さえたのは、トレヴァーだった。


 今日も今日とて法服を着ていて、緋色の垂れ布にはロンドン橋近くの屋台で売られている『プリンセス・アリス号進水式記念』のピンバッチを付けていた。

 彼なりに、このお祭り騒ぎを楽しんでいるようだ。


「ぶつかって申し訳ありません、トレヴァー判事」

「あああ、アリス様でしたか! こちらこそフラフラしていてすみません。進水式へのご招待ありがとうございました!」


 トレヴァーは、ペコペコ謝ってから、私の周りや後ろを見回した。


「なにか?」

「あの……今日は、天使たちは来ていないのですか?」

「双子はお留守番ですの。今日は、別の護衛がついております」

「そうですか……」


 しょぼくれるトレヴァーが可哀想だったので、「あとでお屋敷にいらしてください」と声をかけて別れた。

 彼には、進水式のあいだ、貸し切った二階のバルコニー席で、ダークと共に待機しているように頼んでいる。


 私が公爵から事件にまつわる有力な情報を引き出せたら、保証人になってもらって警察にたれ込む算段だ。


「待たせてごめんなさい、リーズ。行きましょう」


 レストランの入り口で待っていたリーズは、黒い細身のスーツにいつものストールを合わせた前世風のスタイルだ。

 濃淡ピンク色の差し色が目立っていて、チェーンベルトと片耳に付けた蛇のピアスが、着こなしを引き締めるアクセントになっている。


(トレヴァー判事も蛇のモチーフを身についていたわね。流行っているのかしら?)


 私は、ファッションの流行に疎い。

 困ったときはリーズに相談して済ませてしまうので、知識が身につかないのだ。

 アクロスティックを用いた宝飾品なんて、切り裂きジャック事件がなければ一生知らずにいただろう。


 リーズは、店の入り口から顔を出して、通りに怪しい人物がいないか目視する。


「――いいわよ、お嬢」


 合図を受けた私は、彼に連なる形で店を出る。川沿いの道も人でごった返していて、気を抜くとはぐれてしまいそうだ。


「こうも人が多いと、誰が敵か分からないわね……」


 アイスを持って楽しげに歩く恋人たちや、川岸に生えた木々の下でピクニックする子どもたち、船の大きさに驚いてぽかんと口を開けている人々――疑い出すと、その全てが敵に見える。


「我が家に恨みを募らせている相手とどこで遭遇するかは、分かったものではないわ。警戒を怠らずに進みましょう」


 リデル男爵家は、裏社会で暗躍する家業ゆえに、多くの人に恨まれている。

 そのため父は、私に殺されないための英才教育を施した。周囲への警戒の仕方から、受け身の取り方、反撃する方法まで多岐に渡る。

 より多くの戦術を知っていれば知っているほど、生き残るチャンスが生まれるからだ。


 私のポシェットには、護身のための拳銃が入っている。

 ただの貴族令嬢は、こんな物は恐ろしくて持ち歩けないだろうが、危険な物だからこそ私には必要なのだ。


 リーズの腕に手をかけて進んで行くと、じょじょに遊覧船の大きさが明らかになってきた。


 船の全長は六十六メートルで、重量は四三二トンもあるという。

 蒸気機関の煙を吐きだす巨大な煙突が二砲ついているのが特徴で、帆を張るマストのてっぺんには大英帝国とシャロンデイル公爵家の紋章を縫い取った旗がはためている。


 紺色の船体には『プリンセス・アリス号』と記されていた。


 船の名前は、船首から船尾に向かって書かれるのが普通だ。私は『ALICEアリス』と書かれた文字を『ECILAイーシラ』と読み上げて、逆だったと気づいた。


 丸太を組み上げたログハウス風のボートハウスに辿りつく。


 式典の準備をするスタッフに到着を告げて扉を開けると、中にいたシャロンデイル公爵と公爵夫人が椅子から立ち上がった。


「本日の主役がご登場だ。今日も美しいね、アリス嬢」


「ありがとうございます。ドレスは、ナイトレイ伯爵に見立てていただきました。彼は残念ながら式典には来られないそうで、公爵殿下によろしくと伝言を預かって参りました」


「仕事が忙しいのは何よりだ。アリス嬢の御身は、私が責任を持って預かるから安心してほしい。いい式典にしよう」


 公爵は紳士らしい黒の三つ揃いにシルクハットという正装で、公爵夫人は可憐なツーピースドレスを身に着けている。

 腕に抱えるおくるみだけが、前に会ったときと変わらない花柄だ。


 香りは薄いが、ふんわりと胡椒の匂いがする。近くに軽食は置かれていないので、二人の衣服に染み付いた匂いだろう。


(今日も赤ちゃんが静かすぎるわね)


 私がじいっと見つめていると、公爵夫人は、聖母のような微笑みを浮かべて、おくるみを抱き寄せた。


「アリス様、どうかなさいまして?」

「いえ! 進水式に出るのは初めてなので緊張しておりますの。上手にシャンパンが割れるといいのですが。体の緊張をほぐすために、伸びをさせてくださいませ」


 両手を組んで真上に伸ばす。伸び上がった拍子に、おくるみの中が見えないかと思ったが、あやす公爵夫人によって絶妙な位置でかわされてしまう。

 ラジオ体操の要領で体をひねったり、上体を倒したりしてみたが、今度は背を向けてミルクの準備を始められてしまった。


(うーん、手強い!)


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