16話 第三次信長包囲網
天正4年1月に信長は丹羽長秀を総奉行(現代で言う総監督)に任命し琵琶湖沿岸に安土城の築城を命じた。
そして同年1月織田に従っていた、丹波国の波多野秀治が反旗を翻した。さらに本願寺も再挙兵したなど、天正4年に入って反信長の強まった。
4月に入ると、明智光秀、荒木村重らと共に善郎が信長に大坂に派遣され本願寺を攻撃した。
善郎を先鋒に戦は始まった。
「臆するな!どんどん突き進め!」
「殿、あれをご覧ください!」
善郎の目の前に八咫烏の旗を掲げる多くの鉄砲隊が広がっていた。
そして、敵の掛け声と共に鉄砲隊の一斉射撃を善郎部隊は受けてしまった。これにより善郎は足を撃ち抜かれ負傷してしまった上、将兵たちも多く戦死してしまった。
本願寺に鉄砲の扱いに熟知した紀州雑賀衆が味方したために織田軍は苦戦を余儀なくされ、天王寺砦に撤退し、そこに立て籠もった。
本願寺は、天王寺砦に立て籠もった織田軍を包囲した。
包囲を受けた織田軍は信長に救援要請を行った。
5月5日に救援要請受けた信長は、救援の為に出陣した。それと同時に池田勝正、三好義継も救援に向かった。
信長たちは、寡兵ながら本願寺の包囲を解くための戦いを始め、この戦いで先頭で指揮を信長が行った。
そのおかげで本願寺を押し返すことに成功したが、信長も負傷してしまうなど、本願寺との一進一退の攻防戦が続いた。
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天王寺砦での戦い後に、信長は佐久間信盛を置き、本願寺を陸海から包囲し、物資などを運び込めないように経済的に封鎖したが、毛利輝元が石山本願寺の要請を受けて派遣した毛利水軍など700~800隻程度が、本願寺の援軍として大阪湾木津川河口に現れた。
これを迎撃するために織田水軍は戦いに挑んだが、毛利水軍が使用する、焙烙玉や火矢の前に織田水軍は壊滅した。
これにより、兵糧や弾薬が運び込まれてしまった。
これらとほぼ同時期に上杉謙信もこれまで敵対していた本願寺との和睦を成立させ、信長との対立を明らかにした。
丹波の波多野秀治や本願寺、毛利、紀州雑賀衆に続いて越後の龍上杉謙信が結託し、第三次信長包囲網が形成された。
この新たな包囲網によりこれまで優位だった戦況が揺らぎ初めていた。




