15話 長篠の戦いと越前制圧
天正2年正月、朝倉氏を攻略して織田領に越前国で、地侍や本願寺門徒が反乱が起こりこれを俗に言う越前一向一揆は、信長に守護代に任命されていた、朝倉旧臣の桂田長俊が一乗谷にて殺害された。
同年に武田信玄の跡を継いだ武田勝頼が織田領の東美濃と徳川領の遠江国に侵攻し、東美濃では明智城が陥落した。
畿内でも本願寺との戦闘が激化し、池田勝正は難色を示したが善郎たちは摂津の荒木村重と共に本願寺や三好の城を陥落させていく。
そして荒木村重が本願寺方の大和田城を攻略したのをきっかけに信長は本願寺方の城、高屋城に向けて10万を率い出陣した。
それを受けて義継を除く三好一族の生き残りにして最後まで信長に抵抗していた三好康長が織田に寝返り、そして信長は康長を使い本願寺と一時的に和睦した。
康長は義継の家臣として組み込まれ、これにより信長包囲網の一翼であった三好家が脱落した。
「孫六郎(義継)殿、この戦いを早くを終わらすことができたのは、孫六郎殿のおかげです。誠にありがとうございます。」
「それは善郎殿の協力のおかげでもあります。」
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そして天正3年4月に武田勝頼率いる武田軍が徳川方の城、長篠城を攻撃した。
武田軍は長篠城の善戦により攻略に手間取り、その間の5月12日に信長は岐阜から出陣し、途中で徳川軍と合流すると、5月18日に三河の設楽原に陣を敷いた。
一方、武田軍は川を渡り、織田・徳川連合軍に備えて布陣した。
織田・徳川連合軍の兵力は3万人、対する武田軍は1万5000程の兵力だった。武田軍は数こそ少ないが配下の武将は猛将の内藤昌豊、馬場信春などがいる上、兵士も精鋭が多くいた。
そして5月21日に織田・徳川連合軍と武田軍の戦いが始まった。信長はこの戦いの為に3000丁火縄銃を用意していた。
そのことを知らない武田軍は武田騎馬隊で突撃を敢行し、それを受けた織田・徳川連合軍が鉄砲の一斉射撃を行い武田騎馬隊を壊滅させた。
これにより武田軍の多くの武将が討ち死にし1万以上の兵が戦死した。これに対し連合軍は60ほどの犠牲に抑えることができた。
この戦いで武田家の勢力が大幅に弱体化し、反信長勢力の土台を支える柱が一本が崩れ、崩壊寸前になった。
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その頃、越前国を奪った本願寺門徒内部では地元の門徒と本願寺から派遣された門徒との間に軋轢が生じ内部分裂が始まっていた。
これを聞いた信長は、長篠での戦いが終わった直後の8月に越前に出陣した。
この戦いで善郎は、7000の部隊を率い先鋒として侵攻していく。
一揆軍は内部分裂しているため、協力して織田軍を迎撃することができず、本願寺から派遣されていた下間頼照など、計1万以上の本願寺門徒が討ち取られた。
越前をまた織田の支配下に収めることに成功し、その後本願寺との和睦に成功させ、反信長勢力を屈服させた。
織田信長は天下人として台頭することになった。




