表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
戦国タイムスリップ(仮)  作者: 飛龍
14/21

14話 

元亀3年の11月に突如として甲斐の虎武田信玄が織田方だった岩村城を急襲し占拠した。

徳川領の遠江国にも武田軍が侵攻し徳川軍を打ち破って行った。

これに対し信長は、徳川家康に佐久間信盛を援軍に送ったが、12月の三方ヶ原の戦いで織田・徳川連合軍は武田に敗退した。


この敗戦を受けて将軍足利義昭は従来の信長との協調路線に不安を覚え、翌年元亀4年武田信玄が三河に入るのと同時期に将軍義昭は織田打倒を掲げ京にて挙兵し二条城に籠城した。


信長は義昭との和睦を図ったが、義昭はこれを拒否した。


だがここにきて義昭に誤算が生じた。それは甲斐の虎武田信玄が病死したのである。

これにより信長は義昭に集中でき、明智光秀と善郎たち三人衆に二条城攻略を命じた。


善郎は二条城を取り囲むと、総攻撃を掛け戦闘らしい戦闘をも起きることなく義昭を捕縛し、二条城は陥落した。


そして信長は将軍義昭を追放し、15代続いた室町幕府は滅亡した。


その上池田勝正を裏切った荒木村重が織田に帰順しその証として摂津の一部だけだが勝正に返還された。


ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

翌年天正元年8月に浅井家臣、阿閉貞征が織田に寝返ったので、急遽信長は北近江に侵攻した。

善郎は5000の兵と手に入れた水軍を使い浅井領の北部の城を次々と攻略していく。


善郎が小さな砦を落したときに、

「殿、織田の上様が朝倉の援軍を打ち破ったため、我々が追撃し越前を攻め落とすようにと命令が下りました。」

「あいわかった、ではここに忠道と義政を置いて、それ以外の者は私に着いてこい。」


1000を置いて4000を率い善郎は越前に撤退する朝倉軍を追撃しながら城を占領していく。


越前の中腹まで進むと先に侵攻していた2万5000の部隊と合流した。そして善郎たちは刀根坂で朝倉軍と激突した。


朝倉軍は勝ち目がないと見て撤退しょうとするが善郎はそれを見て追撃を行った。


この戦いにより朝倉軍は壊滅し、朝倉家当主、朝倉義景は居城の一乗谷に逃亡した。

しかしそこでも守り切れないと判断した義景は一乗谷を捨て北にまた逃亡したが、織田と内通していた朝倉一門衆の朝倉景鏡に裏切られ自害した。


小谷城では、木下藤吉郎が城を占領し浅井親子が自害した。


浅井・朝倉を滅亡させた信長はこの勢いに乗り9月に長島一向一揆を鎮圧する為に出陣する。


織田軍は最初こそ苦戦を強いられたが、一向一揆を鎮圧することに成功した。


それと同時期に足利義昭もまた兵を起こそうとしたが三好義継と家臣松永久秀が義昭の軍を打ち破り、義昭はまたもや逃亡した。


史実とは違い三好義継が裏切らなかった為、畿内では織田家が優位を盤石なものにしていった。


この一連の戦いに敗北を続けた反信長勢力は日を追うごとに弱体化していくのであった。







評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ