13話 比叡山焼き討ち
元亀元年9月
近江に戻ってきた織田軍は近江宇佐山城にて浅井・朝倉連合軍と対峙する。しかしその間に伊勢国の本願寺門徒が挙兵し、俗に言う長島一向一揆が発生しここでも信長の弟である織田信興が自害に追い込まれてしまった。
ここで追い詰められた信長は12月13日に正親町天皇の勅命を仰ぎ浅井・朝倉と和睦に成功し、窮地を脱した。
この怒涛の1年を生き抜き一時領地に戻った疲労困憊の善郎たち一行は屋敷にて酒を皆で飲みながら束の間平和を味わっていた。
「この戦はいつまで続くのかわからない、だが皆でこれからも続くこの茨の道を共に乗り越えよう。」
そう決意した善郎一行は来年に向けて早々に準備を始めた。
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元亀2年に入ると戦争は激化、近江では浅井家臣を寝返らせ佐和山城を手に入れるとそのままの勢いで木下藤吉郎と善郎率いる1000の兵士で横山城を奪取する。
近江での優位に立ったため、信長は長島一向一揆を鎮圧する為に5月に出陣する。
長島では最初は優位にことを進めたが一回軍を休ませる為に退こうとしたが、撤退途中に一揆軍の奇襲攻撃を受けたがすぐに撤退することができた。
しかしその際、柴田勝家が負傷しその他数名の織田家臣が討ち死にという信長にとって手痛い敗北となってしまった。
同年9月に信長は善郎、明智光秀、三好義継、池田勝正らに浅井・朝倉に味方した比叡山延暦寺を攻めるようにと命令を出した。
この織田の動きを察知した延暦寺は黄金の判金を300枚、また比叡山傘下琵琶湖の港湾商業都市、堅田からも200枚贈って攻撃中止を嘆願したが、信長はこれを受け入れず追い返した。
ここに至り戦闘止むをえないとしたのか、坂本周辺に住んでいた僧侶、僧兵達を山頂にある根本中堂に集合させ、また坂本の住民やその妻子も山の方に逃げ延びた。
そして翌日に善郎たち三人衆率いる5000の部隊で堅田に入った。
「堕落した糞坊主どもを殺せ!一人も逃すな!仏閣も全て破壊するのだ!」
堅田の寺を1時間も掛からずにすべて破壊し、町に残っていた僧兵もほぼ死亡した。
善郎たちが堅田で暴れている頃、明智光秀率いる本隊が比叡山に討ち入り延暦寺に集まっていた僧兵を根切りにし、火を放ち建物すべてを丸焼きにした。
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後に比叡山の焼き討ちと言われる戦いが終わると信長は比叡山の寺領、社領を没収しそれを焼き討ちに参加した村山善郎、明智光秀、池田勝正、三好義継らに分配された。
明智光秀は坂本城を築城し、池田勝正は2万石を与えられた。三好義継は与えられた所領に与力を派遣して、善郎は発展した商業都市の堅田と堅田が保有していた水軍が与えられ所領も15万石に加増された。
この戦いのおかげで琵琶湖の制海権を掌握でき、莫大の富が織田にもたらされ、なおかつ本願寺の勢力をやや弱体化させることができ、中世から近世にと歴史的転換期になった。




