3. おのこたるものおなごの趣味嗜好はいかなるものでも受け入れるんじゃ
『おのこたるものおなごの趣味嗜好はいかなるものでも受け入れなければならぬ』
祖父ちゃんはそう言って遠い目をしたことがある。
いつもの優しい祖父ちゃんでも、武術を教えてくれる時の厳しい祖父ちゃんでも無かった。
その目は虚無に満ちていて、何か途方もない昏い体験をしたのだと幼い僕にも感じられた。
結局祖父ちゃんが亡くなるその時まで、この教えの意味を確認することは出来なかった。
そして今、その意味がほんの少しだけ分かる機会がやってきてしまった。
「さようなら、山瀬さん」
「しゃ、しゃ、しゃようなら!」
あの事件以降、僕は山瀬さんとこうして軽く挨拶程度はする間柄になっていた。
毎回噛むのが気になるけれど、もしかして方言だったりするのかな。
そんなことを考えながら帰宅すべく廊下を歩いていたら、後ろから猛スピードで誰かが走って来て僕を追い抜いた。
小柄な女の子だった。
「ごめんなさーい!」
ほんの少しだけ僕に当たってしまったからか、彼女は謝りながらもスピードを緩めず走り去った。
あんなに慌ててどうしたんだろうか。
「一組の畑尾さんね」
いつの間にか隣に関さんが居た。
「そうなんだ。知り合いなの?」
「私が良く通う本屋で良く見かけるのよ。それで何となく気になって」
本屋か。
最近は電子書籍ばかりで僕は久しく行ってないな。
たまには行ってみようかな。
「良ければその本屋教えてよ。関さんがお気に入りのお店なら行ってみたいから」
「はうぅ」
「大丈夫!?」
う~ん、まだ立ち眩みが起こりやすいみたい。
病院に行くように勧めてるんだけど、行ってくれたのかな。
「だ、大丈夫よ。あれ、これって何かしら」
「え?」
僕らの足元に一冊の本が落ちていた。
カバーがかけられているから内容は分からない。
「そういえばさっき畑尾さんが通り抜けた時に何かが落ちたような音がした気がする」
「だとするとこれは畑尾さんのものかもしれないわね。彼女の机に入れておきましょうか」
「う~ん、でももしかしたら無くしたことに気付いて焦ってるかも。早めに返してあげた方が良いと思う。間に合うか分からないけど追いかけてみるよ」
僕は本を自分の鞄に仕舞い、畑尾さんを追い始めた。
「椙山君!もし畑尾さんを見失ったら駅前の三幸スポーツの裏手にある春華童書店に行ってみて!」
「分かった、ありがとう!」
関さんに片手ハートマークでお礼を伝えながら、僕は畑尾さんに追いつくべく急いだ。
後ろで何かが倒れる音が聞こえた気がしたので慌てて振り向いたけど、近くに居た女子が介抱してくれているので大丈夫だろう。
結局畑尾さんに追いつくことは出来なかった。
でも関さんのアドバイス通りに本屋に向かったらそこで発見した。
丁度何かを購入し終えたタイミングで、とても嬉しそうな顔で本屋から出て来た。
欲しい本があってすぐにでも買って読みたかったからあんなに急いでたのかな。
せっかく嬉しいことがある日に、本を落としたことに気付いて悲しい気持ちにさせるのは忍びない。
僕は本を返すために畑尾さんに声をかけた。
「あの、畑尾さんですよね」
「す、す、椙山くん!?」
畑尾さんは小さな口をあんぐりとあけてお手本のように驚いている。
近くで見ると思っていたよりも小柄な子だった。
童顔で可愛らしくて思わず頭を撫でて愛でたくなってしまいそうな雰囲気の子だ。
「ど、どどど、どうして椙山くんが私みたいな可愛くも無いモブオブモブなんかに話しかけ……はっ、これは夢ですかぁ!」
「夢じゃなくて現実だよ。それに畑尾さんはとても可愛いよ」
「かわっ!撫でっ!」
「あ、ごめん!」
我慢できなくなって思わず撫でてしまった。
僕は慌てて手を離した。
『おなごの髪は国宝だと思い接するのじゃ。決して不用意に触れてはならんぞ』
って祖父ちゃんからも言われていたのに。
畑尾さんがどういう性格かもまだ知らないのに、あまりにも不用意だった。
「嫌じゃないれふぅ!」
本当かな。
真っ赤になってるけど本当は怒ってるんじゃ。
畑尾さんはぷるぷるしながら頭を僕の方に差し出して来た。
やっぱり本当は嫌だけど僕に気を使って仕方なくやってるんじゃ。
でも畑尾さんが僕の事を想って覚悟を決めたのだとしたら、その気持ちを無下には出来ない。
『もし撫でる許可が得られたならば、死力を尽くして愛でるのじゃ』
祖父ちゃんに教えて貰ったテクで、畑尾さんに満足してもらうぞ。
「ふぁあああああああぁ!」
よし、畑尾さんの頬が良い感じに緩んでいるから喜んでくれていることが僕にも分かるぞ。
誰かの頭を撫でるのは久しぶりだったけれど、まだ僕の腕は錆びついていないみたいだ。
「ふぁあああああああぁ!」
畑尾さんの頭は撫でるのに程良い高さで髪質も良くて撫でがいがある。
気持ち良くて撫でる手が止まらないや。
「ふぁあああああああぁ!」
この感じ、癖になりそう。
もう少しだけ、もう少しだけ。
「あの……ここ店の前ですから」
「あ」
何故か顔を赤らめた店員さんに窘められたので、僕らは場所を移動した。
「こ、こっここっこっこここっこ」
鶏かな?
「これは私の本じゃないですかぁ。一体どこでこれを!?」
近くの公園に移動して、当初の予定通りに本を畑尾さんに手渡した。
やはりこれは彼女のものだったようだ。
僕は本を拾うまでの経緯を説明してあげた。
「ありがとうございましたああああぁ!」
「ちょっ!畑尾さん!」
途端に彼女は地面に伏せて頭を下げる。
土下座である。
生で見たのは初めてだよ。
ってそうじゃないでしょ!
「そういうのは要らないですから。ほら、立って!」
こんな姿を周りの人に見られたらなんて思われるか分からない。
慌てて彼女を立ち上がらせた。
「これを見られたら不登校になるところでしたぁ」
「そんなに!?」
見られたら不登校になる本って一体何なのさ。
というか、拾ったのは僕だけど良いのかな。
「っていうか僕は?」
「え……きゃあああああああぁ!」
だから叫ばないでって、僕が彼女を襲っているみたいに見えちゃうじゃないか。
もしかしてこの子、僕に中身を見られた可能性に気付いていなかったのか。
ポン……おっと、失礼なことを考えるところだった。
「大丈夫、中は見てないから!」
「ほんとぉ?」
「うん、見てない見てない」
なんとか畑尾さんは落ち着いてくれた。
「はぁ~良かったぁ。これがBL漫画だなんて知られたら自殺モノでしたよぅ」
「え?」
「あ」
失態に気付いた畑尾さんは青ざめている。
赤くなったり青くなったり忙しい女の子だ。
「………………死にますぅ」
「わ~待って待って。僕は気にしないから!」
「嘘ですぅ!そんなはずありません!内心では私の事を気持ち悪いと思っているはずですぅ!」
「そんなこと無いから!」
「じゃあ椙山くんは男の人が好きですかぁ?」
「それはないです」
「うええええん!やっぱり気持ち悪いって思われてるぅ!」
「どうしてそうなるの!?」
僕の趣味嗜好とは違うだけで、別に畑尾さんの趣味を嫌悪する気持ちなんてこれっぽっちも無いのに。
その後、暴走する畑尾さんをどうにかして宥めて落ち着かせた。
「お願いですから、このことは誰にも言わないでくださいぃ。なんでもしますからぁ」
「畑尾さんが嫌がるなら絶対に言わないよ」
「……」
「どうして残念そうなの?」
「いえ、別にぃ」
変な事言ってないと思うんだけどなぁ。
「もしかして今日急いでたのも、好きな本が発売されるからとか?」
「はい、そうなんですぅ」
やっぱりそうだったのか。
「それだけ夢中になれる程に好きなものがあるって素敵なことだね」
「え?」
僕は無我夢中になる程の趣味は無いから少し羨ましい。
「でも、こんな趣味ですよぅ」
「畑尾さんにとっては『こんな』じゃなくて大切な趣味なんでしょう」
「あ……」
別に悪いことをしているわけじゃないんだ。
人に言いにくいのは分かるけど、卑下する必要なんか全くないはずだ。
「僕には分からない世界だけど、畑尾さんが夢中になれるってことは素敵な物語なんだろうね」
「それじゃあこれ読んでみて下さいぃ!」
「え゛」
そう来たかあ。
畑尾さんは僕が拾った本を差し出して来た。
ここで断るのは、無しだよなぁ。
『おなごから差し出されたものを断るなど言語道断』
祖父ちゃんの言葉が僕から拒否する選択肢を奪っていた。
頑張るよ、祖父ちゃん!
触られて……
鳥肌がああああ!
これで成人向けじゃないの!?
「どう……でしたかぁ?」
感想を求められている。
「本当は断りたくないのに素直になれずに拒否してしまった主人公を、相手の人が強引に振り向かせるところとか、好きで好きでたまらないって気持ちが籠ってて素敵だね」
「分かってくれますかぁ!そうなんですぅ、ここは……」
畑尾さんは笑顔になって解説している。
僕はその話の意味が半分も分からなかったけれど、畑尾さんが楽しそうだからいいかな。
祖父ちゃん、僕はなんとか乗り越えて畑尾さんを悲しませずに済んだよ。
と思っていたら、ふと祖父ちゃんの声で幻聴が聞こえた。
『その程度はどうってことないわ』
祖父ちゃん、女の子がちょっと怖くなったよ。
今なんでもするって言ったよね




