47 疲れた時は生姜とレモンの蜂蜜サイダー!
「おぎゃあっ、おぎゃあっ」
山猫亭の外から、赤ちゃんの声が聞こえた。はっとした私は片付けの手を止めて食堂を飛び出した。するとそこには思った通り、アニーさんがいた。アニーさんというのはひと月前に赤ちゃんを産んだばかりで、近所に住んでいるお姉さんだ。
アニーさんに揺らされ、赤ちゃんは泣き止んだ。
「アニーさん、おはよう。今日はお散歩?」
「ええ、ようやく私の体調も良くなってきたから……」
栗色のふわふわした髪を無造作にまとめているアニーさんは微笑んだ。産後の肥立ちがあまり良くないらしく、アニーさんは産後滅多に出歩かなくなった。
「それは良かった! わー、赤ちゃん見てもいい?」
「ええ、もちろん」
許可を取り、私はアニーさんが大事そうに抱いているおくるみの中を覗き込んだ。
「かわいいー! おててが小さいーっ!」
私は思わず叫んでしまい、慌てて口を押えた。赤ちゃんがビックリしちゃうからね。
そして私は再びおくるみの中を覗いた。ぽわぽわとした産毛みたいな髪が生えた赤ちゃんは、アントくん。アニーさんによく似たおめめくりくりの男の子だ。
わー、あかちゃんって本当に小さいんだなー。壊れちゃいそう。なのに泣き声はびっくりするくらい力強く、生命力を感じる。
揺られて眠くなったのか、アントくんはすぴすぴと寝息をたてはじめた。その寝顔はずっと見ていても飽きないくらいだ。元学生の身分だと赤ちゃんなんて滅多に見ないからね。姪っ子も甥っ子もいなかったし、ベビーカーに乗った赤ちゃんはたまに見たけど、そこまで興味を持つことは無かった。
その点アニーさんは山猫亭に旦那さんと来てくれていたし、レシピを教え合ったりしたこともあるので、アントくんも他人とは思えない。
「あ、アントくん寝ちゃったね」
「泣き疲れたのかも。昨夜はずっと泣いてたから」
アニーさんの顔には疲れが見えた。昼や夜の区別がつかない赤ちゃんは四六時中泣くそうで、睡眠不足なのだとか。旦那さんは仕事で不在なことが多く、両親もいないので、ワンオペ状態らしい。
「ねえ、アニーさん。時間があるならちょっと山猫亭に寄って行ってよ。お茶でも飲もう」
「でも、朝の営業時間はもう終わりでしょ? 迷惑じゃ……」
「お昼の営業時間まではまだ時間があるから、大丈夫。ねっ?」
私はアニーさんを山猫亭に招き入れた。ちょうどいいものがあったからだ。
厨房に戻り、私は冷蔵庫の中から大きい密閉瓶を取り出した。
「それは……?」
カウンター越しにアニーさんが尋ねる。
「生姜とレモンを蜂蜜に漬けて寝かしておいたものだよ」
作り方は超簡単。よく洗った生姜とレモンを皮ごと薄くスライスし、生姜の方だけにお湯をかけて水気を切り、レモンと一緒に瓶に詰める。あとは浸るくらい蜂蜜をかけて冷蔵庫で三日くらい寝かせる。これだけ。
「この蜂蜜はヴィーが作ってくれたんだよ。とっても甘いの」
もともと蜂蜜は精製されておらず、見つけた人はその場でカップに垂らして舐める程度だったらしい。それを持ち帰ってもらい、遠心分離器にかけてもらったのだ。山猫亭の朝食で一番安いメニューはパンと飲み物のセットなんだけど、これに蜂蜜を付けて出したら、たちまち大人気商品になり、この町の人たちも食べに来てくれるようになった。今はオリーブオイルか蜂蜜を選んでもらうようになっている。
私は瓶を開けて中身をスプーンですくい、カップに垂らす。蜂蜜に生姜とレモンのエキスがたっぷり入っているはずだ。カップに氷を入れ、瓶から出したレモンを浮かべ、そこに炭酸水を注いだ。シュワシュワした気泡とともに生姜の香りがしてきた。
「はい! 元気いっぱい、生姜とレモンの蜂蜜サイダー!」
私は出来上がったカップをアニーさんの前に差し出した。椅子に座って眠るアントくんを揺らしながら、アニーさんがサイダーを口にする。
「えっ、これは一体何なの? 舌がピリピリするわ。でもとっても甘くて爽やかで美味しい! 不思議な後味ね!」
アニーさんが目を見開いた。舌がピリピリするのはサイダーのせいで、不思議な後味というのは生姜の辛みが少し残ったのだろう。
「生姜にもレモンにも疲労回復の効果があるんだよ。風邪の予防にもなるし」
「へえ、知らなかったわ。ああ、冷たくて美味しい。アントを抱いていると暑くて暑くて」
アニーさんごくごくとサイダーを飲んだ。過ごしやすい気候だとうのに、アニーさんは汗をかいていた。赤ちゃんというのはよほど温かなものらしい。
すると二階から母・カティが下りてきた。
「おや、アニーじゃないか。大丈夫かい、だいぶやつれた様子だけど」
「ええ、初めての育児にてんてこ舞いよ。話に聞くのと実際に育てるのとは大違いね」
溜め息をつくアニーを見て、カティがとんでもないことを言い出した。
「もしよければ、アントくんを預かろうか? アンナが」
「えっ、私が!? 無理無理無理!」
突然思いがけないことを言われ、驚き狼狽えてしまう私。子育てはおろか子守りさえしたことないのに、いきなり他人の子供を預かるなんて危険すぎる。
「少しの間くらい大丈夫さ、私も見ているから。そのひどい顔をどうにかしておいで。そんな顔しているからアントくんも泣くんだよ」
確かにアニーさんの顔には疲労の色がくっきりと見える。日頃お世話になっているし、何とかして助けてあげたい。
「……分かった! 私アントくんの面倒をちゃんと見てるから、アニーさんも休んで!」
承諾すると、アニーさんは喜ぶよりも先に呆然とした顔をした。
「人に預けるなんて、考えたこともなかったわ……」
「私らに預けるなんて不安だろうけど、アニーにも息抜きが必要だよ。家に帰って横になってもいいし、買い物に出かけてもいいし、好きなことをしておいで」
カティにそう言われ、アニーさんは「すみません、お願いします」と頭を下げた。ちょうどアントくんが目覚めたので授乳をしてもらい、二時間ほど預かることになった。
「わあ、軽―い。でも、ずっと抱っこしているのは辛いかも……」
体重は、3キロか4キロくらい? でも落とさないように腕に力が入っているので、結構辛いかもしれない。幸い、お腹いっぱいになったアントくんはすやすやと眠ってくれたので、私は揺らすだけで良かった。
「イラッシャイマセー」
すると食堂の扉を開けてホムンクルスのベアがやってきた。彼(彼女?)はなぜか来るたびに「いらっしゃいませ」と挨拶をするのだ。気に入っているらしい。
「ちょっとベア、静かにっ!」
私は慌ててベアを注意した。
「アンナ、ドウシタノ? イツノマニ、コドモ、ウンダノ?」
「産んでないっつーの。ほら、アニーさんとこのアントくんだよ」
軽くツッコみつつ、私はベアにアントくんを見せる。
「チッチャーイ、カワイーイ」
ベアは両頬に手を置き、アントくんに見入っている。ベアも見た目は10歳くらいの子供だから、私からしてみれば十分小さいんだけどね。
すると今度はラウルスが入口の扉をバタンと開けて入ってきた。
「おい、ベア! 俺を置いて一人で勝手に走るな! 危ないだろ!」
「しーっ!」「シーッ!」
慌ててベアと一緒に人差し指を口に当てたけど、もう遅い。
「ほぎゃあっ、ほぎゃあっ、ほぎゃあっ!」
目が覚めたアントくんが泣き出してしまった。
「もう、ラウルスってば大きな声で! アントくんが起きちゃったじゃん!」
思わず責めると、ラウルスはすぐに状況を把握したらしく、「すまん」と謝った。必死で謝っている様子は、優雅なイメージの騎士からもイケメンからも程遠い。だけどそこがラウルスの良いところだ。
「オギャア、オギャア」
「ちょっと、ベアまで幼児化しないで!」
ベアがアントくんに同調して泣き真似をする。
「よーしよーし、いい子だからね~。お母さんが戻ってくるまで待ってようね~」
ゆらゆらと揺らすけど、アントくんは泣き止まない。すると鳴き声を聞きつけ、裏庭からカティがやってきた。
「なんだい、起きちゃったのかい?」
「すみません、俺の声に驚いたみたいで。これからは静かにしておきます」
「別に静かにしなくてもいいんだよ。人の話し声が聞こえた方が安心するってこともあるんだから。気を使ってたら疲れちゃうだろ。それに赤ん坊は泣くのが仕事なんだ。おむつがよごれてるんじゃないかい?」
カティの言葉で確認すると、確かに布オムツが濡れていた。
「本当だ! お母さん、すごーい」
「だてに子育てしてないからね。あんたのも、ラウルスのも換えてやったもんさ」
「そっかー。ありがとうございまーす」
実際に換えてもらったのは私じゃなくて入れ替わる前のアンナレーナだけどね。
私とラウルスは四苦八苦しながらアントくんのオムツを換えた。するとアントくんは今まで泣いていたのが嘘のように泣き止んだ。赤ちゃんって本能で生きてるんだなー。
カティは「汚れたオムツを洗ってくるよ」と言って再び裏庭へ向かう。
三人で抱っこをかわるがわるして(横たえると起きちゃうので)いると、約束の時間よりも早くアニーさんが帰ってきた。
「どうしたの、こんなに早く」
私がアニーさんに駆け寄り、アントくんを抱っこしたラウルスがついてくる。
「やっぱりアントのことが気になっちゃって。こんなに長く離れているのは初めてだったから」
「そっかー。あれ、髪型が変わった?」
長い髪を無造作にとめていたのに、今は髪を下ろしている。
「ええ。家に帰って休もうかと思ったんだけど、鏡を見たら髪がボサボサでビックリしちゃったの。鏡を見る余裕さえなかったのよ。だから髪を切りに行ってきたわ」
アニーさんの顔に浮かぶ疲労感は消えていない。でも、表情はとても明るくなっていた。
「子育てがそんなに大変だったなんて知らなくてごめん。これからはもっと預けに来てね」
「ふふ、ありがとう、そうさせてもらうわ。それにしても……」
アニーさんは言葉を切って私とラウルスを見て微笑む。
「どうしたの?」
「そうやってると、まるでアンナとラウルスの赤ちゃんが生まれたみたいね」
アニーさんは笑顔でとんでもない爆弾を落とした。
「ちょ、ちょっと、アニーさん、からかわないでよ!」
「おお、俺たちの子供だなんてっ! そんな馬鹿なっ!」
私たちの顔はみるみる真っ赤になる。そんな私たちをみて、おかしそうにしながらアニーさんはアントくんを抱っこして帰っていった。
残されたのは、妙な雰囲気になってしまった私とラウルス、そして我関せず生姜とレモンの蜂蜜サイダーを飲むベア。
「ま、全く、アニーさんてば突然変なこと言い出すんだから」
「ほ、本当にな。俺たちに子供だなんて、まだ早い……いや、そうじゃなくてっ!」
更に顔を赤くした私を見て、ラウルスは慌てて自分の発言を取り消した。
まだ早い、ってことは、いつかは……ってこと? ラウルスってば、私と結婚するつもりなんだ……。いや、私も考えていなかった訳じゃないけどっ。まさかこんな形でラウルスの気持ちを聞くとは思っていなかったからっ。
付き合ったばっかりで、まだそんなこと考えられないけど……もしそんな未来があるとしたら、やっぱり相手はラウルスしか考えられないわけで……。ということは結婚、その前に男女のあれやこれやが……。
あー、もう、妄想ストップ! これ以上想像が膨らんだら赤面どころじゃなくなる!
何か言わなきゃ、と顔を上げると、同じように顔を真っ赤にしているラウルスと目が合ってしまい、私はまた視線を落とした。
「ナンカ、ヨクワカンナイケド、ヒューヒュー。ママー、パパー」
「お願いだからベアは黙ってて!」「お願いだからベアは黙ってろ!」
私たちの息は驚くほどピッタリと合っていた。
★今日のレシピ★
・生姜
・レモン
・ハチミツ
・サイダー
・氷
飲み過ぎるとお腹が冷えるので注意だよ!
寒い日はサイダーをお湯に換えても美味し~い!




