第八十七話 王立図書館
翌朝、ティベリオは王都ルーンの北西街区に位置する王立図書館に向かった。
国の主要な機関はどれも街の中央の王城を中心に配置されているが、北側は貴族寄りの機関、南側は国民も利用する機関が配置され、東西という視点で見れば、東が司法寄り、西が軍事寄りとなっていた。
南東側は朝が早い肉体労働者が多く住んでおり、南西側は知的労働者が多く住んでいた。
未だ光の射さない路地を抜け、北西街区との境界線となる西の大通りに出る頃には、空も街も明るくなっていた。
それまでは遠くで聞こえていた生活音のざわめきも、大通りに出た途端、祭りを思わせるような賑やかさに変わった。
行き交う人々の声、店の呼び込み、通り抜ける荷車が石畳を踏みしめる音。
大通りは光と音だけでなく、人そのもの、命の息吹そのものが吹き抜けていくようだ、とティベリオは思う。
ティベリオは大路を行き来する荷車や馬車を避けながら西大路の通りを縦断する。王立図書館はその西大路を抜けて少し進んだ場所に建っていた。
中央が僅かに膨らむように造られた石造りの円柱が立ち並ぶ入口を抜け、王立図書館の内側に足を踏み入れると、ティベリオは一瞬視界が失われたような感覚に襲われる。周囲が見えなくなるのはほんの一瞬の事であり、日常的に起こるそれは本来、驚く現象でもなんでもない。
だがしかし、王立図書館においては、暗闇に慣れ、視界が戻るに従って、飛び込んでくる光景を目にする度、ため息を吐かずにはいられなかった。
石造りの広間は、どれだけの人を収容するつもりなのか、という程に広く、その上、この広間は天井まで吹き抜けとなっており、縦にも空間が広く取られている。中央に置かれた受付には2名の受付嬢が座っているが、この広間の中においてはまるで、そこに居るのは小人ではないか、と錯覚してしまうほどだった。
広間を囲むように、三方には書庫と倉庫に繋がる扉があり、見上げれば、三方それぞれの壁には、三方を繋げるように二階、三階部分に通路があった。
三角錐の形をした天井には光を通す摺り硝子が張られ、外から光が取り込めるようになっている。
朝早いこの時間は、まだ屋内は少し薄暗かったが、昼間ともなれば、外と変わらない明るさがこの広間を照らし出すようになっている。
ティベリオは中央の受付で身分証を見せると、入館の為の割符を受け取り、建物の奥、倉庫側の扉に向かった。
扉の前に建つ兵士に割符を渡し、入館の承認を得ると、兵士が扉を開き、ティベリオは建物の奥に足を踏み入れる。
扉の奥は、まっすぐ伸びた石造りの廊下になっていた。両脇には灯が灯されており、一定間隔で倉庫の扉が並んでいる。
ここから先は、入口の広間のような明るさは無縁となり、ひたすら薄暗い部屋が続く。光星の光や熱、外気に触れることで傷んでしまう遺物もあることから、外からの光や熱がなるべく持ち込まれないような造りとなっていた。
だが、今回ティベリオが目的としていたのは厳重に管理された遺物の眠る倉庫ではなかった。
広間の扉から入って一番最初の扉を前にすると、ティベリオは深呼吸を一つする。
そして、意を決したように息を吐き出すと、扉を二度、叩いた。
扉を叩いたその音が、廊下の石の壁に反響しながら暗闇の中に呑み込まれていく。
僅かな静寂の後、中から「誰だ」という声がくぐもった声が聞こえてきた。
「二級遺物学芸員ティベリオ・カシラギです。フィウム地方の地質調査を終え、報告に参りました」
張った声は、先程扉を叩いた音とは比較にならないほどの大きさで石造りの廊下に響き渡る。それでも、先程の広間にティベリオの声が届くことはない。
広間と各区域はそれほどの厚さの壁と扉で護られていた。
「入れ」
僅かの間を置いて、中からくぐもった声が返ってくる。
ティベリオの来訪は元より通知していたものだった。僅かの間は、業務の区切りの良いところを見計らった、ということだろうか。
そんなことを考えながら、ティベリオは扉を開く。
扉の先はこじんまりとした部屋だった。
両脇の壁には本棚があり、天井近い場所には幾ばくかの装飾。
そして、部屋の中央奥には執務台があり、そこにはティベリオの上司にあたる男が座っているはずだった。
「あっ」
言って、慌ててティベリオは口をつぐむ。
執務台の向こう側にはティベリオの想像通り、彼の上司であるピエトロが座っていた。だが、その横にはピエトロ以外の人物が立っており、その顔を見て、ティベリオは思わず声を出さずには居られなかったのだ。
「ようこそ、ティベリオ・カシラギ。待ってたよ」
そこに居たのは、昨夜、ティベリオの家に突然現れたロメオ・アウディと名乗った騎士だった。
「私の記憶が正しければ、あなたはここの住人ではなかったはずだが」
屈託なく笑うロメオを冷めた目で見つめたピエトロは、ティベリオに向き直ると「そんなところに突っ立っていないで、中に入り給え」と声を掛けた。
ロメオの姿を見て固まってしまっていたティベリオは、入口の扉を開けたところで立ち止まっていたことに気づき、慌てて一礼をした後、部屋の中に足を踏み入れる。
思わぬ失態に焦る気持ちを落ち着かせながら、ゆっくり音が鳴らないように扉を閉めると、振り返る前に一つ深呼吸をする。
――大丈夫。まだ、大丈夫。
仕事においては厳しいことで有名なピエトロは、何事においても厳格であることでも有名であった。
その彼を前にして、発言を許される前に意味のない声を発することは、失態以外の何者でもない。この後どのような叱責を受けるのか、と思うと、ティベリオは元々強くない胃が締め付けられる気がした。
しかし、いつまでも扉の方を向いているわけにはいかない。意を決して振り返ってみると、視線の先にはロメオが笑みを浮かべている。その彼に対して何も言わないピエトロを見ると、小さな事にびくびくとしている自分が愚かにも思えた。
「カシラギ学芸員。報告書については一つ陽前のうちに受領し、内容は確認済みだ。こちらで分析した結果、詳細な報告を要する場合は改めて呼び出すことになるが、まずは問題ない。ご苦労だった」
そんなティベリオの心中を知ってか知らずか、ピエトロは淡々と、今回の仕事結果については、これ以上報告不要だ、と告げた。
ティベリオ自身、今回の調査結果は、特筆すべき発見もなく、総じて言えば「変化なし」であることから、ピエトロが報告不要とした理由は分からなくはない。
「さて、報告の件については以上だ。
本来ならば、次の調査に赴いてもらうために、ここに来てもらうつもりだったのだが、急遽予定が変更になった」
ピエトロは立ち上がると、隣に立つロメオに向けて翼を広げるかのように右手を広げた。
「こちらは騎士ロメオ・アウディ殿だ。既に面識があるとは聞いたが」
「ロメオ・アウディだ。改めて、宜しく。ティベリオ・カシラギ」
言って、前に出ようとするロメオを、ピエトロは広げていた右手で遮る。
「待ちたまえ、騎士アウディ。私は未だカシラギ学芸員に従事する任務を伝えていない。彼にはこの任務を断る権利もある」
ロメオはピエトロの物言いに驚いたのか、目を瞬かせると、その後口の端を緩ませる。
「確かにその通りだ。失礼した」
ティベリオはその笑みにどこか薄寒い雰囲気を感じたが、表情を見る限り、ロメオは今のやり取りに対して何か思うところがあったようには見えなかった。
ロメオが元の位置で直立したのを見届けると、ピエトロは改めてティベリオに向き直る。
「さて、改めてだが。カシラギ学芸員には本来、次の任務地での地質調査を依頼する予定であったが、急遽予定が変更となった。
王立図書館は国より直々に調査依頼を受け、これに協力する必要が出たためだ。
国より受けた調査は、教会への侵入が出来なくなった原因について、だ
カシラギ学芸員は、現在教会で何が起きているか、何か知っていることがあるか?」
「幾陽か前から、教会に入ることが出来なくなった、ということと、これに対して国が調査を依頼するため、安易な噂話を禁ずるという触れが出ている、ということを人伝に。その程度です」
ティベリオの答えに、ピエトロは頷く。
「調査から戻ったばかりでそこまで把握しているというのは大変結構。
カシラギ学芸員に依頼したいのは、正にその国が行おうとしている調査に関する依頼となる。教会には人知を超えた力が働いており、その調査には危険を伴う恐れがある。そのため、この調査は、予め本人の希望を聞き、依頼を拒否する権利を与えている。
国は調査に赴く学芸員の安全を確保するため、一人の学芸員に一人の騎士を付けることとなっている。これを十分な保障と考えるか否か。保障に関わりなく、自らがこの任務に従事すべきと考えるか否か。カシラギ学芸員が考え、判断すれば良い。
時が必要であるなら、翌陽まで待とう」
ピエトロはティベリオを見つめた。ピエトロはこの問答を以て部下の能力を試しているつもりはなかった。与えられた情報は、国からの依頼であることと、教会に侵入できないという事実の二点のみ。危険性がある可能性だけを告げられて、任務の受諾が判断出来るかと問われれば、自らも悩むだろう。
即断出来る者が居るとするなら、教会に向かったまま戻らない身内が居る者か、これを出世するための好機と見定める者か、組織に盲目的に服従することを良しとする者か。そのいずれかであろうと考える。
このうち、身内が教会に向かったまま戻ってこない者は調査依頼対象に含めていなかった。調査に私情を持ち込んでしまえば、情報は正しく判断できなくなる。また、調査において無理が過ぎてしまえば、失わなくてもよい命を失うことにもなりかねない。
それは、上司として許容できない状況だった。
その点、横に立つ騎士ロメオ・アウディはなぜこの任務を受けようと思ったのか。彼の態度から出世欲に燃えるような野望ある人物とも、人の命を救うことこそ己の使命と心に誓った人格者にも見えない。
――それは失礼に過ぎるか。
そうピエトロは自嘲する。仮にも騎士。国民を護るべき職業に就く者なのだ。表向きには見せない心情を抱えている可能性は十分にある、そう思い直した。
「……受けます」
ピエトロが独り、物思いに耽っている間、ティベリオは何かを決意したのか、まっすぐピエトロの目を見つめ、言葉短く答えた。
「……そうか。カシラギ学芸員の判断に敬意を表する。ありがとう」
「この身と能力が少しでも役に立つのであれば」
自らの死を悲しむものは誰も居ない。ならば、このような任務は自分のような者が率先して受けるべきだろう。
ティベリオは、そう、思った。




