第八十六話 温かな赤
結局、ロメオと名乗った騎士は、「相棒の顔を見たかっただけだから」と、すぐにその場を去ってしまった。
ティベリオは念のためと、家の中が荒らされていないかと見て回ったが、特に部屋を荒らされた様子はなく、彼は本当に自分の顔を見るためだけにここに来たのだと悟った。
ロメオが去った後、ティベリオは独り、暗がりの部屋の中で彼の言葉を考えていた。
王都ルーンは王城ディアラナを中心に方形に広がる街であり、教会はそのうちの南側に位置する。
治癒術士という貴重な人材が数多く在籍する教会は、国の中でも重要な施設のため、南側とは言っても、王城を出てすぐの通り、ほぼ中央部と言っても良い場所にある。
教会は「お勤め」と呼ばれる奉仕作業を行い、身分に隔てなく治癒術を施す立場を貫いているため、人々が立ち寄り易い南側に位置しているが、一方で、南側にあるために立ち寄りを忌避する人々もいる。
それが北側の住人、貴族や騎士達だ。
距離の面でも北側の住人にとって南側に位置する教会は遠いことから、彼らにも通いやすい場所に教会を建てて欲しいという要望に応え、王家と教会は王都ルーンにもう一つ、教会を建てている。
二つの教会を呼び分けるため、北側の教会は通称「聖堂」と呼ばれていた。
ロメオは「教会の調査」と言っており、騎士の彼が「教会」と言うからには、おそらく南側の教会を指しているのだろう。
だが、夕方街を歩いていても教会に関する話題はまったくと言って良いほど聞こえてこなかった。
歩いていた場所が教会から遠かったということもあれば、市場でも価格の話に興味をそそられてしまっていたため聞き逃してしまっていたという可能性もあったが、それでも、街の誰もが噂するほどの話題になっていない程度と言える。
ここ幾つ陽の内に起きたことってことなのかな。
だとしても、なぜ依頼先が学芸員、しかも自分なのか。
改めて考えてみても、起きた事実の繋がりがいまいち理解出来ない。
答えの出ない問いを考え続けてしまったせいか、光星の光が失われ、辺りがすっかり闇に覆われる時間になっても、ティベリオは寝床で眠りにつくことが出来ずにいた。
分からないのなら聞いてみるかとティベリオは大通りに面する酒場に足を向ける。
王都の南側の多くは一般人の居住区となっているが、王城から王都の南門まで続く南の大通りは外からの来訪者が数多く通る場所でもあることから、宿や食堂といった店が建ち並ぶ繁華街のような場所になっていた。
目立つ大通りは品の良い店が多く、自然と値も張るため、街に住む一般民たちや、少しすれた感じを好む客などは、大通りから一つ二つ外れた通りに構えられた小さな店を選ぶことが多い。
ティベリオもそうした小さな酒場を好む方だった。
どこか雑多な雰囲気と、その場その場で交わされる刹那的な会話。時にはもめ事も起きるが、それすらも日常と許容する懐の広さが、どこか安心出来るのだ。
それは、共に同じ卓を囲み、食事と会話を楽しむことの出来る相手を失った代わりをこの空間に求めているからかもしれなかった。
「よぅ、ティベリオ。久しぶりだな」
小さな酒場の小さなカウンターに腰を掛けると、カウンターの前で酒を作っていた男がティベリオに声を掛けた。どこか煤けた色の肌と幾重にも刻まれたしわが作る表情が、怖さと愛嬌を同居させていた。今も、笑みを浮かべるでもなく、ティベリオに視線を向けるでもなく、淡々と話しかけられただけだというのに、そこに何かの温もりと柔らかさを感じさせる。
それがこの店の店主アントニオという男だった。
「しばらく『ルース』との国境近辺の地質調査してたからね。こっちに戻ってくるのは一神節ぶりぐらいだよ」
「南の内海あたりかぁ。したら、この辺の冬よりはましだったろう」
「風さえなければね。『ルース』との国境付近は『ゲラルーシ』山脈からの強い吹き下ろしが川沿いに抜けてくるから、調査中ずっと、気を抜くと指先が凍り付いて砕けるかと思ったよ」
「ははっ。そりゃ、災難だったな。ほい、麦酒、お待ち」
笑いながら、アントニオは目の前の客に酒を出すと、続けて次の酒を作り始める。こうしてティベリオと会話しながらも、脇からは店員が客から取ってきた注文を告げており、それに応えては酒を作っている。
いつもの事ながら器用なものだ、とティベリオはその様子を見て思った。
アントニオのこの一見どこか近寄りがたい見た目とは裏腹に、いや、むしろその内側に隠れた愛嬌ある見た目そのものの、人懐っこい性格に惹かれ、この店に通う客も多くいると聞く。ティベリオもまたそんな客の一人だった。
「今更かもしれんが、とりあえずこれでも呑んで暖まれや」
ティベリオの目の前に、とん、と無造作に木造のコップが置かれる。コップからは芳醇な果実の甘さとそこに僅かな渋みと、胃を刺激する香辛料が混ざった独特の匂いが立ち上っていた。
「ホットワイン?」
コップの内側でなみなみと揺れる濃い赤を見て、ティベリオは呟いた。
「冷えた身体にはちょうどいいだろ」
「……ありがとう」
杯を供えるような気持ちで、そっと両手をコップに添える。木造独特の手触りの向こう側からほんのりと伝わってくる温もりを感じながら、ゆっくりと酒に口をつける。
唇から喉を伝い、身体の内側に染み渡るように広がる温もりは、ただそれだけではないように思えた。
「それで、しばらくはこっちに留まるのか?」
「あ、うん。次の仕事はこの街の中での調査になりそうだから」
言って、ティベリオはことん、とコップをカウンターに置いた。中には未だワインが揺れている。
アントニオの店の売り上げに貢献できないことになり悪いが、この酒はまだしばらく時間を掛けて飲んでいたい、そう思った。
「……そうだ。最近、教会の方で何かあったとか話聞いたことある?」
皆が皆思い思いに語り合っていた店内は、互いが互いの声に負けないようにと声を張り上げた結果、会話と言うよりも叫び合っている、といった方がいいような状況に合った。その中でティベリオがアントニオに話しかけたその声は、それら周りの声と比較すれば小さい方だと言えるだろう。
だがしかし、その声は不思議と店内に響き、店内は凪いだ水面のように静まりかえった。
その異常さにティベリオが周囲を見渡すと、周りの客たちもまた、ティベリオに視線を向けている事を知る。
「そうか。お前は外から帰ってきたばかりで、しかも元々ここの住人だからな。帰ってきたとき衛士から何も聞いてないんだろ」
「あ……、うん」
アントニオとティベリオのやりとりに、耳を澄ませていた周囲の客は何事もなかったように話を再開し始める。
「幾陽か前から教会に入れないって話になってな。その翌陽ぐらいか?国から、教会の件は国が調査するんで安易な噂話は禁じるって布令を出したらしい。俺は教会の様子も国が出したその布令も直接見たわけじゃないんだが、街の連中からそんな話を聞いた。ここにいる客もみんな知ってるんだろ。だから教会のことを話題にしたお前が何か知ってるんじゃないかって、みんな黙っちまったんだろ」
「国が布令を……」
確かに、視線に悪意は感じなかったな、とティベリオは思う。
「お前に教会の話をしたやつも教えてやりゃいいのにな」
アントニオの言葉にティベリオは曖昧な笑みを返す。ロメオと名乗った騎士もティベリオが教会の話を知っていると思って話していた。
思い返せば、街の者が不安にならないようにというような事も言っていた気がする。それはこのことだったのかもしれないと今になって気付いた。
「話したのがアントニオのおっちゃんで良かったよ」
「まったくだ。最近、商品の流通が滞ってたりで、どこか街の雰囲気が悪くなってる。ティベリオも気ぃつけろよ」
「ありがと」
ティベリオはそう言うと、ホットワインのコップを大事そうに抱えて惜しむように少しだけ口をつけた。




