第八十五話 学芸員ティベリオ
手持ちの照明を手に、ティベリオは倉庫の中を歩いていた。
中に収めた品々を痛めないよう、外部からの光が遮断された倉庫では、光星が中天にある時間帯においても、こうして照明を手にしなければ、歩き回ることが出来なかった。
少し小柄な体格のティベリオは、収められた品々を点検するこの作業が苦手だった。棚の上部を確認するにはつま先立ちで背伸びをするか、小さな台に乗るかしなければ確認することが難しいからだ。片手に照明を、もう片方には記録簿を手にした状態で、小さな台を持って回るのは非常に面倒な作業だったし、台の上に登った後も、何かの拍子に姿勢を崩して倒れるなんてことになれば、周辺の棚を巻き込むことになり、大惨事となるのは必至だった。
かといって、背伸びをしての確認は、棚の上まで確認できないため、品の上部に中身を示す札が貼られているようなものだと、背伸びするだけでは確認することが出来なかった。
どうして僕がこんなことをしなければならないのか
倉庫の確認作業の当番が回ってくる度、ティベリオはそう思うが、これも彼の仕事である以上、仕方の無いことだった。
『アストリア』の王都ルーンにある王立図書館の司書であり学芸員。それがティベリオの仕事だ。
司書といえば、図書館に保管されている書物の管理が主な仕事と思われているが、それだけが仕事ではない。司書の中でも学芸員の肩書きを持つ者は王立図書館に保管されている様々な歴史的資料や遺物、植物や生き物の標本。そうした様々なものの収集、研究、管理も仕事の一つになるのだ。
生来本が好きだったティベリオは、書物に携われる仕事に就きたくて司書の仕事を目指した。記憶力が人より優れていた彼は、その能力を買われて、見事王立図書館に所属する司書、という一般人では通常従事することが困難な職に就くことが出来、最初はその幸運を心の底から喜んだ。
この仕事に就いてから数神期。仕事にも慣れ、仕事の実態もわかり、ようやく難解な人付き合いにも慣れてきた。今でも、自分の職業に誇りは持っている。
でも、これほど肉体労働が多いとは聞いてない!
今の仕事に就いてから、何度考えた、心の中で呟いたのか分からないその愚痴を、ティベリオはまた、胸の内で叫んでいた。
叫んだところで現実が変わることはない。だからこれは、心理的負担を減らすための彼なりの「癖」のようなものだった。
王立図書館の司書として、普段は目にすることの出来ない様々な貴重な書物に触れる機会が得られる、そんな夢を見て職場に向かった時から、彼が図書館の中に足を踏み入れることが出来たのは、たったの二回。
仕事に就いたばかりで職場説明のために各施設を案内された時と、上司から図書館に所属する職員に届け物のお使いを頼まれた時だけだった。
いづれも図書館の中での自由な時間など得られるはずもなく、後ろ髪引かれる思いで、図書館を後にしたことを覚えている。
それ以外の時は、王都の近隣で自生している植物の採集や、『メルギニア』との国境にある『ゲラルーシ』山脈の地層や生物の調査など、都の中で生活している時間の方が少ないのではないか、と思えるような生活を過ごしていた。
そのため、様々な資材を保管するこの倉庫の点検作業は、数少ない王都の中での仕事であり、日々の業務の中では最も王立図書館に近づくことの出来る仕事でもあった。
だが、近づけるだけで、図書館の内部に入ることが出来るわけではない。最初の頃は、もしかしたら、などと淡い期待を抱くこともあったが、今はそんな期待を持つだけ無駄と悟り、淡々と仕事をこなし、未練を振り払うように迅速に帰宅することが常だった。
「小麦の価格、もうちょっとまかんねぇかな」
「分かるけど、これ以上は厳しいんだ。すまねぇな」
「今、なんもかんも値上げしちまって。香料や調味料なんてものになると、もうすぐ手を出せなくなるんじゃねぇか」
「次の神期の収穫の時にはもっと酷くなんのかねぇ」
そうか、とティベリオは思う。
普段、王都から離れた郊外や山岳地帯で過ごすことの多いティベリオは、神の恩寵の減少を発端として、各地で穀物の収穫量が減少している、という話は知識として知っていたし、耳にしたことも何度かあったが、それは、街での流通量の減少に繋がって、値上がりが起きるのだ、というところまでは意識をしていなかった。
地方の街では、収穫量が減って、今年も暮らしていくのが大変だ、という話は聞いても、それでも、他の食材や、山の生き物を狩ることで、なんとか凌げる、そんな話が主だった。
だが、街ではそうはいかない。食料を生産する基盤を持たない街は、外から流入してくる食材がすべてで、その食材の供給量が減ってしまえば、必然、手に入れるための対価は高くなるのだ。
地方領主が穀物税を容易に下げられないと困っているのは、このせいなんだな。
穀物を生産する町からすれば、生産できる量が減っているのだから、税として今までと同じ量を納めれば、自分たちが口に出来る食料は自然と減ってしまう。だが、地方領主や国からすれば、これまで通り税として徴収しなければ、食料を生産しない中央の都市や、農業に向いていない沿岸、山岳の都市に食料を回すことが出来ない。街や村を回る行商人達が食料を流通させるとは言っても、彼らも「商売」として流通させている。
それらがすべて国の中で流通するとは限らないのだ。
ティベリオが調査収集している植物も、ここ数神期で数が減ったり、穂になる実りの量が減っていたりと、神の恩寵が減少した影響は如実に出ている。
都で研究を進めている連中も、少しでも収穫高が増やせないかと、研究を重ねているというが、未だ実を結んだ、という話は聞かない。
「村の連中が出し惜しみしてるんじゃねぇよな」
「税だけは今まで通りだから、こっちに売るものがないって。あいつらだって、自分たちかわいさにそれをやったら、もしもの時、他の村からの食料が回ってこなくなるのは分かってるさ」
「どうして国は動いてくんねぇのかねぇ」
「おい。あんま言うなよ」
話をしていた一方が相手の背中を軽く叩くところまでを見届けて、ティベリオは市場を通り過ぎていく。
彼の住む家は、王都ルーンの中でも南東側に位置していた。
王都を取り囲むおよそ20mほどの高い外壁が近くに見え、光星が天高く昇る時間でも、あまり光が差し込むことはない。
前回の天地崩壊によって王都の設備が破壊され、新たに作り直された頃に出来た地区で、作り直された当初は石造りの立派な建物ばかりの町並みだったが、今はその石造りの外壁から木で作られた増築部分が多く突き出ており、乱雑とした印象の町並みになっていた。
元々王都の南東側にある城壁の近くに位置するために、光星の光が射し込みづらい場所ではあったが、木造による増築は、道に覆い被さるように、道を挟んで向かい合う建物同士を結んでいる場所もあり、朝から夜まで光が射すことのない道がそこかしこに出来ていた。
じめじめした環境は、常にどこかかび臭さがあり、これで上下水道が整備されていなければ、鼻の曲がるような異臭に溢れて、日々を過ごす事も困難な場所になっていたかもしれない。
既にこの環境に慣れているからなんとも思わないだけで、街の北側の連中からすれば、既に人の住む場所じゃないと思われるのかもしれないけどね。
王都ルーンは、王城ディアラナを中心に広がる城塞都市であり、ディアラナから伸びる四本の大通りによって街は分割されている。
このうち、通りの北側は貴族や騎士達の生活圏となっており、街並みは整備されていた。
南側は一般民の生活圏となっており、そのうちでも中央に近い場所は、公共施設が多く建てられ、教会や各職業ギルドが中央部にあり、その周辺にはそれら施設の利用者のための食堂や宿泊設備が整えられていた。
住居が建ち並ぶ生活圏はそのさらに外側だが、南の大通りを境に西側には食材市場、東側には雑貨市場が建ち並び、人々の多くは南の大通りを中心に生活をすることが常となっていたのだ。
ティベリオが住む家はそんな南側の住居区の中でも、比較的古くからこの王都に住む、身分が明らかで、だがさほど裕福とは言えない者達が住む区画にあった。
居住地区の税を納められないほど貧しい者、この街での身分を明らかにする術を持たない者は、城壁の中に住むことを許されず、城壁を囲む堀よりもさらに外側に居住区を作って住んでいた。
「ただいま」
自宅の入り口をくぐると、ティベリオは部屋の中に向けて声を掛ける。数神期前に親を失い、既にこの家に住むのはティベリオ一人であるにも関わらず、家族が居た頃の癖が抜けない事に、ティベリオは自嘲する。
光星の光が射し込まない建物の中は薄暗く、それはまるで先ほどまでいた倉庫の中のようでもあった。
「おかえり、ティベリオ・カシラギ」
手にしていた肩掛けの鞄を部屋の真ん中にある机に置こうとしたティベリオは、あるはずのない答えを聞き、慌てて鞄を胸の前面に掲げて身構える。
護身用の小刀はあいにく鞄の中だった。今ここで鞄を漁り出せば、誰とも分からない相手に隙を見せることになる。
まずは身を守りながら家を出て、明るい場所に移動するべきか
ティベリオがそんなことを考えていると、薄暗い部屋の奥で何かの影が動いたのが見えた。
「警戒することはいいことだ。さすが学芸員。最低限の護身の心得はあるんだな」
低いがよく通る男の声で言葉が続けられた。
名が知られている以上、ティベリオの職業を知っていることは驚くに値しなかったが、それが警戒を解く理由にはならない。
ティベリオは暗闇に目が慣れるよう、じっと奥を見ながらも、ゆっくりと後ずさりを続ける。
「悪いが、カシラギ司書が帰るまで待たせてもらうために、勝手に入らせてもらった。俺の名はロメオ・アウディ。騎士だ。よろしく頼む」
暗がりから現れたのは板金の胸当てを身につけた、ティベリオと同じ年齢ぐらいの男の姿だった。
ティベリオの警戒などお構いなしというように、男はティベリオに近づくと、無造作に手を差し出す。
ティベリオは反射的に身体を半身にして差し出された手を避けたが、その手に何も握られていないのを見て、息を吐いた。
「うん、良く鍛えられている。……大丈夫だ。何も持ってはいない。まぁ、最初から信じろ、というのは無理だろうが」
ロメオと名乗った男は、ティベリオの動きに気を悪くした様子はなく、むしろ彼の動きを好意的に受け取ったようだった。
にこやかな笑みを浮かべると、差し出した手をさらにティベリオに向けて伸ばす。
「……騎士様が、こんな場所にどんなご用ですか?」
伸ばされたその手を取らず、ロメオの手の届く範囲から僅かに離れるようにティベリオは動くと、鞄を構え直した。ロメオは無視された手を一度眺めると、その手を下げようとして、ティベリオがその手の先に気を取られた瞬間、ティベリオに向かって踏み込み、その手首を掴んだ。
しかし、ティベリオが「あっ」と思った瞬間には、ロメオは掴んだティベリオの手首を手放すと、すぐに元いた位置に戻る。
「一瞬の油断は命取りだ。警戒するなら、最後まで警戒した方がいい」
「……ご忠告ありがとうございます」
ティベリオは無意識に握られた手首をさすってしまっていたが、手首に痛みはなかった。力を加減して握ったのだろう。もしも襲うつもりなら、いつでも襲える、というロメオの意思表示にも思えた。
「どんな用事か、だったな。君には俺と共に教会を調査する仕事を手伝ってもらうことになった。翌陽には正式に辞令が下りると思う」
「……教会の調査?」
建造物や地形の知識を保有する学芸員は、時として貴族や騎士の任務に支援、協力を行うという話は聞いたことがあった。ロメオの依頼もそれに類するもの、と思われたが、なぜ教会なのか、ティベリオには想像がつかない。
「学芸員なら話を聞いてると思うが、少し前から、教会の中に入ることが出来ないと騒ぎになっているだろう?実際には入るだけではなく、中の者が出てくることもない。理由も原因も分からず、このまま放置しては街の者も不安になるだろう。いい加減な噂話がたち、街のものが不安と混乱に陥る前に、原因を調査し教会を元の状態に戻すこと、それが俺たちに与えられた任務だ」
教会に入れない、それがどういう意味なのか、このときのティベリオは、未だ理解できずにいた。
本作は間違いなく「虚空の底の子どもたち」です。
しばらくは新しい登場人物たちを中心にお話が進みますがご了承ください。




