第七十九話 旅立ちの朝
『ウツロ』によって帝都メラノが襲撃された翌陽、フアンたちは「赤い牙」と合流するため、皇城メラノを訪れていた。
「アンも目を覚ましたんだな」
「ご心配をおかけしました」
出迎えたウィルに、フェリが深々と頭を下げる。『アストリア』に戻るにあたって、エレノアたちのことをどうするかという話をしたが、誰の目があるか分からない間は、これまで通り、アンとシンのままでいこう、とそう決めていた。
頼る相手を騙す行為は心苦しいことだったが、天地崩壊が実際に起きたことと、「神子」にそれを収める力があることを目にした以上、安易にそれを伝えることは、フェリの身に危険が及ぶ可能性がある。今しばらくはこのままでいくしかなかった。
「それで、どうするか決めたのか?」
それが、『アストリア』に戻るつもりかを問うていることは、フアンだけでなく、レツたち3人にも理解できた。彼らの仕事は『メルギニア』に取り残されたギルド員であるフアンたちの確保だ。それが仕事である以上、フアンたちの意思に関係なく連れ戻す、という選択肢もあるだろうに、わざわざそう尋ねるのがウィルという男だった。
一方で、帰らないって言ったらどうするんだろうか、などと意地の悪い考えが過るのがフアンだった。もちろん言葉にすることも実行することもないのだが、異なる状況や行動について考えを巡らせてしまうのがフアンの長所であり、短所でもあった。
「『アストリア』に戻るつもりです。元々の仕事も終えましたし、ここでやらなければならないと思っていた『メルギニア』との協力体制も構築出来ました。実際に『メルギニア』で襲撃が起きてしまった以上、『メルギニア』から『アストリア』への支援はあまり期待できないかもしれませんが、それでも、『ウツロ』の驚異を知り、国を超えて対処しなければならない問題である、という認識は持ってもらえたかと思っています」
「そうか。お疲れ様、だな。俺たちもこのあと、団長が防衛大臣のとこに挨拶に行ったら、この国での仕事は終わりだ」
「防衛大臣の護衛の任務も終了したんですね」
「アルからはそう聞いてる。団長の挨拶は一応その確認も兼ねてってことらしい」
『メルギニア』の内乱も、燃え上がる前に鎮火された。『ウツロ』の襲撃がなければどうなっていたのだろうかと考えると、この件に関して言えば、『ウツロ』に救われたのかもしれない、とフアンは思う。
実際『ウツロ』襲撃の直前、帝都南側のリシリア平原にはマグノリアとメラヴィア連合軍が展開しており、『ウツロ』の襲撃があと数時間も遅ければ、戦は始まっていたかもしれなかった。
そうなれば、帝都メラノの防衛部隊も南門に軍を展開することになり、『ウツロ』は容易に帝都に侵入を果たしていただろう。
皇城への入城を躊躇っていたフアンたちは、やってきた『ウツロ』の波に呑み込まれ、今この場に立っていなかったかもしれない。そして、あのとき起きた天地崩壊を止めることも適わなかった。
そう考えると、時間にしてわずかであったあの戦いは薄氷の上での勝利であったとも言える。
「「赤い牙」は全団員で帰還するんですか?」
改めて、先の戦闘の危うさにフアンが思いを巡らせている間に、レツがウィルにそう問いかける。
「いや、三分の一ぐらいはこっちに残すらしい。細々とした後片付けの手伝いと、こういう状況だから余計なこと考える手合いが出たときの取り締まりの手伝いに兵力が欲しいそうだ」
「防衛隊に被害があって手薄になっているから、ってことですか?」
はっきり言うなぁ、とウィルが笑う。
「建前上、戦はなかったことになってるからな。負傷者はみんな、帝都で『ウツロ』と戦った際に出たことになってる。職業軍人だけの構成で事に当たったのは、情報統制がかけやすいからだ。
そんなこんなで表面上は落ち着いているように見えるが、『ウツロ』の襲撃の直後でまだ軍は撤収できないだろ?念のためってことらしいぜ」
帝都では、実際に軍同士の衝突は起きなかったものの、先立ってブラベ領とロイス領の境界に位置するカリヤ湖畔で行われた戦では、皇帝直轄軍・ブラベ連合軍とロイス軍が刃を交えている。
連合軍側は防衛に専念し、ロイス軍の説得に徹したため負傷者は少なかったが、皆無というわけにはいかなかった。
だが、表向きそのような戦闘はなかったことになっている。帝都周辺に展開されているロイス軍も、マグノリア軍、メラヴィア軍同様、『ウツロ』から帝都を守るために駆けつけてくれた友軍という扱いだ。
まさか、友軍が信じられないから兵を増やす、とは言えなかった。
「ふーん。防衛長官が言ってたのは本当だったんだな」
「何がだ?」
「国防大臣の傭兵嫌いは『メルギニア』の傭兵限定だって話」
「あぁ。そういや、ここの国防大臣って傭兵嫌いの噂あったな。いきなり内乱に駆り出されたから忘れてたが、それを除けば確かにごく真っ当な扱いだったな。ん?防衛長官っつたか?」
「帝都防衛長官サビヌス様。『アストリア』の傭兵ギルドと対『ウツロ』の協力体制をお願いしに来たとき、話する機会があって」
レツの言葉にウィルは目を瞬かした後、小さく息を吐いた。
「防衛大臣の護衛にって抜擢されたアルとティオもすげぇって思ったけど、こっちにもすげぇのがいたわ」
「まぁ、話したのは大体フアンなんですけどね」
「……だろうな」
そういうのを自分の手柄のように語らず、またフアンを妬む様子もなく、素直に「すごいだろ」と語るレツを、ウィルは微笑ましく思う。そのフアンも、そうしたことを自慢するでもなく、「ギルド長よりずっと話しやすかった」と言っているあたり、自分たちの行っている行為がどれほどの意味をもつのか本当にわかっているのか、と不安になったりもする。
もちろん、彼らは分かっているのだろう。分かっているから、帰還命令が出た後もこの地に残り、『ウツロ』に対抗するために『メルギニア』のお偉方と話を通す必要があると考えたのだ。
まったく恐れ入る、と思い、だからギルド長の「お気に入り」なんだろうな、と改めて、ウィルは二人の評判の理由を理解したのだった。
「四人とも揃ったのか」
ウィルとレツの会話が一段落ついたのを見計らったかのように現れたのはデイルだった。その後ろには、見慣れない若者が数人ついている。
デイルはそんな若者たちに二言三言、指示のようなものを出すと、彼らは部屋の外に出ていった。
「なんかあったか?」
「そこの四人が揃ったのなら、あとは団長とアルが戻り次第出発だろう。他の連中に出る準備しておけと伝えただけだ。あぁ、四人も一緒に行動する前提で話したが、それで問題ないか?」
「ちょうど今その話をしてたとこだ。こいつらも俺たちと『アストリア』に戻るってよ」
「そうか」
ウィルの問いかけにデイルは一つ頷いた後、部屋の扉のすぐ脇に立っていたアンに歩み寄った。
「もう平気か?」
「デイルさんにもご心配をおかけしました」
「護身術を納めているとは言っても、争いごとに慣れていない付き人が突然戦場に放り込まれたんだ。心も荒れるだろう。治癒術士も心の傷は癒せない。無理はするな」
デイルはそう言ってアンの頭を優しく叩いた。
「シンも、今は気が張っているから平気かもしれないが、気が緩めば急に来ることもある。無理はするなよ」
シンは二、三度目を瞬かせると、少し戸惑った様子を見せながら笑みを浮かべた。
「分かったわ」
もしかして、経験があるの?
出掛かった言葉はエレノアの胸の内に留めることにした。
フェリは『ウツロ』との戦闘の直後に意識を失ったことになっている、という話は、事前にフアンから聞かされていたが、デイルは自分の経験からその原因を推測したのだろう。
長年傭兵をやっていれば、そんな経験があってもおかしくないということは聞かずとも分かったし、何より、仮に経験があったとして、それを語らせることは、デイルの心の傷を掘り出してしまうように思えた。
「団長達が戻ったら、すぐに出立ですか?」
前回の『メルギニア』までの旅路の中で、ほとんどデイルと会話する機会の無かったエレノアは、彼が突然見せた優しさを意外に感じ、戸惑いを覚えていたが、斥候としてデイルと行動していた時間が長かったフアンは、彼が面倒見のいい男であることは分かっていた。
妻子持ちの彼からすると、エレノアたちはまだ守るべき「子ども」に見えるのらしい。普段は対等に扱いながら、時折見せる親の顔、それが今出てきただけだと分っているフアンは、内心で、彼の優しさに対して温かな気持ちになりながら、真実を伝えられない申し訳無さを抱えつつ、話を続けることにした。
「恐らくそうなるが、何かあるのか」
「出立の前に挨拶しておきたい人がいて」
「……あぁ。昨日一緒にいた帝都防衛隊の二人か?」
フアンたちと再会した際に一緒にいた二人組を思い出し、デイルは頷く。
「アンの様子を気にしてくれていたみたいだし、確かにこちらを出る前に挨拶をしておくのが礼儀だろうな。だが、何処にいるのかは分かるのか?」
「ここが防衛隊の宿舎なら、この辺りの人に尋ねれば分かるかと思ってます」
「さっき、ここを管理してる部署に礼を言いに行ったところだから、そこまで案内しよう。そこでなら、目当ての相手と連絡する手段も見つかりやすいだろう」
「助かります」
デイルの申し出に、フアンは頭を下げる。
実際、ガイからは、皇城に来てほしいとまでは聞いていたが、何処に行けばよいのかは聞いていなかった。
城の門で、彼を呼び出してもらっていればよかったのかも知れないが、「赤い牙」との合流を優先した結果、ガイを呼び出す手段がなくなったのだ。
一度城の門まで戻る、というのも手ではあったが、それでは時間がかかりすぎるため、それは最後の手段にしておきたかった。
そんな状態だったため、フアンにとってデイルの申し出は渡りに舟だった。
「団長達がいつ帰ってくるのか分からない。早速行こうか。あぁ、ウィル、悪いがそういうことだから、団長達に伝えておいてもらえるか?」
「本音を言えば俺も行きたいとこだが。分かった。残って伝えとく」
『メルギニア』の帝都防衛隊と顔を繋ぐ機会など望んで得られるものではない。ウィルとしては今後の仕事のことを考えると出来るなら顔を出したいところではあったが、この場の誰かにフアンたちの事を伝えておくように頼むのは酷だろう。
この場にセリカかティオでもいれば、任せてしまうところだったが、二人共別の用事でこの場にいない。ならば伝言役は自分しかいないだろう。
「行くか」
悪いな、とウィルに声を掛けると、デイルはフアンたちを連れて、部屋を後にした。




