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虚空の底の子どもたち  作者: 日浦海里
第五章 流れ落ちる水のように
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第七十八話 風の女神の子

 闇星が中天に輝く頃、マグノリア侯ルクセンティアは天幕で一人、物思いに耽っていた。

 帝都メラノには、彼のための別邸があるにも関わらず、リシリア平原に展開するマグノリア軍の中に身を置くのは、戦後処理が進んでいるとは言え、未だいつ現れると知れぬ『ウツロ』を警戒した待機中であることはもちろんだが、些細な状況変化に逐次対処するためには、直接指揮できるこの場所が望ましかったからであった。


 そう自らに言い聞かせてここにいるに過ぎない。


 ルクセンティアは自嘲する。

 甘いと侮っていた皇帝(シリウス)は、手にした本の裏に切れ味の鋭い短刀を隠し、ずっと機会を窺っていたのだ。こちらが仕掛けてくるその時を。

 こちらの挙兵からロイス軍鎮圧までの早さ、ケヴィイナ侯に対する工作への対応、そしてマグノリア・メラヴィア連合軍に対する布陣、いずれもルクセンティアの動きを予期した上での対応であり、正面からぶつかれば、最終的には敗れていただろう。

 偶然発生した『ウツロ』の襲撃に活路を見出そうとしたが、それすら見越していたとでもいうように、帝都の防衛軍だけで鎮圧した。

 結果だけ見れば、先帝をも上回る才能だった。

 それがシリウス一人の力で行われたかどうかは分からない。傍らにはアンスイーゼン侯カファティウスが控えていた。その力も少なからずあったであろう。

 だが、それにしても、先程の会見で行った処理の一つを見ても、ただ理想を掲げるだけの「甘い」皇帝ではないことだけは理解できた。


――「神子」を見つけ、陛下の言葉通り、天地崩壊により失われた国を平定する、という可能性は残されている。だが、そのために足掻く気にはなれん。


 この反乱に対して、表向きはお咎め無しとなるよう差配したのは、間違いなくこの後にくる世界の混乱に対して、国内で内輪もめをしている場合ではない、という政治的な判断だ。

 伝承においても、天地崩壊は短い期間で一斉に発生している。そして、天地崩壊によって崩れた国は、「神子」によって地が再び回復されたとしても、再び元に戻ることはない。

 それは、歴史が示している。

 数少ない例外が『アストリア』だが、あれは真に例外だった。他国からの侵略によって、王家と国民の大半が国の中枢から逃れている最中に天地崩壊が起きた。その結果、侵略者は一掃され、多くのものを失いながらも、国としての成り立つために重要な人的資源はほとんど損なわれることがなかったため、驚くほどの早さで元の姿を取り戻した。

 かの国が天地崩壊を超えてなお、未だに「女神の国」と言われる所以でもある。

 だが他の国はそうではない。国の中枢を担う人物も、多くの国民も、天地崩壊に呑まれ、命を失う。

 やってくるのは、天地崩壊の影響を免れた辺境の地の者たちだ。そうした者たちによって国は新たに興され、互いに争い、今がある。

 ルクセンティアのいるマグノリア領も、かつてはそうした新興国の一つだった。


 だが各地で天地崩壊が起きている折に、天地崩壊を免れながら「神子」を擁した国があればどうなるか。一帯がその国によって治められる事になるだろう。

 しかし、それも国が安定していてこそだ。国の内側で争っていれば、折角の好機を逃すことにもなりかねない。

 皇帝(シリウス)はそれを見越して、この内乱を早期に集結させようとしているのだ。


 そして、今一つ、必要なものがある。「神子」。

 皇帝(シリウス)は今現在ルクセンティアの掌中に「神子」はない、という想定でいると考えていた。あの言葉は内乱を収めるためのただの方便である、と。だが、天地崩壊後の世界を見据えているならば、あれはただの方便なのだろうか。


――まさか、本当に私が今も「神子」を擁していると思っているのか?それとも、いずれかの国が「神子」によって天地崩壊から地を回復したその直後を奪い取ろうというのか。


 ルクセンティアの下に「神子」がいたことが秘匿事項である以上、その事実を知っている、ということは、今「神子」がいない事も把握しているだろうことは想像に難くない。

 ならば、どういうつもりなのか。


「まさか、「神子」は陛下の下に……」


「その通りだ」


 誰もいない天幕の中で突如聞こえた声に、ルクセンティアは立てかけていた剣を手に立ち上がる。

 そして、勢いのまま声のした方に向けて剣を振り抜くと、その切っ先に触れた金の髪が揺らめく炎のように宙を舞った。

 二の太刀を振り抜くべく、柄に両手を添えたルクセンティアはそこで動きを止める。


「驚かせたのは謝ろう。剣を引くがよい」


 そこに立っていたのは、皇帝シリウス・クラウディウスだった。




「お一人で……。何を考えておいでですか」


 外にいる衛兵はなぜ伺いを立てることなく、皇帝を通したのか。そもそも、なぜ皇帝が供も連れずに一人で出歩いているのか。

 「なぜここにいるのか」という基本的な疑問以前の疑問が次々と浮かんでは消え、だが声に出たのは、その疑念のいずれとも関係のない言葉だった。


「マグノリア侯。そなたと話したいと考えていた。誰に気兼ねすることもなく」


 その手に構えた剣を引けぬままのルクセンティアに、シリウスは淡々とした様子で言葉を返す。目の前の剣などまるで存在していないかのように。今ここでルクセンティアが手にした剣を振り抜けば、シリウスはまず間違いなく致命傷を負うだろう。

 だが、もしもこの剣を振り抜いたとしても、シリウスはそこに立っているのではないか。

 泰然自若たるシリウスの様子を見て、ルクセンティアの脳裏にそんな非現実的な想像が浮かんでくる。

 目の前のシリウスはそれ程に、いつもと変わらぬありのまま、という普通であるが故に異様、という雰囲気を放っていた。


「剣を引け。腕が疲れるぞ」


 シリウスの言葉に対し、従うべきだ、とルクセンティアの理性は訴えるが、身体はそれを拒絶していた。柄を握る手はますます強まり、引いて構える二の腕の筋肉は、弓を引き絞るかのように張り詰めていく。

 武人でもないシリウスに、何をそこまで警戒するのかと考えながら、身体の警戒は解かれることがない。


 一向に動かないルクセンティアを見たシリウスは、無言で前に踏み出す。そこはルクセンティアが足を踏み出さずとも、刃が届く必殺の間合いだった。

 だが、ルクセンティアは剣を振り抜く代わりに、一歩足を退いた。意識したわけではない。何かに押されるように、知らぬうちに一歩退いていた。


 シリウスはその動きにわずかに笑みを浮かべると、自らの部屋で本棚の本を手にするかのような自然な動きで、ルクセンティアに歩み寄った。そして、そのままルクセンティアが握る剣の柄に触れる。

 ここまで近づけば、最早剣を振り下ろしたところで、斬ることは叶わず、せいぜいその柄で殴りつけることが出来るぐらいだった。


「下ろすがいい」


 シリウスはルクセンティアの手首に触れると、そっとその手首を下に下げさせる。すると、それまでそれまでの緊張が嘘のように力が抜け、ルクセンティアはシリウスの成すがままに剣を下ろした。

 シリウスはそれを見届けると、二歩、後ろに下がり、再びルクセンティアと対峙する。


「得体の知れぬものは恐ろしいか?」


「……ご無礼を」


「気にするな、とは言えぬが、忘れろ。予も忘れよう」


 シリウスはそう言って笑みを浮かべると、ルクセンティアが握ったままの剣に視線を向ける。ルクセンティアは、未だ剣を握ったままであることを知ると、剣を鞘に納め、机に立てかけた。


「座っても?」


 シリウスはそう言って、手の平で寝台を指す。


「そちらの寝台で宜しければ。こちらの椅子も決して座り心地が良いとは言えませぬ故」


「よい」


 シリウスは寝台に座ると、両ひざに肘を乗せ、胸の前で手を組んだ。


「さて、マグノリア侯」


「……は」


「先の論功行賞、あれに嘘偽りはない」


「は?」


「そなたが「王」を望んでいる事は分かっている」


 笑みを浮かべたまま語るシリウスの言葉に、ルクセンティアは彼が何を言おうとしているのか、分からずにいた。

 反乱を企てた理由が自身の治世への反感ではなく、ルクセンティア自身の欲から来るものであることは分かっている、シリウスはそう言っていた。

 その上で、新たに土地を与えると言っている、と。


「そなたの血はどこまでも『ポートガス』の、いや『マグノリア』の王族足らんと望むのであろう。そのそなたが、このまま『メルギニア』の領主として納まり続けることは苦痛でしかなかろう。それゆえ、予に採れる策は三つ」


 組んだ手を解くと、シリウスはルクセンティアに向けて三本指を立てて見せる。


「一つ、譲位する」


 人差し指を折る。


「一つ、追放する」


 中指を折る。


「一つ、処刑する」


 薬指を折る。


「どれも禍根が残るだろうな。特にあとの二つは更なる内乱が待つ。同胞同士が血塗られた道で相まみえることは悲しいことだ。そして先の一つ。そなたはプロキオンが皇帝の座に就き、マグノリアが皇家に影響を及ぼすようになれば、それでよいと考えているようだが、おそらくそうはなるまい。いずれ必ずマグノリア自らが名を残すことを欲するだろう。そうすれば、こちらも待つのは内乱だ。困ったことに、血で争うことを避けるための選択肢は新たな血を生むまでの時間稼ぎにしかならない、というわけだ」


 自分の何を知っているのか。ルクセンティアはシリウスの言動にそう反発心を覚えながらもその言葉をどこか納得している自分がいることも感じていた。


 ルクセンティアの心中を知ってか知らずか、シリウスはわずかに笑みを浮かべると、そのまま親指を立てて見せた。


「しかし幸いな事に、今この時に限っては、四つ目の選択肢が存在する」


 シリウスは親指を握りこぶしの中で握りしめる。


「天地崩壊によって滅んだ国の新たな王に据える」


「……失礼ながらなぜそれが選択肢となるのか、臣には理解できませぬ。仮にそれが選択出来たとしても、『メルギニア』がその国を併呑するという選択を捨てる理由には」


「他人の不幸に乗じて幸せになるものがいれば、人はどう思うか」


 突然の話の転換に、ルクセンティアは一瞬面食らうが、問い掛けられた内容はごくありふれた問いだった。


「妬むでしょうな。ですが、それは『メルギニア』でなくとも同じこと」


「そうだな。しかし、そこに正当性があるならばどうか」


 シリウスの瞳の奥の灯が揺らめく。それはまるで、内側で燃え盛る炎を思わせ、ルクセンティアは知らぬ内にその瞳に見惚れていた。


「……大義名分など如何様にもなるもの。万民が納得する正当性など理想の上にしかないでしょう」


「人の理屈だけならば、民を、他国を納得させることは難しいかもしれぬ。しかし、女神が絡むとなればどうか。

 そう、例えば、『メルギニア』に属国として虐げられ、それでも一族を護るために従い続けていたそなたの下に、風の女神「フリウ」が「神子」を遣わせたとしたら?

 そして、自身を擁する国を興せと。女神信仰を持たぬ『キシリア』に代わり、新しい風の民として『マグノリア』を再興せよ、と、そう女神が望むのだ。

 『メルギニア』は元々光の女神「ラナ」を擁する『アストリア』の盾ではあるが、同時に女神信仰の盾でもある。また、『メルギニア』の擁する女神は「レアラ」。風の女神「フリウ」の加護を得た国が同盟国として興るのならば、是非はない」


「……ですがそのような」


「「神子」はいる」


 正当性の核となる「神子」がいなければ話にならない、そう言いかけたルクセンティアの言を制して、シリウスが答える。


「……やはり、陛下の下に」


「「神子」はいるが、そなたの下に現れた「神子」とは別の者だ」


「……なぜ別と?」


「それは重要ではなかろう。そなたが顔を合わせれば、結論は自ずと出ることだしな。それよりも重要なのは私の下にいるのが、風の女神「フリウ」の加護ある国、『キシリア』の「神子」である、ということだろう」


「『キシリア』の「神子」、ですと」


「『キシリア』が保護していた「神子」を奪ったわけではないぞ」


 目を細めたルクセンティアに、シリウスは笑みを返す。


「信じる、信じないは自由だが、この時、この地に現れたものを偶然に保護したというだけだ。そもそも「神子」と判明したのは保護した後であるしな。それゆえ『キシリア』が風の女神に見捨てられたというのはあながち嘘ではない」


「仮にそうであったとして、なぜ臣でなければならぬのでしょうか」


 「陛下に反旗を翻した自らを選ぶ理由が分からない」、とまでは言葉にしなかった。それは互いに理解していても、今は「そのような事実は無かった」ことになっているのだ。


「ただ野心が強いのならば、そもそも生かしはせぬ。そなたは『メルギニア』がどのような国かを知っておる。また、豊かなマグノリアを築いてきたそなただ。願いさえ叶うならば、再びそれぞれの国と民のため、これからも互いにうまくやれると、予はそう考えておる」


 この言葉を内乱前に聞かされたなら、ルクセンティアは「理想ばかりの若造め」と思ったことだろう。だが、目の前のこの若き皇帝は、ルクセンティアを国内において政治的に身動きがとれぬ状態を作り上げた上で、自身の提案に乗れと言っている。ルクセンティアの意思を尊重しているようだが、その実、選択肢は二つしかないのだ。皇帝の申し出を断り、舞台から下りるか、皇帝の申し出を受け『メルギニア』の属国として生きるか。

 そして前者を選べば、舞台を下りた先の命の保証はあるまい。つまり、ルクセンティアが自死を望まぬ限り、ルクセンティアが採れる選択肢はただ一つだけなのだ。


 後者の選択肢にはまだ可能性がある、と思わせるところも狡猾だった。今回はルクセンティアは皇帝に完敗した。シリウスの言う通り、「うまく」付き合っていくにしても、シリウスの思惑を外れ、さらに先への飛躍を望むとしても、生き延びなければそれすら叶わない。おそらくルクセンティアがそう考えることすら、この皇帝は予測済みだろう。

 だが、何もかもが思い通りになるとは思わぬことだ、と思い、そこでふとルクセンティアは笑みを零した。


「どうした?」


「いえ」


 何もかもが思い通りになるとは思わぬことだ。正にその通りだ。だが、それは今の自らに対してこそ相応しい。だからこそ改めて思う。「何もかもが思い通りになるとは思わぬことだ」と。


「承りましょう」


 シリウスはルクセンティアの言葉に満足したように頷く。


「近いうちに出兵の指示が出るであろう。その際、国内の『ウツロ』討伐に向けた部隊編成も含め、兵力は再編する。この話はその軍議の際に皆に話そう。それまでは、待機しているがよい」


「近いうちとは」


「近いうちだ。話は終わりだ」


 言って、シリウスは背を向けて天幕を出ようとしたところで立ち止まり、ルクセンティアを振り返った。


「あぁ、忘れていた。予が訪れたことに対して、護衛がそなたに何も伝えなかったこと、咎めてやるなよ」


「は?」


「少し特別な方法でここを訪れたのでな。そなたもすぐに理解する。護衛がそなたに何も伝えられなかった理由をな」


 笑みを浮かべ、天幕の外にシリウスが顔を向けたかと思うと、次の瞬間、ルクセンティアの視界からシリウスの姿は消えていた。

 確かにそこにいたはずの皇帝は、まるで初めからそこにいなかったかのように、跡形もなく。

 その驚きに止まっていたルクセンティアの時がようやく動き出したかのように、天幕の入り口の布が僅かにふわりと揺れた。

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