第七十七話 ウツロウミコ
ユリアという少女がメテオラと出会ったのは、今から二神期前の水の神節の事だった。
アンスイーゼン領の冬は寒さが厳しい。西大海には北からの寒流が流れ込み、そこから吹く風が冷気を運んでくるためだ。同じ西大海と接していても、暖流が流れ込んでいる旧『ポートガス』三国は、西からの風も温かく、神期を通して温暖な気候を保っている。アンスイーゼン領では、冬は西大海からの湿った冷たい風が運んでくる雪雲によって、水の神節のほとんどは雪に覆われた日々が続いていた。
土の神節にもなれば、『キシリア』から吹く乾いた風にも耐えるほどの潤い豊かな土地に変わり、様々な作物が生い茂る肥沃の土地となるのだが、それはあくまでも土の神節になってからのこと。
アンスイーゼン領に住む者たちにとって、水の神節は、長く厳しい季節であった。
多くの生き物が雪を避けるために洞や土の中に籠る季節、人々は風の神節までに蓄えた食料で命を繋ぐ。
外を出歩くものは、必要に迫られた僅かな者たちだけで、この季節、アンスイーゼン領の多くの街や村からは人影が消え、代わりに建物の中の灯だけが、揺らめいている日々が続いた。
そんな人気のないアンスイーゼン領の街中に、ユリアは突然現れた。
元々人通りの少ない街であったため、彼女がどこからやってきたのかを見たものは、誰もいなかった。
ユリアは現れたその街で治癒行為を始めた。寒さのために凍傷にかかったもの、体調を崩したものを目にすると、その者に触れ、癒しを与えては去っていくことを繰り返した。
教会の管理下にない野良の治癒術士がいる。
それは瞬く間に街で噂になった。
だが、ユリアが教会に保護されることはなかった。
彼女が一箇所に留まり続けることがなかったためだ。
アンスイーゼン領は、冬の間、街だけでなく、街と街を繋ぐ街道も雪の下に沈む。教会の「お勤め」も冬の間は難しく、教会のない小さな町や村にでは、冬の間に病にかかると、治癒術による治癒を望めずに命を落とすものも少なくない。
ユリアはそうした村々にも現れては、癒しを施し、姿を消すことを繰り返した。時には壊死しかけていた箇所すらも治癒できた、という噂と共に「女神様が遣わしてくださった聖女だ」、という声が上がっている場所もあった。現れる場所に規則性はなく、彼女の噂が立つ頃には、既に別の村に移動を終えており、教会も彼女を捉えることが出来なかった。
確かな情報もないまま、教会の把握しない「聖女」が歩き回っているとなれば面倒と考えた教会は、
「そうした曖昧なままの噂だけを広げると、「聖女」が現れた村とそうでない村の不公平感から、女神様に対してよからぬ考えを持つ者もいるかもしれぬ。その信心と感謝は胸に止めた上で、いずれ教会に訪れ、女神様の像に感謝を捧げるといい」
そう告げて、一つ一つ潰していったが、それよりも噂が広まる速度の方が上回り、「聖女」の存在は静かにアンスイーゼン領に広がりを見せ始めていた。
メテオラがユリアと出会ったのは偶然の産物だった。
その頃のメテオラは領内を視察していた。神の恩寵の減少により穀物の生産量が減り続ける中、備蓄が不足し飢えた領民が出ていないことを確認するために、各地を回っていたのだ。カファティウスはこの頃から既にマグノリア侯の動きを警戒しており、メテオラもまた、自らが領地を巡る有効性を理解した上での視察であった。
その視察の最中、メテオラを乗せた馬車は突然速度を落としたかと思うと、御者がメテオラに声を掛けた。
「姫様」
「なにかしら」
「人が」
「この季節に物好きね。……それだけで声を掛けることもないでしょう?どうしたの」
「少女が一人。もしかすると、噂の治癒術士かと」
「……あぁ」
馬車を止めさせたメテオラが外に出ると、突然側で動きを止めた馬車を怪訝に感じたのか、少女も馬車とメテオラの方を見て立ち止まっていた。
「そなた、近頃近辺の民を治癒して回っているという治癒術士か?」
メテオラの前に立つ御者が声を掛けると、ユリアは首を傾げる。
身を構える様子もなく、警戒心の見えない少女の様子にメテオラは目を細めた。
「なに?」
「治癒術士は教会の庇護下に置かれる必要がある。それを知らずに辺りを回っているのであれば、教会に紹介してやるが」
「きょう…かい?それでいい?」
「……そうだ」
少女の言葉は皮肉であるようにも聞こえたが、ただ無知なだけであろうと、御者は思い直す。思い直したが、その言葉に思うことがある御者は、言葉を返すまでに時間を要した。
一方で、側で聞いていたメテオラは少女の言葉に違和感を感じていた。無知というより、これは。
そう考えながら、軽く指先で唇を撫でた。
「あなた、どこから来たの?」
少女は何かを考える素振りを見せ、まっすぐ道の先を指さした。
「ウィリスか?」
御者が街道の先にある町の名前を呟く。だが、メテオラは少女が指す指先がさらに先であるように思えた。
近隣に住む少女であるなら、誰も彼女のことを知らないのはおかしい。だが、ここまで少女については、その容姿ぐらいしか伝わっていない。彼女がどこの町のものであるかも、また突然いなくなった少女がいる、という話も聞いたことがなかった。ならば。
「……『キシリア』」
メテオラの言葉に少女が頷く。
メテオラの感じた違和感、それは御者とのやりとりにおける彼女の所作と言葉の不自然さだった。
初めはこちらの意図を図りかねてのことかと思ったが、おそらくそうではない。彼女はこちらの言葉を理解できていない、そのように思えた。
ならば、他国の人間ではないか。そして、ここより北の地で、今、流民が出ている場所と言えば一つしかなかった。
そのメテオラの推測は、結果的に当たっていたようだった。
「セルブス」
「……は」
「この子を連れ帰ります」
「……御意」
セルブスと呼ばれた御者は、メテオラの突然の発言に内心の驚きを隠しながらも、主の言葉は絶対である以上、言葉としては「応」のみを返した。
他国の人間であるならば、扱いも容易ではない、メテオラはそう判断したのだろう、というぐらいの推測は出来る。ならば、ただの御者たる自分は従うのみだった。
「あなた、名は?」
メテオラが御者の横を通り過ぎ、少女の前に立つ。目前に立ってしまえば、少女より背の高い自分は威圧的に映るだろうと、わずかに屈んで声を掛ける。
「ユリア」
少女は、だが、メテオラのその心配など無用だったのではと思えるほど、彼女の行動に関心を持たず、ただ聞かれたことに答えただけだった。
メテオラとユリアはこうして出会った。
ユリアを庇護したメテオラは、彼女を側仕えとして手元に置いた。
アンスイーゼン領に広まりつつあった「聖女」の噂は、アンスイーゼン領主の命であり、通常の活動とは別に派遣させていた治癒術士の「お勤め」が誤って伝わっただけである、という話を流布させ、表向きは鎮めさせた。
民衆に対する教会の顔を立てながら、教会に対しては領主が「聖女」を保護したことを理解させるためでもあった。
その場にいて事情を知っていた御者のセルブスと、その視察に同行していた側仕えのマグダには、彼女の素性を語らぬよういい含め、周囲に対しては、ユリアは行儀見習いのために遠戚から預かった少女であると説明した。
皇族に連なるものの遠縁など、調べればすぐわかりそうなものだが、一方で、調べても分からないというものが一定数いるのもまた事実であった。敢えてメテオラが受け入れていることを含めて、この情勢下では細かく調査する者もいないだろう、というメテオラの打算もあった。
ユリアの庇護が長期に及び、かつ自身が皇位継承に絡むことがあれば、ユリアとメテオラの関係性を調べ、余計な追求をしようとするものも現れるかもしれなかったが、短期の間、そうした輩が現れなければ問題ない、とメテオラは考えていた。
そして、短期の間さえ面倒事が起きなければそれでいいと、メテオラが考えていた理由は、程なくして現実となる。
「声が聞こえた?」
「「ウツロノミコ」がいる」
メテオラがユリアを保護してからしばらく時が経ち、ユリアもようやく『メルギニア』の言葉と側仕えの仕事に慣れてきた頃、給仕をしていたユリアが突然脈絡もなくそのような言葉をメテオラに告げた。
ウツロノミコが何を指しているのか、それが『キシリア』の言葉なのか迷ったメテオラだったが、程なくしてそれが「うつろの神子」だということに気づく。
「神子」ではなく「うつろの神子」。それが近頃カファティウスが調査させているという『ウツロ』と無関係だとは思えなかった。
「声が聞こえた、とは?」
「……分からない」
ユリアの答えは、メテオラの言葉が分からないのか、それとも、それ以外に表現のしようがない、という意味だったのか、一瞬判断に迷う。
「誰に話しかけられたか分からない、ということ」
「ここに、聞こえた」
そう言ってユリアが指さしたのは、彼女の頭だった。そのユリアの仕草で、メテオラはユリアが自分に起きた事実をどう表現してよいのかわからないのだ、ということを理解した。
それと同時に、ユリアは女神の力を使えるだけの「聖女」などではなく、女神の代理と呼ばれる「神子」であるという推測に至った。
メテオラが、短期の間だけ面倒事が起きなければそれでいいと考えていた理由、それはユリアが「神子」であるという予感があったからだった。
「神子」は人々と直接関わりを持つことの出来ない女神が、天地崩壊から地を救うために遣わす代理人であり、その存在は天地崩壊の時にだけ確認されている、と言われている。
「神子」の顕現は、天地崩壊が間近に迫っている証。
天地崩壊を防ぐ「神子」の保護は、何よりも優先されるべきものだ。
「神子」の保護のために、ユリアの素性を偽っていたとすれば、これを責められるものは多くない。
あとは、この手にした切り札をどう使うかだった。
そもそも、なぜメテオラがユリアを「神子」である可能性が高いと考えていたのか。
その根拠は民衆の噂の中にあった。
ユリアに関する民衆の噂の中には、「凍傷により壊死した箇所の治癒を行った」、というものがあった。「治癒術」に治癒が可能なのは、自己修復能力の促進であり、傷の治りを早くしたり、生命力を活性化することで、病に対する抵抗力を高めたりすることは出来ても、既に失われた箇所、エーテルが枯渇してしまった箇所の修復は出来なかった。それが出来るのは「神力」と呼ばれる力だけであることを、メテオラは知っていた。
「神力」とは文字通り女神の力を借り受けたものであり、その力が何を為せるのか、その限界は未だにはっきりとしない。確実なのは、治癒術では癒やすことの出来ない部位の欠損を治癒することが出来る、という事実だけだ。
それも、失って間もないものに限り、大きく時が過ぎてしまったものに対しては効果が見込めない事があった。
ユリアにはその「神力」に相当する力がある、という噂があったことから、メテオラはユリアが「神子」である可能性を見出していた。
もう一つ。ユリアが「神力」だけを借り受け、扱えるだけの「聖者」「聖女」ではなく、女神の代理人たる「神子」であると考えた理由、それは『ウツロ』の存在だった。
「神子」はこの世に満ちた生命を喰らう者たちが住む異界に大地が引き込まれる事象、天地崩壊。その天地崩壊により異界に沈んだ地をこちら側に引き戻すことが出来る唯一の存在である。
「神子」は人々と直接関わりを持つことの出来ない女神が、天地崩壊から地を救うために遣わす代理人とされ、その存在は天地崩壊の時にだけ確認されている。
「神子」が本当に天地崩壊の時にだけ現れるのか、それとも「聖者」「聖女」のうち、天地崩壊を救ったものだけが「神子」と呼ばれたのかは定かではない。
だが、本当に女神の代理人であるならば、「聖者」や「聖女」のように、教会が自らの立場を強化するためにいいように扱われるということはないだろう、とメテオラは考えていた。もしそうなら興醒めもいいところだ。
そしてどうやら、「神子」は本当に女神の代理人であるのかもしれない。
そのことをメテオラは、「直接頭に語りかけられた」とするユリアの言葉から感じたのだった。
ユリアの話では「うつろの神子」が何か、はっきりとは分からなかった。言葉が伝わらないためかとメテオラは考え、『キシリア』の言葉に堪能な者を挟んでユリアと話をしたが、どうやら言葉のせいではないということはすぐに分かった。ユリアに語りかけたものが、「うつろのみこ」がこの国に入り込んでいる、という事実だけしか伝えていなかったのだ。
だがしかし、『キシリア』の言葉の翻訳を挟んだ意味はあった。「うつろのみこ」が入り込んだのは、ここより西に遠く離れた地であること、今は痕跡しか残っておらず、すでに姿を消していることが分かったからだ。
メテオラはユリアの話を聞いた後、しばらく考えを巡らせると、皇弟のいる地に人を派遣することにした。メテオラの考えが正しければ、彼の地でカファティウスの調査している『ウツロ』に関する情報が新たに得られるはずだった。
しかし、得られた情報はメテオラの期待していたものとは異なっていた。
皇弟のいるマグノリア領では『ウツロ』の目撃情報はなく、代わりに得られたのは「神子」が現れたという情報だった。現れた事実は明らかだったが、その「神子」が既にマグノリア領から去ったのではないか、という事実は確認できなかった。突然姿を現さなくなり、その期間が長く続いていることと、ユリアが聞いた声の情報を結びつければ、そうだろう、という予測は容易であったが。
メテオラはこの情報をカファティウスに伝え、以降は表立って動くことを控えることにした。
仮に『ウツロ』が現れたなら、「神子」であるユリアに何かが伝えられるだろう。そして、内乱に関しては、自身の立場からすれば静観するのが望ましい。皇帝が勝っても、皇弟が勝っても、内乱が起きれば国内の民は傷つく。ならば、なるべく少ない被害で内乱が終わればいい。そのための手助けはしたとしても、それ以上のことには関わらない。自身が皇位継承に関与しない意思を示す上でもそれが最も最善である、とメテオラは考えた。
自らに火の粉が降りかからない限りは。
△▼△▼△
そうして先程、静観していたはずのメテオラに、なぜかシリウスから呼び出しがかかった。何の用かと思えば、カファティウスの元に嫁げという命だった。
いつどこで知ったのか、ユリアのことも把握していたシリウスは、おそらくメテオラが「知っている」ことを知っているだろう。
伝えることだけ伝えた後、あっさりと帰ったシリウス。その彼が出ていった扉を眺めながらメテオラは考える。
北の『キシリア』、南東の『ルース』と『シェハサ』、そして、東の『リリス内海』を挟んだ向こう側の国『トード』は、既に国として存在しない。
シリウスはそれを知っているからこそ「各国」を平定する、と宣ったのだ。
そしてそれを可能にするユリアを差し出せと言ってきた。
ユリアはメテオラにとっての切り札となるはずだったが、兄の方が何枚も上手だったというわけだ。
メテオラはその事実を、カファティウスとは別の意味で「面白い」と感じていた。
『メルギニア』は自分が守らねばと思っていた。
家族を、カファティウスを、この身一つで隣国からでも守れるならと、縁談先は吟味させてきた。
内側から崩壊するおそれがあるこの国が、外から食い荒らされぬように、と。
だが、それもこの僅かな間で状況が一変した。
頼るはずだった他国は消え去り、争うはずだった内患は荒療治だが治療された。
状況を一変させたのは、最も頼りにしていなかった兄だった。
シリウスがこれまでに直接手を下したのは国内だけだが、今の動きを見ている限り、その先まで見据えてこれまで動いてきているのだろう。
シリウスが代わりに国を守ってくれるというのであれば、ユリアをシリウスに預けることを拒む理由はない。
――自らに与えられた役割以上のことには興味のない振りをしておいて。
メテオラは薄く笑う。
だが、そこでふと気づく。
メテオラが必要に応じて「装おう」事に慣れているため、シリウスもそうであると考えてしまったが、そうではないのではないか、と。
――皇帝という立場を甘く考えていたのは私ですか。
皇帝に与えられた役割は自国の安寧だけではない。『アストリア』の盾としての再興もまた、『メルギニア』皇帝が与えられた役割だ。
シリウスは、何らかの方法でユリアが「神子」だと知っていた。そしておそらくそれと同じ方法で、ユリアのように、国が沈んだ瞬間を知っていた。
ユリアは『キシリア』の死と共に、より強くそれが分かるようになったと言っていたが、シリウスはどうなのだろうか。
いつからそれを知っていたのか。
もしかするとシリウスは、初めから『ウツロ』という脅威が間近に迫っていることを知っていて、その上で敢えて放置していたのではないか。
内乱鎮圧の兵を起こすにあたって、大半の魔術士を帝都に残していたことも、それならば理解できるというものだった。
シリウスは自らの手を汚すことなく、地に沈んだ他国を救うため、という大義名分を得た。
地に沈んだ国の全てを自国に併呑すれば、かつての『べトゥセクラ』に届かないとしても、『メルギニア』としては過去最大の版図となる。
――陛下は誰よりも『メルギニア』皇帝であろうとしているのかもしれない。
ですが、急激な版図の拡大は、周辺国からの反発も大きいでしょう。その点をどう対処するつもりか。
カファティウスに話をしておきたいところだが、ユリアの事、「神子」の事を伏せて話すのは難しい。ユリアが「神子」と知れば、何を考えるか分からない危うさがあの男にはあった。だからこそ「面白い」のだが。それに……。
――「お友達」としても、「婚約者」としても、適切な話ではありませんしね。
そう思うと、メテオラは先程とは違った意味で、「面白い」と、笑みを零した。




