第七十六話 己が使命なれば
磨かれた壁面には、麦の穂が揺れる姿と蒼き衣をまとった少女の姿が描かれており、その道をさらに奥に進むと、槍を手に黒衣を纏った集団が立ち並ぶ姿が続く。絵は徐々に黒の靄に混ざり、黒曜石の壁となり、更に奥へと続いていた。
その道の果てには、漆が塗られた漆黒に、幾重もの白が散りばめられたの扉がある。その扉の前には二人の少女が立っており、目の前に現れた女性の姿を見ると、無言で会釈をした後、扉を押し開く。
あたり一面が黒に覆われたその部屋の前で、女性の姿はひときわ輝いて見えた。
ほんのわずかな黄金色を帯びた白の布地とその服から伸びる陶器のように細く白い腕は、夜空に浮かぶ闇星そのもののようにも映る。その白く輝くような服の上を流れるように続く金色の髪は、この闇の中にあっても一際輝きを放ち、それは夜の闇すら照らし出す光星のようにも見えた。
光の女神ラナの化身と喩えるものもいるというその女性の名はメテオラ・クラウディウスといった。
「お帰りなさいませ」
メテオラが部屋に入ると、その脇で一人の少女が出迎える。灰色がかった金髪に、黒みがかった衣服をまとった少女は、光星に付き従う衛星のようにも見える。
少女はメテオラの手にしていた扇子を流れるような動作で受け取ると、彼女に付き従って部屋の奥に向かった。
「陛下はユリアの事をご存じのようだった」
メテオラは少女に視線を向けることなく独り言のように呟くと、部屋の脇に備え付けられた寝台に腰掛けた。少女もメテオラの言葉を気にすることなくその足下に膝をつくと、メテオラの靴を脱がせる。
窮屈な靴から開放されると、メテオラは片足ずつ一本の芯を通したようにまっすぐつま先までぴんと伸ばす。
「心当たりは?」
メテオラの動作には興味がないとでも言うように、無言のまま、脱がせた靴を片づけるためにその場を離れた少女。その背にメテオラは視線を向けることなく声だけを掛ける。少女はそこでようやくメテオラの方を振り向いた。
「いえ」
言葉少なく答え、再び仕事に戻る少女の後ろ姿を眺め、メテオラは一つ息を吐いた。
多くの者がメテオラの事を畏怖し畏敬する中で、卑屈になることもなければ、物怖じもせず、かといって肩を張るでもない、その少女の名をユリアといった。
「マグノリア侯の時と同じ事を、陛下も行えるのかと思ったけれど」
もしもそうであるならば、ユリアが自分に何も告げなかった理由も分からない。
だがしかし、マグノリア侯の時と同じであるとするならば、いずれかが一方的に感知した、という事もあり得る。
「以前、ユリアが「神子」に気づいた時、あちらもユリアには気づいていたの?」
靴を片付け終えたユリアは、両手を腹部の前で重ねた直立不動の姿勢でメテオラに向き直る。
その視線はメテオラを見つめているようで、どこも見ていないような、そんな不気味さが感じられた。
「いえ」
「それはどうやって分かるもの?」
「あれは確かに「神子」ですが、私とは違います。あれにそれほどの力はない。それだけのことです」
「どういうことかしら」
「神子」が複数いることは、過去の伝承にも記録されていることで、それを疑問に思ったことはなかったが、ユリアの物言いはそれとは別の何かに聞こえた。
「メテオラ様に語れることではありません」
「なぜ?」
『……理解できるでしょう?』
薄茶色のだったユリアの瞳から一瞬色が欠けたかと思うと、口から発せられた言葉は、それそのものが力を持ったかのようにメテオラの身体を縛り付けた。いや、縛り付けたかのように感じられた。
全身を冷気が駆け抜けたかと思うと、直後には燃えるような熱さが全身を包んでいた。だが、それも一瞬のこと。
「メテオラ様にお話すべき事はお伝えしているつもりです」
次いでユリアが言葉を続けた時には、全ては何事もなかったかのように、感覚も、ユリアの放つ言葉も、ただの主と従者の間で交わされる「それ」に戻っていた。
「フルークもそんな感じだったのかしら」
「いや」
恐れと畏れを抱きながら呟いたメテオラの言葉を否定したのは、目の前のユリアではなかった。
戸の軋む音にも似た声の主は、いつからそこに立っていたのか、部屋の扉の前に立ち、寝台に腰掛けるメテオラを見下ろしていた。
メテオラと同じ光星のように輝く金髪を湛えた青年の名をシリウス・クラウディウスといった。
「陛下……」
「了承も得ずに勝手に入ってすまないな」
事も無げに語るが、メテオラの部屋の前には扉の開閉を任された二名の少女が控えている。彼女たちはメテオラの許可なくこの部屋の扉が開けられぬよう立っており、それはたとえ皇帝陛下と言えど同様であった。
それだけではない。この部屋に続く廊下には護衛の兵が立っている。シリウスとメテオラは兄妹とは言え、互いに立場のある身。何の先ぶれもなく訪れた皇帝陛下に対して、メテオラに伺いを立てることなく通すとは思えなかった。
それとも、それを許容してしまうほどの事態でも起きているというのだろうか。
部屋に戻ってからシリウスが訪れるまでの時間は数分程度。その間に劇的に状況が変わったとは考えづらい。
では、どうやって?
疑問は尽きなかったが、どのような経緯であれ、目の前に立つのがこの国の統治者である皇帝陛下である以上、座ったまま出迎えるというのは失礼にあたる。
メテオラはユリアに目配せをして靴を持ってこさせようとしたところで、シリウスがそれを手で制止した。
「突然訪れたのはこちらだ。非礼はこちらにある。そもそも、私たちは兄妹だ。そこまで肩肘を張る必要もなかろう」
「陛下が私のことをそこまで親しい間柄と考えていただいていること、大変有り難く思います」
シリウスの言葉に礼を返しながらも、それを言葉通りに受けるわけにもいかず、メテオラは寝床を降りてその場に立ち上がった。
ここでさらにユリアに靴を取りに行かせてはこちらが非礼になるだろう。だが、皇帝陛下を座って出迎えることも出来ない。
ならば、そのまま立ち上がるしかなかった。
「ところで、突然どうされたのですか。先触れも出さずに訪れられるとは、余程お急ぎだったのでしょうか」
シリウスは弟を御旗に掲げた反乱は早々に食い止めた。メテオラの情報がその一助になったということをシリウスが知り、その礼を言いに来た、という可能性もあったが、それであるならば、先程、カファティウスと共にいた場で話せば良いだけだ。
改まってメテオラの部屋に訪れてまで告げることではないだろう。
では、先程のアンスイーゼン侯との婚約に関する話か。
国の留守にあたり、アンスイーゼン侯に代理の権限を与えると言い、そのアンスイーゼン侯を側で支えよ、と言ったのはシリウスだった。
それが、シリウスに取って代わる意思があるかどうかを探るための芝居であった、などと考えるのは流石に考え過ぎだろうか。
弟を排除した今、皇帝の座を脅かす可能性があるのは、妹であるメテオラのみだ。
メテオラまでをも排除すれば、シリウスの地位は安泰だろう。
だが、その場合、クストも排除することになる。反乱が落ち着いたばかりのこの時期に国の防衛を司るカファティウスを除くような行為に出るとは思えなかった。
ならば、メテオラに考えられる理由はあと一つだけだった。
もともとその事実を疑って、部屋に戻るなりユリアに確認したのだ。
「心当たりはないか?」と。
「先程、アンスイーゼン侯の前では話せなかった話をしようと思ってな」
シリウスはメテオラの心中を知ってか知らずか、悠々と部屋に置かれた椅子に腰掛ける。そうして、身体を前のめりにすると、両肘を膝の上に乗せ、指を絡ませるようにして手を組んだ。
メテオラは、先程ユリアから感じた圧力とはまた異なった圧力をシリウスから感じていた。それは、得体のしれない、容赦のない暴力のような力ではなく、人がその内側に抱え持つ意思を以て感じさせる力だった。
「クストの前では話せないお話……ですか?」
「そこの、側仕えのユリアを貰い受けたい」
思わず、「は?」と声を出しかけたメテオラは、息を呑むように言葉を呑み込むと、一度ユリアに視線を移し、再度目の前のシリウスを見た。
言ったシリウスも、言われたユリアも至って平然としていた。互いに予め話をしていたとでもいうような態度だが、おそらくそうではないのだろう。シリウスがどうかはわからないが、ユリアについては手元に置いてからこちら、大きく表情を変えた姿を見たことがなかった。もしも彼女が驚きの表情を浮かべていたら、メテオラはその時こそ驚きを隠せなかったかもしれない。
それにしても、「随分、面白くなった」とシリウスのことを評したのはメテオラだったが、未だ評し足りなかったらしい、と認識を改める。
十神期前からこうした冗談を言えたなら、周囲がシリウスを見る目ももっと違っていただろうと思う。
だが、そのように思う一方で、シリウスのこの発言が冗談ではないことは理解できていた。
そして、それが言葉通りの意味に過ぎないということも。
本当に、これが冗談であれば良かったのに、とメテオラは思う。
「初めから、ユリアをお使いになるつもりでしたか」
「ウツロ」と内乱による騒ぎを収めた後、各国の平定に乗り出す、とシリウスが言った時、メテオラが考えたのは「どのようにしてか」と言う事だった。
シリウスの言う各国の平定とは、天地崩壊により沈んだ国の土地を再び浮き上がらせることであろうことは予測がついた。
だが、伝承によれば、天地崩壊の地には「神子」以外は足を踏み入れることが出来ない、とされている。
マグノリア侯の下には既に「神子」はいない。
ユリアの言葉を信じるならば、シリウスの下にも「神子」はいない。
ならば、どうするのか。
「否はないな」
シリウスのそれは、メテオラに向けられた言葉ではなかった。
「御意に」
主であるメテオラの意思を伺うまでもなく、ユリアが答える。
「ユリア」
「これが私の使命なれば」
シリウスがどうやってそれを知ったのかは分らぬままだったが、ユリアが何者であるのかを知っていて、シリウスが彼女を連れていくというのであれば、メテオラはそれを拒絶することは出来なかった。
それが、メテオラがユリアという「神子」と出会ったときに交わした約束だった。
「……随分板についたものだな」
ぽつりと呟いたシリウスの言葉は、メテオラの耳に届かぬまま、部屋を照らす灯の火にくべられて、燃えて消えた。




