第六話 虚ろうモノ
国境の砦で一夜を明かした商隊は、翌朝早朝から山を下り始めていた。
山とは言っても、軍隊が行軍可能な程度に均された道であり、平坦とは言わないまでも、動くにはさほど苦労しない道である。
光星が地に沈み、その陽の野営地予定の場所に到達する頃には、山岳地域の行程を三分の一ほど歩き終えていた。
野営地は高原と呼んでも良い広さの場所となっており、火の神節(夏頃)であれば、街道を少し離れた場所に、放牧を目的とした遊牧民たちによる小さな村が出来るような場所である。
野営するにしても各自、十分な空間を確保できる上に、簡易な柵を配置しされており、さながら小さな陣が出来上がっていた。
日も落ち、食事を終えた一行が、各自見張りを置きながら休息に入ろうとしていた時間。
最初に異変に気づいたのはフアンだった。
周囲に聞こえていた生き物たちの音が、急に途絶えたのだ。
不審に思い、天幕から顔を出すと、そこにはデイルとウィルが立っていた。
「何か来ます」
小声で伝えるフアンに、デイルが頷く。
「こんなだだっ広い場所で仕掛けてくるとか正気か?」
ウィルは小声でぼやきながら、ガレル達商隊に注意を促すために天幕を離れる。
周囲の傭兵たちも、徐々に違和感に気付き、ざわつき始めていた。
誰もが警戒をする中、暗闇から姿を現したのは四人の男だった。
服があちこち擦り切れ、着の身着のままといった様子で、何も手にしていない。
足元もおぼつかず、酒に酔っているようにも見えれば、最早歩く力も残っておらず、なんとか前に進んでいるだけ、というようにも見えた。
「……この辺りの人間か?」
フアンの隣でデイルが目を細めて男たちを見つめる。
町中でもない場所で、こんな時間に外を出歩くのは真っ当な状態ではない。
考えられるとすれば、夜襲か、それとも、夜襲を受けて逃げてきたか。
前者にしては覇気がなく、後者にしては必死さがなかった。
「近寄らない方がいいわよ」
「……シン、勝手に出てはいけません」
ゆっくりと近寄ってくる人影に対して、どう対するかを決めかねていたデイル達に、後ろから声がかけられる。
「シン……、とアンか。今のはどういう意味だ?」
フアンとデイルが振り向くと、そこにはフアンと同じ白いローブに身を包んだ人影が二人立っていた。
シンとアン、赤い牙に同行することになったギルド事務員だと紹介した四人の中の二人だった。
レツ、フアンと共に斥候として活動していたデイルは、シンとアンの二人と会話をする機会も無く、どういう人物かを掴めないままだ。
もともと、協力要請がない限り話しかけるな、と言われていたため、この二人と共に行動していたウィルたちも、どの程度話ができたかは定かではないが、少なくとも、デイルからすれば、フアンやレツと違って、ほとんど「はじめまして」の状態だった。
初日の紹介の際、ギルド事務員として、ギルドとの連絡係を担当することと、護身術ぐらいは使えるという話を聞いたのが全てだった。
「上手く言えないけど、人の生命力、エーテルが普通とは違う感じがする」
「……シン」
アンが嗜めるような声で話しかけるが、シンは気にしていない様子だった。
魔術士ならば自然の中に溶け込んだマナを、治癒術士ならば人の命の根源と言われるエーテルを見ることが出来るというが、魔術士も治癒術士も本来それぞれの組織に管理されており、個人で行動することはない。
身近にアルという例外はいるが、治癒術士でそんな例外がいるという話をデイルは聞いたことがなかった。
アンがシンに声を掛けているのもおそらくそれが原因なのだろうが、今はそこを問うている場合ではなかった。
「普通じゃないとは?」
「普通の人だったら、どれだけ疲れててももう少しエーテルが循環して……」
「みんな、下がって!」
目を細めるようにして男たちの方を見つめながら、シンがデイルに答えていたその言葉を遮るようにしてフアンが叫ぶ。と、同時に、フアンはすぐ隣りにいたデイルの身体を思いきり押し、自身は両手を交差させ、足を一歩前に出した。
直後、前方にいた男の一人から吹き出した黒い靄がフアンを呑み込む。
アンはそれを見た瞬間、脳裏で「あれは駄目だ」と叫ぶような声を聞いた。
シンはそれを見た瞬間、直感で「あれは駄目だ」と感じた。
「フアン!」
デイルが体勢を立て直し、駆け寄ろうとしたところを、アンが間に入り遮る。
「ダメです、あれに触れては」
「あれは何だ!」
アンが答えるより早く、シンがフアンに駆け寄り、手のひらをかざす。
靄がそのシンの動きに何かを感じたのか、フアンから離れようと動くのと同時に、白い光が辺りを照らした、フアンから離れようとした靄を捉え、靄を消し飛ばしていた。
「……がっ」
力尽きるようにフアンが片膝をつきそうになるのを、アンが抱えて支える。
その横で風を切る音がしたかと思うと、一筋の光のようなものがアンの横を過ぎ、正面の男たちのすぐ脇に突き刺さる。
フアンに向けて靄を吹き出した男だけでなく、他の男たちからも黒い靄が漏れ出すように生み出され、矢はそれを射抜いたようだった。
だが、靄は矢を気にすることなく生み出され続け、それぞれが塊になっていく。
唯一、フアンに靄を吐き出した男だけは、それ以上靄を生み出すことなく、その場に倒れていた。
続けて二本の矢が靄を射抜くように放たれるが、矢は靄を突き抜けて後方の地面に突き刺さる。
矢が突き抜けた瞬間は靄が僅かに揺らいだようにも見えるが、それ以上の変化はない。
「効いてない」
騒ぎに気付いたティオは、靄がフアンを襲った直後から、他の靄が生まれ始めたことに気付き、続け様に矢を射たが、靄に効果があるとはとても思えなかった。
次の矢を手にしたものの、このまま続けても牽制になる様子もない。
逡巡するティオの横をすり抜けるようにしてセリカが駆け抜け、ハルバードで靄を斜め下から薙ぐように切り上げるが、こちらも靄を僅かに揺らしただけで、靄が減る様子も、形を成す動きを止めることも出来なかった。
「セリカさん、下がってください。あれは……良くありません」
アンはそう言いながら、フアンをこの場から離すために立ち上がらせようとするが、フアンは完全に意識を失っているのか、抱えあげようと体勢を変えることも難しい。
デイルに声を掛けようかと思ったところで、フアンの身体がふっと軽くなるのを感じる。気付けば、レツがフアンのもう片方の脇を支えていた。
「俺が担ぐ」
レツがその場に片膝立ちになり、アンは、レツの背中にフアンの身体が覆いかぶさるように補助する。
「さっきも聞いたが、あれは何だ?」
レツが立ち上がったのを見て、その場にいた五人は靄から距離をとるように走り始める。その中で、デイルが改めてアンに先程の靄の正体を問う。だが、その問いに答えたのはアンではなくシンだった。
「あれはおそらく『ウツロ』よ」
天幕毎に置かれている焚き火の他に光源がなく、暗がりではっきりとはしないが、シンは酷く憔悴した様子に見えた。
「話は後でするから、周りの人たちにもとにかく、あれから距離を取るように伝えて。もし、考えてる通りなら、あれはアルさん以外手が出せない」
周りの傭兵団でも靄の存在に気付き始めたのか、辺りが騒がしくなっていた。
その間にも、靄は姿を変え、徐々に人の形のようなものに変わっていった。
その内の一体が変化を終えたのか、近くにいた傭兵に向かって駆け始める。
傭兵は手にした剣で靄を突くが、剣は靄を突き抜ける。靄は貫かれたことを気にすることなく突き進み、傭兵が剣を突き刺すために突き出した腕を掴もうと、腕のようなものを伸ばす。
傭兵は手にした剣を即座に手放すと、手を引きながらその場を飛び退く。
それに追いすがろうと、靄は更に歩を進めたところで、突然右方向から飛んできた火の玉に上半分を吹き飛ばされた。
「魔術は効くようだな」
靄を吹き飛ばした火の玉の発射元はアルだった。
上半分を飛ばされた靄は再度何かの形になろうとしたように見えたが、それは叶わなかったのか、そのまま霧散して消えた。
残っていた二つの靄も既に変化を終えており、それぞれ別の傭兵に襲いかかっている。
「その靄に魔術以外の攻撃は効きません。触れられると命が危険です。とにかく相手の攻撃を避けるのに徹してください!
狙われている方以外はとにかく靄から距離を!」
アンが周囲に向かって叫ぶ。傭兵たちの中にはここまでの顛末をある程度目にしていた者もいて、周りにアンと同じような注意喚起を行いながら、天幕を走り回る。
アルはそれらの様子を横目にしながら、傭兵に襲いかかろうとする靄に対して、焚き火から小さな火の矢を生み出し、靄を牽制する。
牽制に合わせて、相対する傭兵は靄と距離を取ろうとするが、靄も既にこの場で注意すべきはアルだけだと認識したのか、アルからの射線に傭兵が挟まるようにして、アルの火の矢を避ける。
「小賢しい」
アルは舌打ちを一つすると、二つの靄の内の一方には遠距離から火の矢で牽制をしながら、もう一方の靄との距離を詰めていく。
「射線が通らないなら通すまで」
靄と相対しているのが手練の傭兵でなければ、こんな悠長な作戦は採れないが、ここにいるのは皆歴戦の勇士だ。
避けることに徹するだけなら、然程難しいことではないようだった。
そうして、距離を詰め切ると、靄の攻撃を避けた傭兵と入れ替わるようにしてアルが靄の前に立ち、風を圧縮した魔術で靄の上半身を吹き飛ばした。
最後に残った靄は、もう一体が魔術で吹き飛ばされたのを見た際、僅かに動きを止め、何かを逡巡したかのように見えた。
しかしそれも僅かのことだった。
本当に逡巡をしたのか、それを知る術をアルは持たないが、その一瞬で靄が何らかの決意をしたことだけはわかった気がした。
靄がこれまで狙っていた傭兵を無視し、アルに向かって駆け出したからだった。
直線的に向かってくる靄に対し、アルは手をかざすと、火の矢の魔術式を編み、近くにあった二つの焚き火から同時に射出する。
左右から放たれた火の矢は微妙に射線をずらし、左右と後、いずれに避けてもどちらかが靄を貫く、そう計算して放っていた。
だが、火の矢が靄を貫いたと思った瞬間、靄は姿を消していた。
火の矢で消し飛んだのではない。そうであれば、火の矢が当たらない下半分の残滓が残るはずだったからだ。
「……!」
アルはバックステップを踏むと、それまで自分が立っていた場所に向けて風の魔術を放つ。
そこには姿を消したはずの靄の姿があった。
火の矢が襲いかかったその時、靄は身を屈め前方に跳ねたのだ。
アルに向かって駆けてきていた速力が全力だと思わせておいて余力を残し、咄嗟に速度を変え前に逃げたのだ。
靄は放たれた風の魔術をも、身をひねるようにして避けていた。だが、それでも避けきれなかったのか、靄の左腕に当たる部分が吹き飛んでいる。
気付けばアルは笑みを浮かべていた。
彼が懸想する女性に匹敵するとは言わないが、少なくとも自身と同格かそれに近い体捌きをする敵。
そんな相手はなかなか会えるものではなかった。
無理矢理に風の魔術式を避けた靄は、体勢を立て直すと、すぐさまアルに飛びかかり残った右手を伸ばした。
バックステップ中に風の魔術を放った反動で宙を浮いているだけのアルには最早逃げ場はない。
実体があれば是非手合わせしたかったものだが。
そんなことを考えながら、アルは編んだ魔術式を展開し、両手を天に向けて振り上げた。
ごぉ、と耳を叩くような音が鳴ったかと思うと、地面から空に向かって風が吹き上げた。
その風は伸ばされた靄の右腕を靄から切り離しただけでなく、靄本体の前面を吹き飛ばしていた。
突如巻き上げられた風を追いかけるようにして、周囲からアルの足元に向けて風が吹き込み、草花や天幕が激しく揺れる。
近くの焚き火からは風を受けて、火の粉が蛍のように舞っていった。
やがて、風が落ち着き、アルが地に足を着ける頃には、残っていた靄も完全に姿を消していた。
風で乱れた服と髪を整え、仲間が退避した場所に足を向けると、胸の前でローブを掻きむしるように握りしめたシンが、涙を流していた。
「……消えた」
「シン?」
アンがシンの異常に気付き、肩に触れようと手を伸ばすと、その手が触れるよりも早く、シンがその場に両膝をつく。
もう一度、名を呼ぼうとしたアンは、しかし名を呼ぶことなく、跪いたシンの肩に改めて手を添える。その肩は、まるで凍える寒さを我慢しているかのように小刻みに震えていた。
「消えてしまった……」
肩に置かれたアンの手を、シンはぎゅっと握りしめる。
消えてしまった。
男たちに微かに残っていた灯火が。
シンはそれを言葉に出すことが出来ず、ただ、泣いた。




