第七十一話 神か虚ろか
建物の主人が不在の場所で、勝手に厨房を借りるわけにもいかず、床の上で炎を使うわけにもいかず、食材として並べることが出来たのは、肉や野菜を干した乾物ぐらいだった。
少しでも長く保存させるために、と塩味が少し強い乾物を水に少し浸しながら口にすると、身体が空腹を思い出したのかのように主張を始め、疲れていた体に少し強めの塩味はちょうどいいぐらいの味に感じた。
乾物ばかりで元々噛み応えのある食事ではあったが、空腹を少しでも紛らわすために、長くゆっくりと噛みしめる。すると、自然と、食事の間は誰も言葉を発することなく、無言で食事を続けることになった。
そうしてささやかな夕食を終えると、水筒の水で軽く唇を湿らせたフアンが、最初に会話の口火を切った。
「教会で、レツが意識を失っていた間に起きた事について、僕が知っている限りの事はレツに話した。だから、ここにいる四人は、最低限知っている情報は同じだと思ってる。
その上で、あの時の事について、自分たちの考えたことについてお互いに共有したいと思っているんだけど、いいかな」
言って、フアンが三人を見渡す。レツとエレノアは目線が合うと頷き、同意を返したが、フェリだけはフアンと目線を合わせはしても、ただフアンを見つめ返すだけだった。
「そのことについて、先にお話しておきたいことがあります」
どうかしたのか、とフアンが問おうと口を開きかけると、機先を制するようにフェリが言葉を発する。
教会で起きた出来事の中で、フアンにとって最も不可解だったのはフェリの行動とその結果だったため、彼女から話し始める事について否はなく、頷き、応えた。
「私は、『ウツロ』たちが人の姿をとった後からの意識がありません。
気づいた時には、この宿で寝かされていました」
「それは……」
「嘘だろう」と断定するのは簡単だったが、嘘をつくにはあまりにも杜撰にも思えて、フアンは続く言葉を別の言葉に変えることにする。
「教会で『ウツロ』たちがどうなったのかを知らないってこと?」
「はい。……ですが、夢の中にいるような感覚で見た出来事があります。どのように見えたのかも含めお話するつもりですが、もしも皆さんの知る事実と違っていたとするなら、本当に単なる夢だったのかもしれません」
夢の中にいるような感覚と聞いて、フアンは十字路で『ウツロ』たちと対峙した時の事を思い出す。
突然、目の前にあった景色が消え、代わりに、どこか知らない空間の中に浮かぶ自分。夢と呼ぶには意識ははっきりしていて、そこから現実に戻った今も、その時の記憶がはっきりと残っている。夢と呼ぶにはあまりにも現実のようで、現実と呼ぶにはあまりにも非現実のような、そんな記憶を。
「『ウツロ』たちが人の形をとった後、目眩みように一瞬視界が暗くなったかと思うと、気づいた時には石造りの円卓が置かれた広い部屋の中に立っていました。
部屋には円卓と、それを取り囲むように並べられた円柱のようなものがいくつか置かれているだけで、部屋は天蓋杖の窓に覆われていて、窓の外には一面夜空が広がっていました。
そこに、私と、一人の男性だけが立っていました。
私は確かにそこに立っているのですが、それは私自身ではなく、誰かが見ているものと同じものを見ているだけだったのかもしれません。私自身は自分で動くことも会話することも出来ず、ただ、そこで起きていることを眺めているだけでした。
そこでは、私と男性が少しの間会話をしていました。
はっきりと会話の内容を記憶できたわけではありませんが、およそこんなことを言っていたと思います。
男性は私に「邪魔をしない約束ではないのか」「何が目的か」「何が望みか」と言う事を話し、私は男性に「降りかかる火の粉を払うだけ」「この場を退けばそれ以上は手出ししない」「ただ退いてくれればいい」と答えました。
男性は、他の誰かとも話をしていたように見えましたが、「望むものは変わったわけではないのか?」と問い掛けて、私が「同じだ」と答えたのを聞いて、その場を去りました。
その後、再び視界が暗転したかと思うと、私は教会の中の、白と黒の石の柱に触れていました。
記憶しているのはそこまでです」
作り話とするにはあまりに具体的な内容であることもそうだが、フェリが語った教会とは別の場所の様子が、フアンの見た「知らない空間」の様子に似ていることから、フェリもまた、一時的にフアンと近い状態にあったのではないか、と感じた。
フアンが「知らない空間」に居た間、フアンの意識は飛んでいた。気づけば『ウツロ』はフアンの後方に去っていて、けれど、フアンはそれを目にしていない。「知らない空間」に居た間も時間だけは流れていて、ただフアンの意識だけがそこになかったかのように。
フェリもそれと同様だったということだろうか。
「知らない空間」に居た時間はあまりに短く、自分の身体が動かしたり、言葉を話すことが出来たのか、確認する余裕もなかったため、フェリと同じであるとは断定出来なかった。けれど、限りなく近い状況だということだけは分かった。
「じゃぁ、どうして石柱に触れていたのかも、フェリには分からないってこと?」
「はい」
その言葉を聞いて、エレノアがフアンを見た。彼女もまた、あの時起きた状況から考えて、フェリがどういう存在であるのか、推測が出来ているのだろう。
だからおそらく同じ推測をしているであろうフアンの反応を見たのだ。
――その気持ちは分かるけど。
正直に過ぎる、と笑みを浮かべたくなるのを堪える。
フェリに隠し事をするつもりはなかったが、だからこそ、その行動はフェリにどう映るのかは考えたほうがいい、とフアンは思った。そして、だからこそ、自分がこのまま黙っているのは良くないとも思う。
しかし、これから返す言葉はエレノアにとっては想定外でしかないだろう。フアン自身、フェリの言葉を聞くまで、この話をするつもりはなかったのだから当然だった。
「まず最初に。僕はフェリの話を信じるよ」
「……意外ね。もう少し話を聞いてからだと思った」
「『自分には意識がなくて石柱に触れた理由は分からない』。フェリのこの言葉だけなら、僕も信じるには情報が足りないと思った。でも、もう一つの話。石の円卓の部屋。僕もそれを見た」
「え?」
「見たのは教会の中じゃなくて、それよりも少し前。十字路で最初にあの『ウツロ』たちと対峙してた時に見た。
一瞬、フェリが言うような円卓の部屋を外から眺めるような感じで見てたかと思うと、気づいたら『ウツロ』たちがいなくなっていた。
フェリが、円卓で誰かと会話をした後、気づいたら石柱の前に立っていた、という状況は、十字路で僕が経験した、円卓の部屋を見た後、気づけば『ウツロ』たちが目の前から姿を消していた、って状況と似ているし、石の円卓だけが置かれた天蓋状の窓に囲まれた部屋、しかもあたり一面夜空なんて光景は、偶然重なる光景じゃない。
それが何かは何も分からないけど、少なくとも、フェリの話を信じようと思ったのはそれが理由」
エレノアが目を見開き、フアンを見る。
「……フアンも?」
その「フアン「も」」の中には、異なる意味が含まれているのだろうということが分かり、今度は笑みを浮かべることを抑えきれなかった。
「エレノアの思う、僕も、かどうかは僕にも分からないよ。それについては『ウツロ』と一緒にいた黒髪の青年も気になることを言ってたしね」
自分がフェリと同じものか、と考えた時、仮にフェリが「神子」だとするのなら、自分は違うだろう、とフアンは思う。もし仮にフアンが「神子」だとするのなら、これまでに二度『ウツロ』に襲われ死に瀕してるのはなぜなのか、と思う。伝承に依れば「神子」は『ウツロ』を払う力を持っている。
それなのに、フアンは二度とも『ウツロ』にされるがままだった。もしもフアンに「神子」としての力があったのなら、彼は死に瀕することもなければ、母親が犠牲になることもなかっただろう。
母親の事の考えが及んだところで、フアンの笑みが陰る。そう、自らの無力さが招いた結果だ。魔術の力でも、「神子」の力でも、そのどちらかがあれば、自分の母親は死なずに済んだのだ。
そうしてふと、別の可能性にも思い当たる。石柱を使って『ウツロ』の起こした現象が天地崩壊だと仮定するなら、それを収めたフェリは「神子」であろう、というのが可能性の一つ。
もう一つ、石柱を使って『ウツロ』が起こした現象は天地崩壊とは異なる別の何かであって、それを無効化したフェリは、『ウツロ』と同種の力を持つ『ウツロ』かもしれないという可能性。
もしもそうであるならば、フアンがフェリと同じであることを否定する材料はない。
『ウツロ』に二度も取りつかれ、それでもなお生き残ったのは、フアンもまた『ウツロ』だから。もしもそうなら、なぜ彼は黒い靄の姿をしていないのか、という疑問は残るが、その答えに繋がるものはあの黒髪の青年が持っている。
『ウツロ』と共に在りながら、自分たちと同じ姿をしている青年。フアンが、そしてフェリが、あの青年と同じ存在であるというなら、フアンもフェリも『ウツロ』である、という可能性は捨てきれないのだ。
だが、同時にその可能性を否定する要素がないわけではなかった。黒髪の青年が言っていた言葉。「自分と同じ力が使えるならば、魔術は使えないはず」という言葉。
この言葉によって、少なくとも黒髪の青年とフアンは異なる存在である可能性が高いことが示唆されている。
今分かっている事だけでは、どの可能性もまだ推測の域を出なかった。
笑みを浮かべたかと思えば、途端に険しい顔をしたフアンの様子に、レツが両手で拍子を叩く。
途端に、思考の海から引き上げられたフアンは、驚いた顔でレツを見つめた。
「なんのために顔合わせてんだよ。みんなで話し合うためだろ。すぐ考え込むのは、ほんと、悪い癖だぞ」
レツの浮かべた笑みに、フアンの固まっていた表情が和らぐ。
本当だな、とフアンは胸中で呟くと、改めてエレノアとフェリを見た。
「フェリの話は信じる。これは変わらない。ただ、それ以上の話をするには、もう少し聞きたいことがある。エレノア。フェリ。二人が『アストリア』を離れなければならなくなった理由、そろそろ教えてもらってもいいかな」
フェリとエレノアが見つめ合うと、フェリの方が先に頷いた。
エレノアはそれを確認すると、フアンとレツの方に向き直る。
「さすがに話さないわけにはいかないもんね。大して面白くもない話だけど、聞いてくれる?」
「もちろん。尋ねたのはこっちなんだから」
フアンの答えに、エレノアは一つ息を吐くと、彼女たちがフアンたちと出会うよりも前の話、エレノアが治癒術に目覚めた時の話と、それからもう一つの力、「神力」に気づいた時の話を始めたのだった。




