第六十六話 皇帝シリウス・クラウディウス
帝都メラノ南門からは、クレーべ領並びにケヴィイナ領に繋がるアウレリウス街道がまっすぐ続き、その両側にはリシリア平原とその穀倉地帯が広がっていた。
穀倉地帯には、順調に天に向かって背を伸ばす麦の葉が波を打っており、早いものはその先に穂が形をとり始めていた。
その穀倉地帯を避けるために、帝都から少し距離を空けた場所でマグノリア軍とメラヴィア軍は休息のための陣を敷いていた。
四方を柵で囲った陣は、『メルギニア』軍の陣地の標準的な陣地の造りなのだが、ちょっとした防衛拠点の様相であった。
その陣中、マグノリア軍の本陣にあたる天幕では、三人の選帝侯が向かい合っていた。
「アンスイーゼン侯。貴公、正気か?」
そう切り出したのはマグノリア侯ルクセンティアだった。彼自身、他人から見れば狂気とも見える行為をしている自覚はあったが、その彼を以てして、今の目の前にいる男の行動は正常な精神で行えるものとは思えなかったのだ。
本来ならば、無礼にあたるその言葉を、アンスイーゼン侯カファティウスは肩をすくめるだけで返答を避けた。
そして答える代わりに、彼の隣に立つ金髪の青年に視線を移す。
「予が頼んだのだ。マグノリア侯、そなたと直接話したいと」
青年の青い瞳がまっすぐにルクセンティアを射抜く。ルクセンティアの碧の瞳もまた、その視線に気圧されることのないよう、目の前の青年を見つめ返していた。
白い肌に、一般的な軍人と比べれば線の細い身体つきのその青年は、一見すれば儚げに見える。しかしその目の奥には言葉にできない何かが見え、それがこの青年の存在感を確かなものにしていた。
これまでもルクセンティアはこの青年と選帝侯会議で顔をあわせていた。しかしこれほどの距離で面と向かって視線を合わせる機会がなく、一人の人として正面から向かい合ったという意味ではこれが初めてであったかもしれない。
三人の選帝侯、マグノリア侯ルクセンティア、メラヴィア侯シューブリン、アンスイーゼン侯カファティウスと同席し、直接目線を合わせても無礼ではない青年。そんな存在はこの国においては数えるほどしかいない。
皇帝シリウス・クラウディウス、それが目の前にいるこの青年の名である。
「話、ですと?」
彼の瞳の奥に感じるものは何か。どこか懐かしくも思えるそれが何か分からないまま、ルクセンティアは青年に言葉を返す。
「此度の遠征に関する褒美の言葉でもいただけるのですかな?」
それは皮肉のつもりだった。
自らの政に対して反旗を翻した部下を、『ウツロ』という未知の敵を討つために許さざるを得ない弱腰の皇帝に対しての。
シリウスが事前にサビヌスに伝えていた通りにルクセンティアやシューブリンを許すというのならば、これを否定することは出来ないはずだった。
この戦は恩賞を出すことが難しい戦だ。今の皇帝の建前から言えば、内乱でもない。これは『ウツロ』という未知の生物との戦いであり、戦に勝利したからと言って、恩賞として与えられる土地が増えるわけではないのだ。
与えられるものがあるとすれば、地位、名誉、財貨だが、選帝侯であるルクセンティアに与えられる地位など多くはない。カファティウスのように閣僚を兼務することを許すのがせいぜいだろう。
もしもそれが叶うとなれば、考えなくもない、とは思う。
現選帝侯でもっとも権力を持つアンスイーゼン候に並ぶ。それは、手段が異なるだけで、一族の地位を上げるという目的に沿うものだからだ。
だが、それが叶うことはないだろう。彼に地位を与えようとするなら、現在地位に就いているものを罷免する必要がある。だが、何を理由に?そんなことをすれば別の火種が起きるだけだろう。
それでもルクセンティアを重用する、というのであれば、それは皇帝がルクセンティアに膝をつくようなものだった。
財貨ならば、言い値を投げかけてみるというのも面白かった。結果、皇帝の力が削げるならば一考の余地もあるだろう。
名誉ならば、受け入れるつもりはなかった。そんな名ばかりのものなどもらっても、ルクセンティアの役に立ちはしない。
『ウツロ』との戦が全て収まった後もルクセンティアとその一族が生き抜いていくためには、皇帝を追い落とすか、皇帝に膝をつかせるかのいずれかしか選択肢はないのだ。
それをこの皇帝は理解した上で、「許す」などと甘い言葉を吐くつもりだったのか。
先の皮肉はそれを見極めるための言葉であった。
「そうだ」
ルクセンティアの瞳には、おそらく侮蔑の色が映っていただろう。
だが、シリウスはそれを気にした様子もなく、淡々とそう答えた。
カファティウスもまた、そんなシリウスを興味深く見つめている。
「『ウツロ』の襲来を予期した此度の遠征、実に見事である。『ウツロ』どもも、貴公らが駆けつけたことに気づき、急ぎ撤退したという報告も受けている。大きな被害なく『ウツロ』の脅威から帝都を守れたのは貴公らのお陰だ」
『ウツロ』がマグノリア・メラヴィア連合軍の動きに気づき撤退したかどうかは定かではない。だが、一般的な人同士の戦であれば、あの状況下で戦を続ければ、包囲殲滅されかねない場面である。そのことを考えれば、『ウツロ』が包囲されることを恐れて退いたと考えるのは妥当な推論であろう。
身を挺して帝都を守った帝都防衛隊からすれば、別の意見もあろうが、皇帝がここでそう宣言したということはこれが公式の見解だ、ということだった。
――膝を屈するか
ルクセンティアの体面を配慮した見解はそうと取れる流れだ。
この後の処遇次第ではあるが、仮にルクセンティアが受け入れることの出来る処遇を提示してきたとすれば、次に考えなければならないのは、選帝侯同士の勢力図の塗り替えである。ここで気を良くして手を抜けば、五大選帝侯がルクセンティアの勢いを削ぐべく、攻勢を仕掛けてくるだろう。そもそも本来であれば謀反とされる軍事行動を行っている。その点を蒸し返し、ルクセンティアを物理的に排除するぐらい、五大選帝侯なら当たり前のように画策してくるであろう。
謀反を起こした時点で、彼の一族が生き延びる道は皇帝を追い落とし、自らが権力を握るしかないと考えていたのは、これが理由だ。
「有り難きお言葉です。どのように報いていただけるのか、楽しみですな」
「論功行賞は『ウツロ』を追い払ったと判断出来た後、皆の働きを見た後となるが、貴公への賞についてはおよそ考えている」
口約束に過ぎない、という前提を置きながらもここで恩賞の札を切る皇帝に、ルクセンティアは彼を見る目を変え、思わず「ほぉ」と声を漏らしていた。
「未だ、戦は序盤とも終盤とも判断のつかぬ内ですが、既に考えがおありになると」
「そなたにしか与えられぬからな。考えるまでもない」
そういったシリウスは、頬僅かに緩めた柔らかな笑みを浮かべる。
光星の下であったなら、まるで造り上げらた彫刻のような美しさをもっていたであろう笑みに、その場にいた三人は思わず立場を忘れて見惚れてしまう。
「……このルクセンティアにしか与えられぬ褒賞、ですか」
「そうだ。そなたには新たな土地を与えたいと考えている」
「は……?」
この男は何を言っているのか、そう思ったのはルクセンティアだけではなかった。シューブリンも、カファティウスもまた、シリウスの言葉の真意を掴めずにいた。
だが、僅かの後、カファティウスは感嘆の声を漏らす。
「なるほど、確かに、マグノリア侯でなければ与えられぬ褒賞かもしれませぬな」
シリウスはその追随に頷くと、改めてルクセンティアを見た。その青い瞳は先程と変わらずただまっすぐにルクセンティアを捉える。そこには怒りも、哀れみも、恐れもなく。しかし、どこか気圧されるような何かが浮かんでいた。
――ペテルギウス帝
先代皇帝ペテルギウス。出来なければ切って捨てるまで、というその苛烈さには、常に感情が伴っていなかった。目的を達するために必要だから行う。それが可能だと判断したから行わせる。
そこには、怒りも期待も同情もない。だから苛烈に映った。一切の猶予がないゆえに。
目の前のこの皇帝の瞳は、前帝ペテルギウスと瞳の色が同じというだけでなく、その内に秘めているものすら同じなのだ。
前帝のように無表情にではなく、あまりにも柔和に、優しい声で語るから分からなかったが、その本質はかの皇帝と同じであるのだ。
ルクセンティアはこの時、皇帝シリウスというものを知った気がした。そして、なぜ彼が皇帝の後継者であったのかを初めて理解した。
ペテルギウス帝は、政略のために彼を後継者にしたのではない。彼の内にある、自身と同じ本質を見抜き、彼を後継者にしていたのだ。
「マグノリア侯」
「はっ」
「この戦が終わった後、マグノリア侯には、侯の下に身を寄せていると聞く「神子」と共に、天地崩壊によって沈んだ地を取り戻してもらう。
取り戻した土地は我が国の領土とし、その領主にはマグノリア侯、汝を任命したいと思う」
「は……?」
「此度、これほどの早さで遠征が叶ったのは、侯の下にいた「神子」の予言によるものと聞き及んでいる。我らはそなたの下に身を寄せる「神子」の加護により、こうして事なきを得た。しかし他国はどうか。
これほどまでの幸運に恵まれ、備えていた我らですら、一歩誤れば危うい状況であった。
『ウツロ』の襲撃に耐えうることの出来ない国も出てこよう。
その時、天地崩壊から地を取り戻すには「神子」の力が不可欠だ。ならば、それが出来るのはマグノリア侯を置いて他におらぬ。
為政者の居なくなった土地は無秩序による混乱に支配されるであろう。しかし、侯が治めればそのような心配もあるまい。
出来るな?」
シリウスの瞳がルクセンティアの瞳の奥を、そしてその奥にある彼の命を射貫こうと狙っているようにも思えた。
シリウスはただルクセンティアを見据えているに過ぎない。それだけのはずが、彼の視線によってルクセンティアは地の底に追い落とされるような感覚を得ていた。
確かにそれはこれ以上のない名誉だった。
天地崩壊によって地の底に呑まれる国土の広さは一国に匹敵すると言われている。これの回復が成り、その土地を治めよということは、一国の領土全てを任せると言っているに等しい。それはルクセンティアが望んだものとは異なる形ではあったが、彼の望んだものそのものであると言ってもいい。一国の主。その立場を得ることが出来る機会なのだ。
ルクセンティアの下に「神子」がいれば、だ。
「神子」はこの内乱に先立ち姿を消していた。以降行方は知れない。「神子」のことを知っているならば、当然今現在「神子」の行方が知れないこともまた皇帝は把握しているだろう。その上で、シリウスが「神子」を持ち出しているとするならば、この戦の終わりと共に、ルクセンティアの政治生命を終わらせるつもりであると宣言しているようなものであった。
一方で、逃げ道も用意されている。これが叶わないからと言って、国は何も不利益を得ない。「神子」が失踪したことに対する引責としてルクセンティアが職を辞すれば、今回の騒動に対しては全てなかったことにする、と言っているのだ。
皇帝の「許す」という発言を甘いと考えていたが、甘いのは自身の方であったと思い知らされた。
「……御意のままに」
ルクセンティアは皇帝の前に膝を着き、臣下の礼をするのだった。




