第六十三話 命の重さを
自分が自分でなくなっていくような感覚に襲われ、その感覚も失われてからどれほど時間が過ぎたのか。
――あ……わ……ここ……な。
意識を取り戻したアギィが最初に目にした光景は、こげ茶色の石の床とその先に見える白と黒の石柱、石柱の側に座り込む二人の人影だった。だが、アギィは最初、それらがなんであるかを認識することは出来なかった。
形も色も、視覚を通して認知はしている。だが、それが何であるかを理解できなかった。
さらに言えば、アギィという存在自体も、認識することは出来なかった。
視界に映る景色と脳内を過る膨大な記憶。記憶は無数の映像と言葉と音の奔流となって襲い掛かり、アギィの脳の中をかき乱すように駆け抜けていく。
脳裏に浮かんだ言葉も、言葉として意味を成さず、アギィ自身、何を思っていたのかを分かっていなかった。
例えるなら、水門によってせき止められていた川の水が、唐突に水門が失われて流れ出したような。
多量の水によって洗い流された跡地は、水によって運ばれた肥沃な泥と、風に舞って飛んできた種によって緑の海に生まれ変わり、猛き竜のように暴れた川は、あるべき姿に戻る。
そうして、元々と同じようで、けれどどこか違った何かに生まれ変わったように、ある瞬間からアギィはアギィであることを思い出した。
自らを知覚すると、ただ光が反射した形と色だけであった周囲の景色が意味のある情報に生まれ変わっていく。そして、頭の中を駆け巡った多量の記憶もまた、一つ一つの記憶が網を張り巡らせるように繋がり、アギィの知る記憶として記録されていった。
その一連の衝撃が収まるのを待っていたのか、意識を失う直前の記憶が脳裏に浮かび上がり、アギィは反射的に身体を捻り、低い姿勢で周囲を見渡す。
改めて目にした景色には、白と黒の石柱と、その側に座り込む二人の人影が映り、視線を左右に移せば、そこには倒れているガイとレツの姿があった。最も警戒すべき『ウツロ』の姿は既になく、意識を失う直前の、数多の風が吹き荒れる音も既になく。
周囲は時が止まったかのような静寂に支配されていた。
そのため、アギィが跳ね起きる際に鎧が床に擦れた音は、やけに大きく部屋に響いた。
「……アギィさん」
フェリを膝枕して動けないエレノアは、音の響いた方向に顔だけを向けた。床を這うような姿勢のアギィは、エレノアと視線が合うと、表情を緩めてゆっくりと立ち上がった。
「ガイさんとレツも意識を失っているだけだそうです。アギィさんの目が覚めるまでは、少し不安でしたが、アギィさんの意識が戻ったなら、二人もきっと目を覚ますと思います」
不安げに周囲を見渡すアギィに、フアンが声を掛ける。アギィが目覚めるまでは不安だった、というのは、フアンの心からの声だ。アギィたちは『ウツロ』たちとの戦闘中に、傷を受けたわけでもないのに突然倒れてしまった。
その前後に起きた不可思議な現象がなんだったのかも分からないまま、エレノアの「治るはず」という言葉だけが頼りだったのだ。
にも関わらず、より症状が軽いと思われたフェリは一向に目覚める様子を見せず、このまま4人ともずっと目が覚めないということもあり得るのだろうか。アギィの目が覚めたのは、そんな心配が滲むように心に広がり始めた矢先のことだった。
「怪我は、ないのですか?」
「アギィさんに怪我がないのなら、他の二人も怪我はないと思います。3人とも突然倒れてしまったので、何が起きたのか、僕にはさっぱり」
全身に力が入らなくなり、倒れこみそうになる直前、誰かが床に倒れる音を聞いた気がしたが、それがガイとレツだったのだ、ということをアギィは理解した。
倒れこんだ時に身体を床に打ち付けた時の痛みが少し残っているものの、倒れる直前に頬を掠めた時に出来た裂傷の痛みも今は感じない。頬を流れた血も、既に固まり、地面に落ちてしまっていたようだった。
そもそもあの時倒れたのは、突然全身に力が入らなくなったからだ。
「フアンさんやシンさんは、なんともなかったんですか?」
「…僕は何も。シンは?」
フアンが振り向きエレノアを見ると、エレノアは頭を振った。
「あの時……、地面から何か波のようなものがせり上がってきたように見えた時、突然力が抜けたんです」
「地面から……」
思い返してみれば、アギィが倒れた前後で視界が歪んだように感じた。しかし、直前にアギィが地を振動させる魔術を行使していたため、魔術によって地と空気が揺れたように見えたのだと思っていた。
――いや……。
『ウツロ』の黒い靄が失われ、人の姿に変わっていったのは、その歪みによってではなかったか。
『ウツロ』が人の姿になることと、アギィたちが突然倒れた事の関連性は分からなかったが、あの時、何かが起きていたことは確かだった。
「……あの後。地面から波のようなものがせり上がるのに合わせて、『ウツロ』が人の姿に変わったんです」
「どういうことですか?」
「詳しくは、ガイさんやレツが目を覚ましてから話します。出来れば、みんなの意識が戻ってからの方が良いのですが」
言って、フアンはエレノアの膝の上で目を閉じたままのフェリを見る。
あの時起きた出来事を話すことは出来るだろう。
だが、その出来事を理解出来ているかと問われれば、何も理解出来なかったと答えるしかない。
フェリなら何かを知っているかもしれない、というエレノアの言葉は、単なる期待でしかないだろう。
それでも、あの時、フェリは何らかの意思を以て石柱に触れていた。
地面からせり上がった波が、地面の底に戻っていったのはその後のことだ。
黒髪の少女が石柱に触れて、波がせり上がった。
フェリが石柱に触れて、波は地の底に戻った。
起きた出来事を改めて整理すれば、そこに関連性があるようにも思える。
だが、もしも関連性があるとしたなら、フェリは一体何者だというのだろうか。
少なくともこれまでフェリが『ウツロ』と意思を交わす様子は見受けられなかった。また、『ウツロ』を討つことに対して、邪魔をすることもなければ、反対の意を示すこともなかった。
黒髪の少女とフェリに何らかの関連性があるのなら、フェリは今まで意図的に『ウツロ』と無関係であるよう装っていたことになる。
だが一方で、石柱に触れた事と、波の動きに関連性はなく、黒髪の少女とフェリもまた何の関係もない、という可能性だってあった。
――関係ないと信じたいだけなのかもしれないけど。
『ウツロ』が人である可能性があるなら、黒髪の少女が『ウツロ』である可能性だってある。
その黒髪の少女とフェリに関連性があるのならば、フェリもまた『ウツロ』である可能性もあるのだ。
考え事に没頭し、ふと我に還ると、いつからかエレノアが自分を見ていたことに気づいた。
ずっとフェリを見つめたままであることを不思議に思ったのかもしれない。実際にはフアンがフェリを視界に捉えていたのは、最初の僅かな間だけだったのだが、エレノアがそれを分かるはずもなく。
――今は、伝えるべきではないかもしれない。
「アギィさん、ガイさんもそろそろ目を覚ますとは思いますが、念のため様子を見ていただけないですか?
『ウツロ』との戦闘で強く壁に打ち付けられていましたし、頭を強く打っていたりしないかが気になります」
フアンの言葉に、アギィははっとした様子でガイを振り向く。確かに、ガイは倒れる直前、『ウツロ』の風の魔術を受けて部屋の壁に叩きつけられていた。
アギィ同様、力が抜けてそのまま気を失ったのだと思っていたが、そうではない可能性がある。
僅かにふらついた足取りでガイの下に向かうアギィを見届けると、フアンはエレノアの側に歩み寄ると、その場に屈む。
「アンが石柱に触れた時に起きたことと、その結果倒れたことは、ガイさんたちには黙ってて貰えないかな。理由は、後で話すから」
「……分かった」
細かいことは聞かずに受け入れてくれる。それが信頼の証なのか、それともフェリを心配していることを感じ取ったからなのかは分からないが、どちらであっても、伝えたいことが言葉少なく伝わるという関係性が築けていることを嬉しいと感じる。
フェリが石柱に触れたことで、地からせり上がった歪み、波が再び地の底に戻った。そんな話をすれば、ガイも自分と同じ推論に辿り着く可能性がある。もしそうなれば、ガイは『メルギニア』という国の民を守るために、疑わしきを罰する、という行為に出る可能性もあった。
人の命を守る、ということを考えるなら、その判断の方がより危険性が少ないのだということは、理屈では分かる。
これまで短くない期間を共に旅してきた仲間が実は『ウツロ』であり、今まで自分たちを偽ってきたのだと、信じたくないだけなのかもしれない。
それでも、フアンはフェリが『ウツロ』だと信じたくなかった。
もし仮にフェリが『ウツロ』だったとしても、そうであるならば、分かり合える可能性だってあるのではないか。
それが『そうであって欲しい』という単なる願望でしかなく、その判断の結果、誰かを犠牲にする未来が待っているかもしれない。けれど、救えなかったはずの誰かが救える未来だって待っているかもしれない。
そして、もしも望まない未来が見えたのなら、その時は他の誰でもなく、自分の手で、自分たちの手で、その望みを断ちたい。
そのためにもガイやアギィにはまだフェリに疑いを持たれたくはなかった。
多数の他人と見知った一人。その選択をする資格など自分にはないと分かってはいるけれど。




