第六十二話 伝承と真実、現象と事実
石柱のある部屋を『ウツロ』が去ってからどの程度の時間が過ぎたのか。
倒れたまま目を覚まさないでいるフェリの手を握っているエレノアの頬の色は、元々色白であったものが血の気を失ったために、透き通った硝子のような色になっていた。
「……大丈夫。……大丈夫」
自分に言い聞かせるためか、口の中で繰り返される言葉は、音としての形を取らぬまま、彼女の内側に跳ね返り、戻っていく。
繰り返し、自らの内で響く声は、今、自らが発したものなのか、過去の自らの言葉が反芻したものなのかも判断がつかなくなってきていた。
そんなエレノアの様子に気づいてはいたが、フアンは声を掛けられずにいた。
彼自身、ここで何が起きたのか理解出来ていないのだ。教会に入る前に見た不可思議な光景も、分からないでいる。
それに倒れたままなのは、フェリだけではない。
大丈夫と思われたフェリが目覚めないのなら、それよりも酷い状態だとエレノアが判断したレツ達は更に危ないのではないか。
だが、それをエレノアに確認するのは酷というものだ。
「きっと大丈夫」とも言えず、「本当に大丈夫なのか?」とも問えず、フアンはエレノアから視線を外した。
代わりにフアンの目に映ったものは、教会の屋根にまで届きそうな程の高さをした2本の石柱だった。
建物の地下から、地上部の屋根にまで届きそうな程の高さがありながら、柱は、床の更に下にまで伸びている。
――異界は地の底に封じられた
その柱を眺めていて、ふと思い浮かんだのが、天地崩壊にまつわる伝承の一説だった。
石柱はどこまで続いているのか。この世界に底があるとして、そこまで続いていたりするのか。そんな埒のないことを思い浮かべた時、ふと、伝承にあるその一説が浮かんだのだ。
天地創生神話。
この世界は大神様によって創られた。
大神様はこの世界に限らず、数多の世界を創り出し、そこに生命と、生命が存続するために必要な様々な物質、それから物質が作り出す現象を生み出した。
生命の源たるエーテル。
現象の源たるマナ。
これらは永く生命が栄えるように、と絶えることなく世界を循環するように創られた。
エーテルが物質に宿り、生まれるものが生物。
生物が命を宿す「時」は短い。
生物の中で循環するエーテルが淀むことがないのは、生物がエーテルを新鮮に保つためのろ過装置でもあったからだ。
エーテルは生物を通して、新たなエーテルとして生まれ変わり、世界に還っていく。
しかし、生物の中で留まり続ければ、生物自体が淀み、ろ過する機能を失ってしまう。
そのため、生物もまた、時がくれば、死を迎え、朽ちて、また新たな命として生まれ変わる。
マナは物質が生み出す現象として消費され、現象の終わりと共に世界に還る。
こうして、エーテルも、マナも、世界の中で循環しながら、生命を育むように創られた。
『ウツロ』は、このエーテルを自らのものにするために現れたと言われている。
『ウツロ』もまた、大神様が生み出した世界から現れたものなのか、それとも、大神様とは別の大神様が生み出した世界から現れたものなのか。伝承では語られていない。
『ウツロ』が現れる世界は異界と呼ばれ、『ウツロ』はエーテルを好んで喰らうとされる。
エーテルが失われれば、世界に生きる生物たちもまた失われる。
世界の滅びを救うため、大神様が世界の管理者として遣わした12の神様は『ウツロ』を異界に追い返し、異界を地の底に封じた。
しかし、『ウツロ』によって開けられた異界の穴を封じることは容易ではなく、6柱の神様は、自らの存在と引き換えに、異界の穴を地の底に沈めた、と言われている。
この地の底に沈んだ6柱の神様を地の神様、と呼ぶ書物もある。
残された6柱の女神様は、地の神様とは表と裏のような存在である、とされている。
地の神様は、異界を封じるために地の底に沈んだが、残された6柱の女神様に対する人々の信仰が、女神様の力となり、地の6柱の神様の力にもなる、とされている。
人々の信仰が弱まった時、地の6柱の神様の力も弱まり、異界の封印に綻びが生まれる。
綻びからは『ウツロ』が現れ、生命を喰らおうとする。
『ウツロ』に多くの生命が喰らわれると、その地域の女神への信仰心も弱まり、異界の穴が姿を現す。その結果起きるのが、天地崩壊、と言われている。
天地崩壊が起きれば、異界の穴に引きずり込まれた大地に住まう生命も、そのまま異界に呑まれ、生命を落とす。
各地に伝わる伝承では、各国の正当性を示すためか、天地創生から天地崩壊に関する表記の大筋は同じものの、細部が異なるものが多い。しかし、天地崩壊によって異界に呑まれた生命は全て命を落とす、というこの部分だけは共通しており、これはおそらく事実であろうと言われている。
『ウツロ』は異界より現れる。
異界は地の底に封じられた。
地の底に続くかのように地面に突き立てられた石柱。
石柱に溶けるように消えた『ウツロ』たち。
その『ウツロ』は消える直前、人の形をして、フアンたちと同じ言葉を話していた。
それが何を意味するのか。
『ウツロ』たちが人の形をとる前に、『ウツロ』たちと共に居た黒髪の少女。
あれもまた『ウツロ』だったのだろうか。そうであるなら、なぜ彼女だけが最初から人の形をとっていたのか。
――『ウツロ』はエーテルを食む。
『ウツロ』がフアンたちと同じ生命で、存在する場所が異界であるだけ、というならば、彼らもまた生きるためにエーテルを必要とする。そしてそれはフアンたちの世界にしか存在しないとしたら、どうだろうか。
――でもそれなら、前回の天地崩壊が起きてから、今回までの数百神期、彼らはどうやって生きてきたんだ。
仮に彼らが生きるためにエーテルが必要だったとして、それがどうだというのか。
彼らの為にフアンたちの世界のエーテルが失われ、死んでいくことを受け入れるというのか。
『ウツロ』がどういった存在であれ、自分たちの敵であることに変わりはない。
そう思ってみても、最後に見た『ウツロ』たちの姿が脳裏にちらつき、フアンはぎゅっと唇を噛みしめた。
△▼△▼△
「『ウツロ』が我々と同じ人だった、と言うのか?」
魔術部隊に一通りの指示を出し終えたサビヌスは、作業進捗の報告を受けるためにも、十字路に留まったまま、ストゥディウムからの報告を受けていた。
それは信じがたい報告ではあったが、虚偽の証言をしたところで意味がないことは分かる。なぜなら、この場に生き残った魔術部隊の者の大半がこの証言の証人であり、虚偽であるならばすぐに事実は判明するのだ。
隣に立つサビニアが、ストゥディウムの報告に異議を唱えることがないことからも、この証言が見間違いや偽りではないことが分かる。
それでも、サビヌスは確認せずにはいられなかった。
「サビニアも同じものを見た、と言うのだな」
「『ウツロ』が人の姿で動いているのを見たのはごく僅かな時間です。我々とは異なる服装であったことから、同じ魔術部隊の者と見間違えた、ということもありません。また、彼らは私たちと同じ言葉を使っていました」
「会話も出来るのか?」
「会話が可能か、という問いに対しては、可能とお答えすることは出来ません。彼らの中の指導者と思われる人物が、部隊に撤退指示を出したのを聞いただけであり、それは私たちの知る言葉と同一であるように思えた、というだけですので」
「彼らの発する音が聞き取れたとして、我々の発する音と言葉を理解できるかどうかは別、ということだな」
サビヌスの言葉にサビニアは頷いて返した。
魔術士らしい捉え方だった。魔力を用いて現象を扱う彼らは、目の前で起きた現象が必ずしも普遍的なものであるとは捉えない。
目の前で起きた現象は魔力によって何らかの干渉を加えられ、変化した現象である可能性があるのだ。それが、魔力によってしか干渉できない『ウツロ』の行動であるなら猶更、と言ったところだろう。
そうは言っても、『ウツロ』がわざわざ魔力を使ってまで、こちらの使用する言語と音声に合わせて話をしたとは考えにくい。もしそれが出来るのであれば、彼らはこちらの使用する言語体系、発する音の波長を全て理解しているということになる。
そして、自分たちの言葉を瞬時にこちらの意味ある言葉に変換できるだけの高度な魔術式を持っている、ということにもなる。
それは、想像するだけで恐ろしいことだった。
――もしもそれが事実なら、彼らは一方的にこちらの動きや考えを知ることが出来るだけでなく、偽装も可能だ、ということだ。
そして、それを疑ってしまえば、今、目の前にいる二人が『ウツロ』が偽装した者であることを疑わなければならない。
その疑いは際限なく広まり、人々は自分以外の誰一人として信じることが出来なくなるだろう。
可能性の1つとして考慮すべき事項ではあるが、これを前提に行動すべきではない。サビヌスはそう判断した。
目の前の二人はその可能性に気づいているのだろうか。気づいているとして、その危険性にも気づいているのだろうか。
だがそれを問うてしまえば、気づかずに済んだことに気づかせることになる可能性もあった。
「どう見る?」
その結果、サビヌスが言葉にできたのは、きわめて曖昧な質問であった。
視線が向けられたままであることから、自分に尋ねられているのであろうと判断したサビニアは、サビヌスの言葉の真意を考える。
サビニアとしては、『ウツロ』の言葉が理解出来たことが、必ずしも意思疎通出来ることではない、その意図で伝えたのだが、サビヌスはそれ以上の何かを考えているように思えた。
これを正しく返せれば、覚えは良くなるだろうか、などと考えるのは俗だと思うが、雲上人であるサビヌスと会話する機会など、この先あるかどうかは分からない。
それならば出来る限りこの機会を活かしたいと考えるのは、悪いことだろうか。
「……今は断ずる時ではないかと。それから、効果の程は分かりませんが、彼らの服装は各地の警備隊や軍隊に通達すべきです。彼らの服装はこの国で見られる服装ではありません。次に人の姿で現れたとしても、一つの基準にはなるでしょう」
考えた結果、サビニアは、『ウツロ』が次もまた人の姿で現れるか、現れたとしてどのように対処すべきかを問われていると想定した。
サビニアの想定は、サビヌスのそれとは異なっていたのだが、言葉にした内容はサビヌスの考えに沿った回答となっていた。
サビニアもまた『ウツロ』の新たな可能性を分かっている、そう判断したサビヌスは次いでストゥディウムに問いかける。
「ストゥディウム、貴殿も同様の考えか?」
「サビニアの言う通り、服装の周知徹底は行った方がよいでしょう。しかし、『ウツロ』が人の姿をとり、人の言葉を話す、という点は伏せるべきです。民衆が知れば混乱の元となります。他国から間諜が忍び込んだと報告があった、として、『ウツロ』と思われる服装のものを見かけたら捕えるようにせよ、という通知で良いでしょう。大人しく捕らえられるなら、乱暴はせず拘束し、帝都に通達せよ。抵抗するなら殺してよい、とすれば良いと愚考します。
仮に、相手が抵抗し、その相手には魔術以外では触れられない事と分かれば、その時改めて対策を考えれば良い。
おそらく『ウツロ』もこちらに警戒されていると知れば、その後は無闇に姿を現さなくなるでしょうが、それはこれまでも同じこと。襲撃前の状態に戻った、というだけです」
ストゥディウムにはサビニアのような打算はなかった。彼はただ純粋に、サビニアが講じた策は有効であると考えた。しかし、それをそのまま実行すれば民に混乱が起き得る。どうすればよいのかと対策を考えた結果、ストゥディウムの出した結論もまた、サビヌスの想定する回答に沿ったものとなっていた。
サビヌスはストゥディウムもまた『ウツロ』の危険性に気づいていると判断する。そして、二人がそうであるならば、他の隊員にも同様の思考をするものがいてもおかしくない、そう考えた。
「魔術部隊が見た『ウツロ』の姿については最重要機密事項とし、一切の口外を禁ずる。速やかに全隊員に通達すること。
ストゥディウムには今、この場を以て一時的に魔術部隊の隊長の権限を与える。サビニアにも一時的に副隊長の権限を与える。隊長と副隊長という呼称は便宜上のものだ。双方いずれが上位というものではないため、互いに補佐しあうよう。また、ストゥディウムに問題が起きた場合、サビニアが隊長職を継ぐものとする。
2名の役職の効力は私の命があるまでとする。追って文書は出そう。
それから、この報告に対する正式な対策について、文書としてまとめよ。私の承認が下り次第、これを新たな隊則とし、これを以て部隊を統制せよ。以上だ」
彼らであれば、まずは今回の後始末までは任せられる、そう判断したサビヌスは、二人に指示を出すと、その場を後にした。
その後ろ姿にストゥディウムは恭しく礼をする。
サビヌスから告げられた言葉の意味を咀嚼しきれないでいたサビニアは、ストゥディウムの礼に気づくと、慌ててサビヌスの背中に向けて礼をした。
失われた者に対して未だ残る胸の痛みと、突然訪れた転機とが嵐のように心の中をかき乱し、その乱れを抑え込もうと、彼女は胸の前で掌をぎゅっと握りしめていた。




