第六十話 魔術士として
魔術部隊の一人であるサビニアは、恐れと誇りを胸に戦場に立っていた。
古くから伝わる伝承上の獣『ウツロ』。魔術協会はこの『ウツロ』討伐の為に、いずれの国にも属さず、だが、来る時には柔軟に連携できるように組織として繋がりを持っていた。
いずれの国にも与しないということは、いずれの国の利益にも寄与しないということ。
そのため、魔術士は自らの組織のことだけを考える、身勝手な存在である、というのが一般的な認識だ。
実際は、現象に関与できる魔術の力を使って国家間に跨る灌漑事業や河川の整備に協力するなど、寄与していないわけではない。だが、国家間のそうした事業は公に行われることが少なく、そのため人々から認識される機会も少なかった。
組織が閉鎖的であるため、内部の派閥争いによって魔術士同士の仲が悪いというのも、評判の悪化に一役買っていた。
互いの派閥の勢力を貶めるために、誹謗中傷を影日向に流し、権威を失墜させることが日常的に行われ、人々は魔術士の「良い噂」よりも「悪い噂」に触れる事の方が多かった。
それでも、魔術士は選ばれた「人」であり、魔術士であることを誉と考える者は多くいた。
その理由は様々だ。
数少ない魔術の扱える選ばれた「人」であるという意識から。
自分たちの生命を脅かす『ウツロ』に対抗できる数少ない「人」であるという意識から
集団で大きな力を揮うことで自然災害のような日々の災いから人々を守れるという意識から
サビニアは、『ウツロ』に対抗できる「人」であることを誇りに思っていた。
神の恩寵が減少し、穀物の収穫高が減り、人々の生活が困窮する事態となっていることは心苦しかったが、一方で自分たちの代で『ウツロ』を討てるのだと思うと、自然と気持ちは高揚した。
英雄願望があったわけではない。人の力になれる。魔術士が本来の魔術士として力を発揮できる。それが嬉しかった。
目前に多量の黒い靄『ウツロ』の群れが現れた時、ようやく自らの力が揮えるという高揚と共に、得体のしれない姿への恐ろしさを感じた。
万物を喰らう獣、その名からおぞましい姿であることは想像していた。だが実態は違った。黒い靄、明確な形のない長い楕円の姿、しかしどこか人を思わせるような動き、これまで生きてきて目にしてきたいずれの生命とも異なるその姿は、おぞましさに対する恐怖とは異なり、純粋に「分からない」ことへの恐怖を感じた。
その獣に対し、自分たちの揮った魔術が通用し、黒い靄が魔術の光の中に消えていく姿を目にしたとき、再び胸が高鳴った。
戦える。自分たちは『ウツロ』と戦える。そう思った。
「上がれるものは建物に上がれ。続く『ウツロ』の群れが建物に上がってくるのを妨害しろ。残りの連中は教会側に下がり、十字路に出てくる『ウツロ』を撃退しつつ、建物上に見えた『ウツロ』をけん制するんだ。これ以上北に向かわせ、皇城に抜けるのだけは死守しろ」
魔術部隊の部隊長であるインテリウスかサピエヌスか、顔を見ることも声を聞くことも少ない自分の上官からの声がどこかから聞こえる。
数百を超える隊員に指令を出しているのだから、もしかすると本人たちではなく更にその下の小隊長あたりの声かもしれなかった。
国家に属することのない魔術協会は、常備軍を持たない。
国からの協力要請で魔術士を派遣するときも、既存の部隊に組み込まれることで機能するため、体系だった部隊という概念がない。
突如現れた『ウツロ』の群れに、通常の軍隊では役に立たないと、魔術協会が自分たちで隊を編成し、陣形を組んだため、統制は全く取れていないと言ってよかった。
それでも、集団行動が出来ないわけではない。
予め決められた通りに並び、決められた合図によって一斉に放った風の刃は、多量の『ウツロ』の群れを葬った。
だが統制がとれていたのはそこまでだ。そこからは、酷い乱戦になった。
集団で群れて動いていた『ウツロ』は突然、動きを変え、東大路の両側の建物の上部に上がり、高所からサビニアたち魔術部隊を狙い始めた。
東大路の北側の建物では最初から伏せていた魔術部隊がこれを迎え撃ち、建物の上部に『ウツロ』たちが上がってくるのを防いでいたが、事前に部隊を配備出来なかった南側は、偶然居合わせた魔術士が一時的に侵攻を留めていた。
だがその魔術士たちは最初に現れた『ウツロ』たちを後方に逃してしまうと、その『ウツロ』を追って姿を消してしまった。
『ウツロ』たちが姿を消したかと思うと、突如魔術士たちの後方に現れたように見えたのは錯覚だろうか。
東大路南側に配置されていたのはわずか二名の魔術士。目前の『ウツロ』の群れを見れば、防ぎきれないと判断し、その場で戦い続けるよりも、後方に逃げられた『ウツロ』の討伐を優先したのは無理からぬ事かもしれなかった。だが、その結果、東大路南側の建物上部を守る者がいなくなり、容易に『ウツロ』に占拠されてしまった。
南側の建物上部を占拠されてしまえばそこから北側の建物への支援攻撃が可能になる。群れとしての統制を失ったように見えた『ウツロ』は、まるで人のように戦力を展開し、次第に東側大路北側の建物も『ウツロ』に占拠され始めた。
北側の建物の上部の大部分が占拠されてしまっても、『ウツロ』の群れは魔術部隊を置いて、皇城を目指すことはしなかった。
万物を喰らうと言われる獣『ウツロ』。生命を糧にすることから、内戦を目前に控え、予め多くの人が避難していた皇城を目指すかと思われたが、本能に任せ、目の前の生命から喰らう事を優先するのかもしれない。
サビニアは自らに迫る死の恐怖と戦っていた。一体でも多くの『ウツロ』を討つことが、自分がこれまで研鑽してきた意味だと、自らを鼓舞していた。
日頃から自らの力をひけらかしてきたアロガンス。一斉に放った風の刃で大量の『ウツロ』の群れを討ったあとは、北側の建物に攻めてきた『ウツロ』の群れを、自らの魔術で全て駆逐すると豪語して、胸に風穴を開け倒れた。
新たな魔術の研究に没頭しながらも、人付き合いの良かったクレメンス。日頃声を荒げる事のない彼が、上部から降り注ぐ風の矢から味方を守りながら、必死の形相で周囲に激を飛ばしていた。北大路を皇城に向けて部隊を下げていく最中で離れてしまい、風が吹き荒れるこの戦場で、今はその声も聞こえない。
農夫上がりのアグリコラ。無学だ浅学だと言いながら、植物への造詣は深く、魔力が植物に及ぼす影響の研究では誰よりも頼りにされ、品種改良を研究している職員達からよく呼び出されては、ぼろぼろになって帰ってきていた。
バトロイト領山間部の『キシリア』訛りの入った陽気な声も、戦闘に入ってしばらくしてから聞いていない。
堅物のストゥディウム。いつも真面目に正論を振りかざし、上からも同僚からも煙たがられることの多い長身の魔術士。どこかの領主の令息らしいのに、どの派閥にも属さずに、孤高を気取っているのかと思えば、その空気を読まない振る舞いを頼って相談を持ちかけられると、それなりに対応してくれる変わり者。
周りより頭一つ高いため、大体どこに居ても目立つその姿も、この乱戦の中でずいぶん長いこと見ていない。
自分の役割に誇りと矜持を持っているという意味では嫌いではなかったから、死んでなければいいとは思う。
死なないで欲しいと言うなら他にもたくさんいる。
長い黒髪に素顔を隠すようにして、日頃から寡黙なオリアナ。話せばユーモアがあるのに、極度の人見知りで人付き合いを嫌うから陰気と思われている残念美人。
どんなときでも話を聞いてくれるシルヴィア。小さい身体なのに誰よりも大きく広い心を持つ彼女。誰からも好かれていたけど、争いごとが大の苦手で、この戦に出る時もずっと震えてた。
側にいてあげたくても、今はどこにいるのか分からない。
戦であるなら、死はすぐ側にある。
そんな当たり前のことが分かっているようで分かっていなかった。
ただ魔術士として役に立ちたい。誇りを持って戦いたい。そう思っていた。
戦えば、明るい未来が開けると、無意識の内にそう思っていた。
いや、今も、そう思っている。
だから、死ねない。
足下から、表皮を撫でるようにして、鳥肌が立つような冷たさを感じたのはそんな時だった。
全身を撫でるように冷気が突き抜けていったかと思うと、それまで黒い楕円形の靄の塊だった『ウツロ』たちが、人の姿をして立っていた。サビニアたちと違いがあるとするのならば、服と肌の色ぐらいか。彼女たち魔術士が羽織る黒のローブとは異なり、『ウツロ』たちは麻のようなもので編まれた荒い生地の服を身に着けていた。肌は彼女たちよりも少し浅黒く、熟す前の橙の皮ような肌の色をしている。その違いも、風が吹き荒れ、砂が舞う戦場では、はっきりと判別することが難しい。
突然の出来事に、状況を理解できずにいたサビニアだったが、それは『ウツロ』の方も同様であったようだ。
建物から降り、部隊の中で暴れまわっていた『ウツロ』も、目の前で起きた出来事がどういう状況なのかを理解できないのか、動きを止めてしまっていた。
「全隊員に告ぐ!目前の敵を排除次第、散れ!目標は転移門!大通りを避け、建物に紛れて退け!」
その時を動かしたのは、聞き覚えのない誰かの声だった。
太く力強いその声は、だが、どこから聞こえてきたのかはっきりしなかった。すぐ側で聞こえたような気もすれば、建物の上部からも聞こえたような気もした。
次の瞬間、僅かに離れた場所で鮮血が飛び散った。
右頬に痛みが走り、視界が赤く染まる。
咄嗟にサビニアは風の盾を前面に展開しながら、後ろに一歩退く。目に飛び込んできた何かを擦り取り、視界を確保した頃には、先程まで目前で猛威を揮っていた『ウツロ』の姿が消えていた。
代わりに、その周囲に円を描くような空白が出来ており、地面には……。
むせ返る血の匂いと、沸騰しそうな胃の中の熱に、その場に崩れ落ちそうになるのを必死にこらえていると、遠くから地を踏み鳴らす轟音が聞こえてきた気がした。




