第五十九話 流れ落ちる水のように
螺旋階段の先にある木の扉は、礼拝堂から通路に続く扉同様、大人一人が通れる程度の大きさだった。その扉は既に開かれており、奥には磨かれた石のような巨大な石柱が二本聳えていた。
建物のどこにこれほどの石柱が納められていたのか、という疑問はすぐに、だからこその螺旋階段なのだ、という考えに変わった。
部屋全体が石造りの壁に囲まれているが、この部屋の天井の向こう側は教会か、もしくは帝都の他の建物が建造されているのかもしれない。
アギィは不思議な造形をした二本の石柱を見上げる。一本は光星の光そのものにも見えるほどに白い石柱。もう一本は全ての光を失った暗闇そのものに見えるほどに黒い石柱。それらは石柱であるにも関わらず、まるで2本の大樹のように曲がり、絡み合っていた。
互いに支えているような姿。立ち上がりの根本を見れば、その石柱は部屋の床に立つのではなく、その更に下、部屋の床下を突き抜けて、地面の更に下に向かって更に伸びている様子が見て取れた。
正面には石柱に手が触れるほどの場所に黒髪の青年が立ち、それを守るような形で四体の『ウツロ』が取り囲んでいる。
その青年が両手を伸ばし、右手を白い柱に、左手を黒い柱に添えると、背後で「始まった」というアンの声が聞こえた。
アンのその声に合わせるように、黒髪の青年が一瞬白い光を放つと、殻のように青年を包み込み、その殻は、すぐに枯れ木の皮のように剥け、欠けていく。
代わりに内側から現れたのは黒い光の塊だった。人の形をした黒の塊は、だがよく見れば靄のようにも見えた。
――『ウツロ』!?
黒髪の青年は、その姿形を残したまま、全身が黒の塊となり、両腕からは身体から伸びた黒の光が石柱に流れ込んでいく。
その光が石柱に流れ込むたびに、黒の石柱の表面はより艶やかさを増し、一方で、白の石柱はどこかくすんだ色に変わっていくように見えた。
目の前で次々に変化する事象に思考が追いつかないまま、それでも目前の黒髪の青年が『ウツロ』であるならば、と手の平に風の槍を生成する。
だが、その槍を振り抜く直前、目前で空気が弾ける音がした。
渦巻いた風がアギィの髪を靡かせ、視界が戻った時には、いつの間にか隣にフアンが立っていた。
弾けた音は、おそらく自分に向けられた風の矢が風の盾に防がれたのだとアギィは察する。
自らの失態を悔いるのは後、とアギィは再び風の槍を生成した。
アギィへの攻撃を防いだフアンは、続けて両手を両腿に伸ばすと、即座に両の腕を交互に左右に振った。
指先から鈍い光が閃いたかと思うと、その輝きはまっすぐ四体の『ウツロ』に伸びていく。
その横を直剣を両手で握ったガイが駆け抜け、レツが脇の二体の『ウツロ』に矢を放っていた。
フアンから放たれた五つの光は、風を切り裂く不協和音を奏でて飛翔し、『ウツロ』の手前で突然弾けた。
音が弾けると同時に光が瞬き、その光は流れ星のように煌めきながら地面に流れ落ちる。地に落ちた星はきんっと甲高い音を数度立てると、そのまま地に伏し、短い命を終えた。
続けてレツから放たれた矢を『ウツロ』たちは身を捩って躱す。
――矢を避けた?
まっすぐ黒髪の青年に向かって駆けるガイを援護する形で、アギィは風の槍を青年の前に立つ一体に放つ。
風の槍を放ちながら、左右の『ウツロ』をけん制するための一手を考えていたアギィは、レツの放った矢に身を捩った『ウツロ』たちを見て、目を見開いた。
『ウツロ』は魔術でしか傷つかない、それはこれまでの『ウツロ』との戦闘経験からも明らかな事実であり、これまで『ウツロ』は魔術以外の攻撃を避ける動きを見せたことはなかった。
それが今は避けている。
何が違うのか、知りたいところではあったが、そのためには今この場を生き残らなければならない。レツが放つ矢も有効であるという事実を一旦受け入れ、アギィは次の槍を放った。
その間もガイは青年との距離を詰め、青年の前に立つ『ウツロ』まであと数歩というところで、大きく跳躍する。踏み込み、飛び上がる動きに合わせてガイを押し上げるように風が吹く。その風に乗って、『ウツロ』を飛び越え、青年に斬りかかろうとしたガイは、目前で壁に弾かれるようにして、フアンたちの足下まで吹き飛ばされた。
青年の前に立つ『ウツロ』が目前に風の壁を展開し、アギィが放った風の槍もろとも、フアンたちの立つ場所に向けて弾き飛ばしたのだ。
自身が放つ風の槍が一枚の風の盾に打ち負けたことに驚きを隠せなかったアギィたが、直後のフアンの言葉でその理由を知った。
「アギィさん、ここでは風が足りない」
風の槍と風の矢を立て続けに放ったことで、周囲の空気を使い切ってしまい、逆に目の前の『ウツロ』はフアンたちの魔術により集められた風の残骸を利用して、強力な風の壁を作り上げていた。
ここは屋内。周囲から無尽蔵に空気が得られる環境ではないのだ。
瞬時にフアンの言葉を理解したアギィはその場に跪き、地に手を触れた。
展開する魔術式は振動。空間を振動させるそれと異なり、物質を振動させるためには、魔術式は複雑になり、多量の魔力を要する。
手の平に膨れ上がる魔力を感じた時、アギィの髪を舞いあげて一陣の風が吹き抜ける。頬に痛みが走ると、血が涙のように頬を伝い、地面に落ち、石畳に吸い込まれていった。
直後、アギィの手の平で構成された魔術式を始点として『ウツロ』に向かって一直線に部屋の床が波打った。『ウツロ』たちが姿勢を崩し、次の一手が止まるのを見て、編みなれない魔術式が、上手くいった事に安堵する。
だが、そこで気を抜くわけにはいかなかった。追撃を掛け、一体でも数を減らさなければ、数の不利は続いたままだ。直ぐ様その場に立ち上がり、風の矢での追撃を掛けようとした時、突然地面が歪んだように見えた。
何事かと思い、立ち上がろうとした足にはなぜか力が入らなかった。
地が歪んだように見えたそれは、目の前の空間ごと、水面がせり上がってくるよう徐々に上昇を始め、それがアギィの身体に触れると、その触れた場所は、自分の意思から切り離されたように動かなくなってしまう。
――なに?
崩れそうな身体をなんとか膝で支え、横のフアンに視線をやると、フアンは何事もないように立っている。自分だけに何かを仕掛けられたのか、と思えば、背後で何かが倒れこむ音がした。
ほどなくアギィもまた、腿の付け根から先の力が抜け、自身を支えていた膝ごと体勢を崩し、床に倒れこんだ。
急速に失われていく意識と共に、遠くで、あの青年の声を聞いた気がした。
「あとは僕に任せて……」
△▼△▼△
地を振動させる魔術を用いたアギィが突然倒れたとき、真っ先にフアンの脳裏に過ぎったのは、連戦による魔力切れだった。しかし、アギィよりも魔力量の少ないフアンが未だ倒れていないことを考えれば、それは考えづらいと考えを打ち消す。
ではアギィがどこか負傷したのかといえば、そうした様子も見られなかった。呻く声も聞こえない。結局、ただ突然倒れた以外何も分からなかった。
一対四、もしかすると一対五となった状況で、『ウツロ』たちから目を離せないフアンは、これ以上アギィの状態を気にすることは出来なかった。誰か代わりにアギィを安全な場所まで下げてもらおうかという考えが頭を過った時、背後で何人かの倒れる音が聞こえた。
――何が?
後ろを振り向けないなら、自身が後ろに下がるしかない。
前方に風の壁を展開して後方に飛ぶと、部屋の入口付近にいたガイとレツが倒れていた。ガイは先ほど叩きつけられた後、倒れたままの可能性もあったが、だとすると他に倒れたのはエレノアとフェリか……。
ガイとレツに向かって『ウツロ』が攻撃した気配はなかったし、エレノアとフェリに至ってはフアンの背後にいる。攻撃が行われれば、先に傷つけられるのはフアンだろう。
おかしな点があるとするなら、目前にせり上がってきている空間の歪みだった。
だが、これが何らかの攻撃であるのなら、フアンにも何らかの影響があるはずだったが、フアン自身はなんら異常を感じていなかった。
知り得ない、予知しえない攻撃が行われていたとするなら、数の不利だけでなく、情報の面でも不利になる。なぜ倒れたのか明らかにしたいところだったが、『ウツロ』たちが考える余裕を与えてくれるとは思えない。
アギィが作ってくれた僅かな隙。地面の振動により『ウツロ』たちが体勢を崩したことで生まれた僅かな隙は、フアンが後ろに跳躍する間に失われた。
退くべきか。
そうなれば、他の人たちを置いていくことになる。
置いていけば命の保証はない。
皆を見捨ててまで生き残る価値はあるのか。
そもそもこの状況で無事に退けるのか。
全ての思考がまとめて浮かび上がり、まとまることがないまま霧散する。
だが、まとまらない思考に対してフアンが焦ることはなかった。
冷静だったからではない。
目の前で起こった事象に、それ以上考えることが出来なくなったからだ。
地面からせり上がってきた空間の歪みは、確かにフアンには何ら変化を及ぼすことはなかった。
しかし、その代わりに目前の『ウツロ』たちに大きな変化を及ぼしていた。
先ほど人の形をした黒の塊となった少女も含めて、五つの黒い靄は、せり上がっていく歪みに触れた場所から靄が失われていき、代わりに人の姿形に変わっていった。
そして、歪みが靄の身体を全て通り抜けた後、そこに立っていたのはフアンたちと同じ姿形をした五人の人だった。
見慣れぬものがあるとすれば、その服装か。
麻のようなもので編まれた荒い生地の服は、全身が黒く、それだけを見れば、『ウツロ』の黒のようにも見える。
動きやすさを重視したのか、袖口は肩まで、下衣も太もも程度までの長さしかなく、そこから伸びる手足の色は、それぞれで微妙に色が異なるが総じて薄い橙色に少し麻黒さを混ぜたような肌の色だった。
その色は『ウツロ』のそれとは似ても似つかぬ色だった。
「あとは僕に任せて……と言ったのに、ついてきたんだね」
どれほどの時間、目の前の光景に意識を奪われていたのか。だが、しかし、それは『ウツロ』たちも同じであったのか、彼ら(と呼ぶべきだろう)もまたフアンたちを見て目を見開き、身動きをとれないでいた。
石柱の前に立つ黒髪の少女とその直ぐ側に居た黒い髪の短髪の男だけが、このことを予測していたかのようにフアンを見ていた。
そんな中でフアンに最初に話しかけてきたのは、石柱に触れていた黒髪の少女だった。
建物の外で目にした時より僅かに違う印象を受けるのは、白磁のようだった肌の色が、他の『ウツロ』同様に薄い橙に変わっているからか。
儚げに見えた様子も、どこか強気な様子に変わって見えた。
「『ウツロ』は楔の発動で無力化されるんじゃねぇのか。立ってんのがいんぞ」
その黒髪の少女に話しかけたのは、少女の側に居た短髪の男だった。
「僕の術を無効化した奴ならそういうこともあるとは思ってたけど、3人もいるのは予想外だよ」
「なら、あれ全部殺せば、脅威はなくなるってことだな」
「……まぁ、そうだね。ちょっと正面の子だけは興味あるけど」
「なんでだ?」
「知ってるだろ?僕と同系統の術が使えるなら、魔術は使えないはずだってことだよ」
「……あぁ。だが、今んとこ、そいつがこの中で一番脅威だ」
男がフアンを睨むように見つめる。
彼と黒髪の少女以外の三人は、そんな二人の様子を黙って見ていた。彼らがどういう結論を出すのかを見守っているつもりだろうか。
だが、フアンはそれを攻撃できる機会だとは思えなかった。
自分のことを見ていないようで、彼らの意識は確かにこちらに向けられている。
魔術が扱えるのはあとはフアンだけであることも既に見抜かれているようだった。
今、フアンが少しでも攻撃する素振りを見せたなら、彼らは容赦なくフアンを狩るだろう。
倒れたままの皆の事も気になるが、今は下手に身動きすることができずにいた。
――三人?
それと同時に、目の前の二人が交わした会話の中に気になる言葉があった。
それが今もまだ立っている人数を指しているなら、エレノアとフェリは無事ということだった。
「……不確定要素は極力排除するべきなんだけど」
不満げな声でそう言った後、黒髪の少女は瞳を静かに閉じた。
それは瞬きする程の時間のようでもあり、それよりも遥かに長い時間にも感じられる。
自分たちの命は目の前の少女に握られているという事実に、息を呑むことも出来ずにいると、少女が深いため息と共に瞳を開いた。
「ミナカ、退こう」
「あん?」
「そこにいるのは、本物の器だ。まともにやりあえば、僕らは文字通り何も手が出ないままやられる。でも、今なら見逃してくれるってさ」
「どういうことだ」
男の剣呑な雰囲気は、フアンたちではなく、黒髪の少女に向けられている。
目の前の会話の内容をフアンは理解出来なかった。いや、何を言っているのかは理解出来ている。彼らはこの場から退く。つまり戦わずに済む。だが、なぜそうするのか、それが理解できなかった。
「わけは後で話すよ。向こうもこれ以上待てないってさ」
「いや……」
「僕だって本当ならここで退きたくないよ。だけど、ダメなんだ。もちろん、このままでは終わらせはしないさ」
「……そこまで言うんなら、好きにしろ」
男の剣呑な雰囲気が緩んだのとは対象的に、少女はそこに未練を残しているかのように石柱を見上げる。だが、それも僅かのことで、一度ぐっと掌を握りしめると、少女は石柱に手を触れた。次の瞬間、彼らの姿は瞬きもしないうちに黒い光の粒となって崩れ去り、柱の内側に呑み込まれていった。
彼らから感じていた圧力が突然消えたことで気が抜けたのか、フアンの足から力が抜け、その場に崩れる。
だが、まだ全てが終わったわけではなかった。『ウツロ』たちが去っても、レツたちの意識が戻る様子はない。
「エレノア、みん……」
エレノアに倒れているレツたちの様子を見てもらおうと声を掛けようとして、フアンは言葉を止めた。そのフアンの横を、フェリが無言で通り抜けていく。
フアンの横を通り過ぎたフェリの姿は白い光に覆われていた。
それは先ほど石柱の前で一瞬見せた黒髪の少女の姿と同じ光のようにも見えた。
普段は中央に黒を湛えた薄い茶色の瞳も、光に包まれているせいなのか、灰の瞳に色を変え、肩までの長さに切り揃えられた灰がかった金色の髪はそれ自体が光を含んでいるように煌めきを放っている。
そのフェリを見つめていたエレノアもまた、普段の黒の瞳とは違い、色素が落ちたような薄い灰色の瞳をしていたのだが、フェリの姿に意識を奪われていたフアンは、エレノアのその瞳の色に気づくことはなかった。
何をするつもりなのか、とフアンが思う間もなく、フェリはまっすぐに二本の石柱の前に立ち、石柱に向けて手を伸ばした。
すると、先ほどは地面からせり上がってきた空間の歪みが、今度は天井から下降を始め、それは幾ばくかの時間を掛けて、地面の下へと沈んでいった。
直後、フェリがその場に崩れ落ちる。
「フェリっ」
一連の様子を見入っていたフアンは、フェリが倒れた事で我に返りフェリに駆け寄る。抱き上げて無事を確認しようとすると、すぐ脇にはエレノアが膝をつき、フェリの手首をとっていた。
「……大丈夫。エーテルの流れは問題ない」
「意識を失っただけか」
息を吐くように呟いたフアンの言葉にエレノアは頷く。
「そうだ、みんなは……」
「そっちも大丈夫。フェリと違ってかなり衰弱しているから、少し休ませないとダメだと思うけど、休めば治るはず」
フアンが一連の出来事に見入っている間に確認をしてくれたのか、フアンの懸念にエレノアは即答した。
「良かった。……でも、一体何が」
「……分からない……けど」
「……けど?」
「フェリは知っているのかもしれない」
先ほどのフェリの姿を見れば、それは当然のように導き出される帰結だった。
【虚空の底の子どもたち】
第五章『流れ落ちる水のように』




