第五十八話 互いをつなぐ手
十字路で向き合う『ウツロ』たちが、地の底より出づる波に満たされる少し前、フアンたちは黒髪の少女と『ウツロ』たちの姿を追って、教会の前に立っていた。
建物の上部から光星の光が差し込む造りとなっている教会の内部は、外から訪れる者がいつでも足を踏み入れやすいよう明かりに満ちている。
建物の中央にはまっすぐと赤い絨毯が敷かれ、その先には女神に祈りを捧げるための祭壇があり、その上部には『メルギニア』建国時に奇跡の力を貸し与えたと言われる水の女神レアラの像が掲げられていた。
この世の全ての世界を生み出した大神によって成された天地創生。産み出された世界に満ちた生命の源たるエーテルと現象の源たるマナは、異界より現れたとする獣により喰らわれ尽くそうとしたという。
大神がこの地を守護するべく遣わした十二の神は、この万物を喰らう獣との戦いに勝利したが、その代償は大きく、六柱の神は獣を異界へと封じるために地の底に沈み、残された六柱の女神は封印を守るために天に昇った。
残された生命は、神々を失いながらも、残された恩寵と加護を糧として生き長らえた。
以来、女神は天より地を見守り、生命を育む神の恩寵もまた護られ続けている。
水の女神レアラは天に昇った六柱の女神の一柱であり、天地崩壊の折に『メルギニア』の地に現れた神子フルークを守護した女神でもあった。
『ウツロ』にしてみれば、女神は天敵であり、最も忌避すべき存在である。
――「上手くやる」と言ったのは、女神の力を借りるということか。
ガイは黒髪の青年が告げた言葉を思い起こしながら、祭壇の上からこちらを見下ろしている女神像を見つめた。
――そういえば、マグノリア領で神子が現れたって噂もあったな。
神子の姿は領民の目に触れることはなく、領主の下にいた兵士から漏れ聞こえただけの話であり、真実であるかは疑わしいと思っていたが、意外と事実であったのかもしれない。
「扉が開いてんな」
祭壇の右奥に大人一人分の大きさの扉があり、それが開いたままになっていることにレツが気づく。
「この教会が同じ造りなら、あの奥は治癒術士たちの居住区だけど……」
治癒術士たちは城に召集され、居なくなっているはずだ、とガイが言っていたことを、エレノアが思い出す。
だが、治癒術士以外はどうだろうか。
治癒術士の護衛も兼ねている付き人はおそらく治癒術士と共に城にいるだろう。
しかし、清掃や給仕を担当する人々、重い病を抱える人の治療を受け付ける事務職員、そして……、重い病を抱えた人々は今どうしているのか。
教会の癒し手がいなくなれば、長く生きることが難しい者もいる。
そんな人々はどこか別の場所に移送されているのだろうか。それとも……。
そして、そこまでの危篤者ではなくとも、日々の生活が困難な者たち。彼らは今どうしているのか。今もあの教会の奥で、女神に祈りを捧げる日々を送っているのではないだろうか。
徐々に顔の曇り始めるエレノアの手を、フェリがそっと握りしめる。
『ウツロ』が何を思い、この地に足を踏み入れたのか、黒髪の青年が何を思って『ウツロ』と共にいたのか。何もわからない以上、フェリは安易にエレノアに対して「大丈夫」と声を掛けることも出来ず、ただ、彼女の手を握りしめることしかできなかった。
「礼拝堂に姿が見えない以上、『ウツロ』はあの奥だろう。行くぞ」
その言葉に反応して、アギィが先陣を切った。そのすぐ隣にはレツが付き、二人は礼拝堂の様子を窺いながら慎重に足を踏み入れていく。
中央の絨毯を挟むようにして並べられている木の長椅子は、背もたれの陰であればある程度身を隠すことも可能であり、一見誰もいないように見えても油断することは出来なかった。
『……』
――また。
教会に足を踏み入れると同時に、どこからかフェリに話しかけるような音がした。
それは木の葉を踏みしめた時のような雑多な音のようでもあり、山奥から湧き出る湧水の音のようでもあり、訪れたことのない異邦の地の言葉のようでもあった。
その音はこれまでにも幾度か聞いた覚えのある音だった。
一度目は、幼い頃にエレノアの母親の病を治すため、薬草を手に入れようとして、事故で命を落としかけたとき。
驚くような、呆れるような音を感じながら、エレノアの放つ光に包まれ、命をとりとめた。
エレノアが治癒術に目覚めるきっかけとなった出来事であり、その結果、エレノアを家族と引き離すことになってしまうきっかけとなった出来事でもある。
二度目は、身内を失ったことで感情が不安定になり、その結果、魔力暴走を起こした青年からエレノアを守ろうとして、右肩から先が吹き飛ばされたとき。
このときは、驚きと楽しさのような音を感じた。このときもエレノアの力で命を取り留めている。
エレノアが協会から逃亡する切っ掛けになった出来事でもある。
三度目は初めて『ウツロ』と邂逅した時。それは本当に音だったのか。何かがフェリを突き動かした。振動のような衝動のような。
四度目は……あった気がする。はっきりとした記憶はなくても、光の奔流に曝されたような自らがなくなっていくような感覚。その最後に、この音を聞いた気がした。
踏み出してはならない。
ふとそんな意識が表層に浮かぶ。
それがなぜかは分からなかった。
ただ、そう感じた。
ここから離れるべきだ
「……アン?」
繋がっていた手の先が、いつの間にか立ち止まっていることに気づき、エレノアがフェリに声を掛ける。
その言葉を合図に、フェリを包む音が消えた。
フェリの表層を覆っていた靄のような光も消え、フェリは自らが自らであることを思い出す。
「……大丈夫です」
思い返せば、エレノアがエレノアでいられなくしているのは、いつも自分が原因だった。
治癒術に目覚めたことで、教会に「保護」されることになり、エレノアは家族と暮らせなくなった。
ならばせめて自分がエレノアを守らなければならない、そう思い付き人になったはずが、自分が原因で教会にも所属できなくしてしまった。
自分はエレノアにとって良くない存在ではないか、そう思うことはあっても、どうしても離れることが出来なかった。
「自分が守らなければならない」などという理由は、ただの言い訳に過ぎないことぐらい、自分でも自覚していた。
「本当に?」
「はい。ご心配をお掛けして申し訳ございません」
いつもと同じ表情のようでいて、どこか血の気が失せているようなフェリを見て、とても「大丈夫」には見えない、とエレノアは思う。
だが、それを指摘したところで、フェリはそれを認めないだろう。感情を表に出さないから分かりづらいが、フェリは良く言えば時に強い熱意で物事を推し進めることがあった。悪く言えば頑固、ということだ。
エレノアは無言でフェリの手を握りしめる。エレノアが不安になった時、いつも包んでくれたその手を。
――フェリは私が守るもの
『……』
きゅっと握り返された手の温もりが、エレノアの胸の奥まで届き、内側に溶けて消えた。
礼拝堂を警戒しながらある程度歩を進め、ほぼ全域の安全が確認できると、一行は奥の扉に向かって歩みを早めた。
『ウツロ』たちが教会に侵入してから既に幾ばくかの時が過ぎている。その間、教会の中で大きな騒ぎが起きている気配はなかった。
大人一人が通れる程度の通路沿いには所々に扉があったが、それらに開けられた形跡がない。ただまっすぐ奥へと続いていくその道を進んだ先で、エレノアが不意に「変ね」と言葉を漏らした。
「何が変なんだい、シンちゃん」
エレノアのすぐ前を歩いていたガイが立ち止まる。その声に合わせて、前方のアギィとレツも立ち止まった。
追撃中に足を止めるのは望ましくなかったが、エレノアは教会出身の治癒術士だ。彼女が「変」と感じたのであれば立ち止まり、傾聴する価値がある、とガイは判断した。
「居住区への扉も診療区への扉も、食堂に向かう扉も閉まったままで、これ以上奥は行き止まりのはずなのに、そこに階段がある」
「……『アストリア』の教会がここと似たような造りだとは限らないが」
「それはそうなんだけど。教会は心身に支障のある人々が訪れるの。その人たちに不便のないよう、出来る限り平たく広く造られている。その分教会関係者が使用する通路が狭くなっていたりするのは不便だと思うけれど、でもそういうところだから、どの教会にも階段が設けられているのは見たことがないと聞いていて」
「本来ないはずの階段がそこにある。仮にこれが、普段はここに「ない」ものなら、この先にこそ『ウツロ』がいるということだろうな。なぜそんな階段をあの黒髪の青年が知っているのかは知らないが」
こうした建物に隠し階段があることは不思議なことではない、とガイは考える。
国境砦にも一般の兵士には知らされない隠し通路はいくつも存在している。それは、部屋と部屋を他の者に気づかれぬままに移動するためのものであったり、万が一の時の脱出経路であったり、同じ脱出経路でも、城と街を繋ぐような長大なものである可能性もある。
それらは秘匿性が高く、建物の長や皇族などごく一部のものしかその存在を知らされていないことが普通だった。
これがそういう類の通路であるならば、あの黒髪の青年が何者なのか。もしも本当に「神子」であるなら、教会の隠し通路を知っている事もあり得る話ではあった。
「とにかく進もう。この先に『ウツロ』たちがいるかもしれないのなら、尚のこと」
仮に神子だとして「上手くやる」とは何を、なのか。
ガイは再び黒髪の青年の言葉を思い返す。
『ウツロ』を招き寄せて、この地に封印するということか。
だとすれば、なぜ全ての『ウツロ』を率いることなく、ごく一部の『ウツロ』だけを連れてここに来たのか。
一度に操れる『ウツロ』に限界があるというなら、全ての『ウツロ』を封印するためには何度同じことを繰り返す必要があるのか。そんなことをやっている間に、外の戦闘はなんらかの形で決着がついているだろう。
ならば、わずかな『ウツロ』を媒介としてこの地に封印の力を発動するという事か。
過去の伝承では、神子は異界の獣を葬り、人々の信仰を集め、女神の力を取り戻し、女神の力で地の底に沈んだ大地を取り戻した、という。
天地崩壊が起きていない今ならば、神子の力だけでも獣を封印出来るということなのだろうか。
そんな伝承は聞いたことがないが、単に伝わっていないだけなのか、それとも過去にそのような前例はなく、それでも神子は女神からその事実を聞かされているのだろうか。
渦巻くように続く階段を下りながら、ガイは自らの知る天地崩壊の伝承の記憶を辿っていく。
昔はただの神話で、国が都合よく作った作り物の物語だと思っていた。
だが、伝承の通り『ウツロ』は現れた。
それからは砦に残る資料を始め、様々な過去の文献を漁ってきた。敵を知らなければ、勝てる戦いも勝つことはできない。国境砦の隊長として、国の要を預かる以上、不確定要素は少しでも潰しておく必要があった。
幸い『ゲラルーシ』山脈の国境砦は、前回の天地崩壊の時代から残る数少ない史跡でもあり、今も古い文献が残されている貴重な資料館でもあった。
前線である砦に残された多くは当時の兵たちの手記だ。まとまっておらず、分析も分類もされないそれは、資料的な価値が低いとみなされていたのか、それともこれまで誰も見向きもしてこなかっただけなのか。
手記には古い言葉で記されたものも多く、途中からは学のあるアギィも巻き込み調査を続けた。その結果、分かったことは、『ウツロ』がどのようにして現れた、どのようにして消えたのかに関しては、記録が全く残っていない、という事実だった。当時を記録した手記は確かに多かった。それでも天地崩壊から大地の復興までを記した手記はほとんど残っていなかった。失われたわけではない。最初から存在しないのだ。
多くの伝承で語られる通り、天地崩壊により地の底に沈んだ大地は神子と、神子が揮った女神の力によって復興した。
地の底に沈んだ大地には、神子以外足を踏み入れることは出来ず、地の底に沈んだ生命は悉く死を迎えていた。
真実を知るのは神子のみであり、その神子は地の底での出来事を決して語ることはなかったという。
女神がそれを禁じたていたとも、神子が思い出すことを拒否するほどに凄惨な光景だったからだとも言われているが、真実は分からない。
ただ、一般に知られていた事実が再確認出来たというだけだった。
――俺はこれからその知られざる歴史の一端を垣間見るのかもしれないな
こんな状況にありながら、ガイにとってそれはどこか胸躍る事実であった。
誰も知らぬ事を知る。誰にも出来ぬことを成す。
なんと甘美な響きか。
『始まった』
階段の始まりに掲げられた明かりが闇に呑まれるほどに階段を下り、ようやく出口の明かりが見えた頃、彼の後ろを歩いていたフェリが、彼女らしい感情の無さと、彼女らしくない厳かな声で、ぽつりと、そう呟いた。




