第四十六話 地の底の神
ムスヒは白い石柱に指先を這わせながら、身体が触れそうなほどの距離まで近づくと、右の手のひらで撫でるように白い石柱に触れた。
そうして黒い石柱にもう一方の左の手のひらで触れる。
絡み合う石柱のその括れを抱くようにすると、ムスヒは両の石柱が交差する場所に自身の額を当て、目を閉じる。
「始めるよ……」
内にあるものに語りかけるように呟くと、ムスヒの身体を包んでいた白い光が殻が剥がれるように欠けて落ちていく。その内側からは黒い光が露になった。
石柱に触れていた手のひらを伝い、黒の光がそれぞれの石柱に流れ込むと、黒の石柱は輝きを増し、白の石柱は、輝きを弱めながら、一方で、周囲から流れ込む神の恩寵の光は増していく。
黒の石柱の輝きが増すに伴い、ムスヒを包んでいた黒の光が足元から薄れ始め、ムスヒの手のひらから伝わっていた白い神の恩寵の光が、彼を包み込んでいく。
石室に流れ込んでくる神の恩寵の光は、石室から溢れ出るほどになると、白と黒の石柱の輝きの変化は止まった。
「これで、三つ目」
ここで成すべきことは終わったと、ムスヒは石柱に背を向け、螺旋階段を昇り始める。上階から流れ込む恩寵の光は、滝の如くムスヒに降り注ぎ、通り抜けていく。
輝きの強さは目の前も、足元も判別できなくなるほどで、その様はまるで光の中に浮いてるかのようにも見えた。
楔を魔力で地の底に沈めることで、世界は封じられ、神の恩寵の光が正しく流れるようになる。
その責務は各地で神の力に目覚めた御使いたちが、負うべきなのかもしれないが、ムスヒに力を与えた神の言葉を信じるならば、彼らの世界に残された猶予はあまりない、ということだった。
その証拠に魔力の枯渇は激しく、精霊や妖精の住まう魔力溜まりの地が、そこに生きる者達ごと消えたという話が表立って聞こえてくるぐらいだった。
実態はもっと酷い。
魔力溜まりの魔力が少なくなり、魔力そのものである精霊達が消えていくに留まらず、神の恩寵の光が不足することで人が住むことのできない不毛の土地となった地域もある、と神は言う。
一刻も早く楔を打つこと、それは彼らが生きていくための最重要事項だった。
その為に、何を犠牲にしようとも。
「人が人らしく生きていける世界を。
人とヒトが互いに支え合える世界を」
何者を犠牲にしてでも、成し遂げなければならない。
世界の情勢と在り様、そして望星隊が成すべきことをミナカに話した時、彼は唇を強くかんだ後、そう告げた。
粗暴なようでいて繊細。孤高に見えて繋がりを大切にする。
力強く見えて、その実、ほんの少し強く触れれば、全てが瓦解しそうな砂で出来た建造物。ミナカはそんな男だった。
その強さと儚さが生み出す何かが魅力となるのか、ミナカは多くの人々から多かれ少なかれ好意を寄せられていた。
そんな眩しい人だからこそ、壊してやりたい、そうムスヒは思った。
ムスヒは幼い頃から自分が世界の外側にいる、そんな感覚で生きていた。
それがいつからかは分からない。
おそらく、「それ」が内側に巣食っている事に気付いた時だろう。
己の内側にある得体のしれない何か。
自らを「神」と呼ぶもの。
闇の神クラツチ。ムスヒの世界の六柱の神。
その神が彼にこの世界の有り様を語ったのはいつだったか。
幼過ぎて理解できない頃は、ただ「汝は神子である」と聞かされた気がした。
ある程度、齢を重ね、物事の道理を理解できるようになると、周りの大人たちが語る「事実」とは異なる、神が知る「真実」とやらを、クラツチは語るようになった。
ムスヒが世界と乖離を始めたのは、おそらくその頃だろう。だが、明確にいつからと問われれば、分からない、としか言えなかった。
望みもしないのに負わされた責務。
神子として人々を率い世界を救う、それがムスヒに与えられた役割。
世界には同様の役割を持つ者が複数存在し、自らの住む地域の人々を率いて、世界を正しい形に戻していくのだ、とクラツチは語った。
だが、その役割は秘するものであった。
神子の力は世界を変える程に強く、自らを守ることが出来ない内は、人に知らせるものではない。
理解は出来ても、納得は出来なかった。
周囲の人々はそれを知ることなく、日々はこれから先も続いていく。
己の鍛錬の先には必ず明るい未来がある、そう無邪気に信じている。
転移も楔も神の力がなければ不十分で、その神の力は……。
だからこそ、無邪気に未来を信じている者を見ていると、妬ましく、羨ましかった。
君たちの未来が誰の犠牲にあるものか、全てをぶちまけてしまいたいと何度も思った。
だが、その先にある未来は、全ての終わりだ。
それぐらいは、理解出来る年齢になっていた。
ミナカに全てを話してしまいたい、そう思ったのは、そうしたムスヒの歪んだ欲求と理性の狭間が生み出した結果だった。
ミナカならば、受け止められるという期待。
ミナカの心に、黒い染みを落とした時、どれほど染まるのかという期待。
どこまで落ちてどこで留まるのか。
ミナカならば自分を受け入れてくれるという想いの裏返しでもあるということにムスヒは気付かないまま、それはまるで恋心のようなものであるということに気付かないまま、ムスヒはミナカに「真実」を話した。
人が人らしく生きていける世界を。
人とヒトが互いに支え合える世界を。
ムスヒが絶望を見た世界の有り様を知り、「神」の有り様を知り、その上でミナカが告げた言葉がそれだった。
君はその責を負わない、だから言える理想論だ!
らしくもなく心が沸き立ち、気付けばムスヒはそう叫んでいた。そのムスヒを、普段は激情しやすいミナカが、まるで凪いだ湖のように、ただまっすぐに見つめていた。
もちろん、お前もお前らしく生きていける世界でなければならないんだ。
自らの内に「神」を感じた時とは別の力で、ムスヒの視える世界は再び変えられた。
思いに耽りながら歩いているうちに、螺旋階段を昇りきり、教会の聖堂に続く扉にまで辿り着いていた。
気づけば、先ほどまでの光の奔流も薄れ、その光の量は小川程度になっていた。
――なんだ?
その光景に何か言葉に出来ない違和感を感じながら、ムスヒは聖堂へ続く扉を開けた。
螺旋階段から続く、人が二人ようやくすれ違うことが出来るような細い通路が終わり、扉を開けた先には、何百という人が収容できる広い空間があった。
広さだけではなく、天井も高く、見上げた先には色の付いた鉱石を混ぜた硝子の窓があり、そこから射し込んだ光星の光は様々な色を纏って、床に鮮やかな模様を描いている。
ほんの数時間前まで辺りに満ちていた神の恩寵の光は、すっかり失われていた。それらは、床に転がる塊から漏れ出る光が僅かに流れるだけとなり、その光の小川は、今ムスヒが出てきた扉の奥に向けて流れ込んでいる。
――神の恩寵の流れが止まっている?
光の出元は、床に倒れた乳白色の布の塊から漏れ出たものだった。その布に包まれていた『ウツロ』に残された神の恩寵の光、生命の残滓。
もう一度天井を見上げ、次いで、入り口の扉に視線を移す。
本来、膨大に流れ込むはずの光だけでなく、先ほど地下に降りるより前に流れ込んでいたはずの光までもが失われている。
そして、光星が姿を見せ、地に沈むまでの間、開かれたままの教会の扉がいつの間にか閉じられていることに気づく。
――光は物理的な壁によって堰き止められることはない。だが、それは置いておいても、なぜ閉まっている。誰が閉めることが出来た。
ムスヒは急ぎ足で教壇から扉に続く赤い布の上を歩く。その彼の足元には、いくつもの乳白色の衣の塊が転がっていた。
ムスヒが扉に手を触れようとした時、その手が彼の意思に反して動かなくなる。
「……やはり、そういうことなのかい、クラツチ」
ムスヒは一人ごちると、目を閉じて意識を自らの内に向けた。
その空間の中央には石造りの円卓があった。
その円卓を取り囲むようにして、円柱の形状をした石の置物が12。これは円卓のための椅子であるのかもしれない。
自身の内側にある自分のものではない何かが創り出した空間。
それがこの空間だった。
――何か、ではないかな。
それが自ら名乗った言葉を信じるのであれば、それは神と呼ばれるものだ。
この空間は彼が日常を過ごす場所のイメージなのだろうか。
だとすると、酷くもの悲しい。
空間には円卓を除けば何もなく、空間自体も円柱の形に切り取られ、その外側は闇星と共に空に瞬く数多の星のような光が輝くばかりで、それ以外に何も見えない。
地も、空も、生命もなく、ただ無機質な物質だけがそこにあった。
そうして周辺に視線を巡らせている内、いつの間に現れたのか、一人の男がムスヒの前に立っていた。男は闇星が消えてしまった夜の空を思わせる漆黒の髪に、黒が色素を失ったような灰色の瞳、一枚の乳白色の厚い布地を身体に絡ませた出で立ちをしていた。
ムスヒ達が信じる神、その一柱。闇の神クラツチ。
ムスヒの内に感じることの出来る神であり、『ウツロ』を封じた六柱の神。
その姿はムスヒが知る伝承にある神の姿とも一致する。だが、ムスヒが知るからその姿を取っているのか、本当にこのような姿をしているのかは定かではない。
目の前のこの男に尋ねてみたことはあったが、「誰もが、見たいものだけを見るものだ」としか答えなかった。
「さっきのあれはなんだったんだい?」
この男が突然現れるのはいつも通りのこと。ムスヒは彼の出現を気にする風もなく、気に掛かっていた話題を切り出した。
クラツチがムスヒの前に手をかざすと、そこから小さな円陣が浮かび上がった。
『女神の結界だ』
ムスヒは、自身の内側から自らの意識を引き上げる。
クラツチの話が正しいならば、結界は一時的なもの。楔が地に沈むと同時に起きるエーテルの奔流から人々を守るためのもので、やがては楔の力に破られるという。
楔が正しく機能するなら、この地の『ウツロ』は恐れる必要がない。
だが、もし第2遠征隊の目指した楔が、この『アストリア』と同様に、女神の結界に守られていたとしたら。
楔の発動と共に『ウツロ』を無力化出来ると信じて作戦を組んでいたなら、結界の効果が切れるまでの間、隊員達は『ウツロ』を迎え撃ち続けなければならない。
ミナカがいて、そんな綱渡りな作戦を許容するとは考えづらいが、絶対はない。
ムスヒにとって、遠征隊の隊員一人一人を気に掛ける義理などないのだが、そうしなければ落ち込む者がいるのだから仕方なかった。
「これで終わりにしたいって気持ちは、僕も同じだし、ま、いいんだけどね」
ムスヒは床に転がる乳白色の塊に視線を移す。
「本当、終わりにしたいよね、こんな事は」
ムスヒは屈みこむと、乳白色の衣の隙間から僅かに見えた茶色の髪を、衣で包み込むように隠すと、先ほど出てきた聖堂奥の扉に向けて、歩み始めた。




