第三十九話 光は昇り地は沈む
『残念だ』
全軍に突撃の指示を出し、天変地異の如き地の揺れと、世界の終わりを思わせる流星雨、空気が割れるほどの喊声が一面を覆うその中で、ファブリツは確かにその声を聞いた。
皇帝の声はこの事態すら予見していたかのようで、やはりこれはカファティウスが仕組んだ罠だったのでは、という想いが強まった。
だが、群集心理は一度一つの方向に定まれば止まることはない。その前に身を晒せば、ただ轢き殺されるだけだった。
走らせ疲れさせ、その上で方向を変えるしかない。その先に戻ることのできない大きな穴が見えていたとしても、だ。
弓から放たれた鏃矢は、数多の矢の雨と風の刃の勢いを借りながら、直轄軍とブラベ軍との連合した陣列、その中央に突き刺さっていく。
勢いに押されるようにして直轄軍の中央、近衛隊の陣列はゆっくりと後退し、地平を埋める如く翼を広げていた左右の陣列は布を切り裂くようにして分かたれていく。
キシリア戦役において、軍の存亡の際に見せたカファティウスの辣腕は、誰が見ても鮮やかであった。だがしかし、それは政治的手腕であり、軍の指揮能力とは全く異なる。
それが戦時中であったがために、彼の指揮もまた尋常ならざるものと思い込んでいたが、実は凡庸であったのか。
そう思わざるを得ないほどの呆気なさ。
だがしかし、ファブリツは何かが引っ掛かっていた。それはまさに、彼が幾度も願った神の啓示の如く、彼の耳元で何度も警鐘を鳴らし続けていた。
「それが狙いか」
ファブリツがそれに気付いた時、幼子が砂山を掘り返すかのように抉れ崩れていたはずの両翼は、その名を思い出したのか、空に羽ばたかんとする大鷲の翼となっていた。
ファブリツのいる後方からでは全景を見ることは難しいが、ロイス軍の鏃矢の陣形は直轄軍に深く突き刺さったかのように見えて、その実真綿で受け止めているかのように、勢いは衰えていく。鏃の鋭さは気づけば削り取られ、一つの塊となり始め、皇帝直轄・ブラベ連合軍が両翼に広げた大鷲の翼は、幼子を抱き留める母の腕のようにロイス軍を包み始めていた。
包囲殲滅の憂き目を打破すべく、後方の本陣で包みを裂こうと、側に控えていた伝令用の専属魔術士フレドに視線を向けた時、自軍右翼、カリヤ湖を望む陣から喊声と喚声が同時に上がった。
「何事か!」
「敵襲です。カリヤ湖から紅の旗印を持った軍勢が!」
「紅の旗?そんなもの我が国のどの領の軍にも……」
豪っ。
ファブリツが言葉を終えるより早く陣を強風が吹き抜ける。
その風に運ばれるかの如く、幾多の矢が陣に注いだ。
ファブリツの隣に控えていた魔術士のフレドが周囲の矢を風で払いのけるが、彼を中心とした円形の外側には多くの矢の墓標が突き立った。
矢の雨より更に遅れること数秒、赤に染まった塊が空から落ちてくる。
これも同様に風の盾で払おうとしたフレドは、魔術を展開した次の瞬間、目を見開いたかと思うと、赤の塊が地に着くに合わせて崩れ落ちた。
「ロイス侯とお見受けする」
赤の塊は炎が揺らめき燃え上がるように立ち上ると人の形を取る。
炎のように見えたのは全身を覆う赤黒いローブであった。耳の下まで伸びた黒髪とこぼれて落ちそうな大きな蒼の瞳。どこか幼さの残る丸顔のローブの青年は、その顔に似合わない低音でファブリツに語り掛ける。
「承知の上で不遜な態度を取るか」
「それはあなたのこの後の態度次第だ」
ファブリツの眼前に現れた青年を見た兵士たちが、ファブリツを護るために駆け寄ろうとした動きに先んじて、青年は周囲の兵士を風の弾丸で吹き飛ばしていく。
一連の動きを、まるでただ歩くかの如く自然に行う青年を見て、ファブリツはこの青年が外見に似合わず歴戦の兵士であると悟った。
「……何が望みか」
「すぐわかる。それまで大人しくしていればいい」
「そなたはアンスイーゼン侯の手の者か」
ファブリツを中心に円陣を描くように兵が並ぶ。自然と出来上がった見えないその線は、そこを越えると風に弾き飛ばされる、風の結界を思わせた。
踏み入れることのできない風の結界ならば作り上げることは可能だが、踏み入れれば吹き飛ばされる結界というものを聞いたことはない。
おそらく、目の前の青年が、都度そのように対処しているのだろう。
彼の視界の外からであっても、気づかれ弾き飛ばされるその仕組みがどのようになっているのかは不可思議であったが、目の前で起きている事実を受け入れる程度には、ファブリツは冷静さを保っていた。
「答える必要性を認めない」
「黙っていろ、と」
『メルギニア』は敵には寛容だが、身内の裏切りには容赦ない。主義主張、互いの守るものが異なるゆえに争うことになったものが敵であり、裏切り者とは、信じ守るべき女神に背を向けたものである、とされるからだ。
このままでいれば、自分には未来はないだろう。他に選択肢があったかと問われれば、どうすべきであったのか、答えは見えない。
黙り込んだファブリツに、自身の要求が伝わったと思ったのか、黒髪童顔の青年は右手のひらを器を持つように上に向けた。
その動きの意図を読めぬまま、青年を見ていると、数秒後ファブリツの頭上で何かの破裂音鳴り響く。
驚き、頭上を見上げると、青空から踊るようにして赤く青く光る火の粉が舞っていた。
「なんだ!?」
ロイス軍の鏃の先端で、一向に変わらぬ戦況に苛立ちを覚えていたノランは、後方で鳴り響いた破裂音に思わず振り向いていた。
だが、そこには僅かに何かが煌めく光以外のものは見えず、代わりに目にしたのは自軍を囲むように伸びていくブラベ軍の旗印だった。
「ノラン様、我軍がブラベ軍に囲まれつつあります。このままでは完全に包囲されるのも時間の問題かと」
まるで包囲に気づくのを待っていたかのようなタイミングで、駆け寄った兵から報告が上がる。
「見れば分かる!そんなものは前方の直轄軍を突けば全軍瓦解する!こちらはずっと圧しているのだ。なぜ破れん?どうなっている!」
「直轄軍は亀甲陣(※上下に盾、隙間から槍を構え、一塊となる陣)に風の盾を重ね後退中です。こちらを攻撃する気がないのか、風の盾から出てこないため、我々も近寄ることができません」
「どういうつもりだ」
ノランは悪態を吐くが、それで事態が解決するわけではない。ただ、このまま手をこまねいていては、やがて自軍が包囲されることだけは確実であった。
ケヴィイナ軍さえ駆けつけるか、後方の部隊がこの状況を見て挟撃をかければ事態の改善は図れるだろうが、どちらも動く気配はない。
――役立たず共が。
ノランの苛立ちが募るのと反比例するように、周囲の喚声は静まり始めている。
どれほど攻め立てようとも、反撃されることがなく、始めは勢いに任せて槍を突き出していた兵たちも、ただひたすら下がり続けていく直轄軍の様子をおかしいと思い始めていた。
先程の破裂音によって誰もが一度空を見上げ、その手を止めてしまったことが、その違和感にさらに拍車を掛けていた。
その内、自分たちが円陣の内側に押し込められようとしていることに気づき始めると、喚声はざわめきに変わり、その内悲鳴が交じるようになっていく。
「ノラン様、一度下がりましょう。このままでは、我々は敵に包囲殲滅されてしまいます」
「皇帝を目の前にして、背を向けろと」
「下がり、本隊と合流すれば、また機会もありましょう。しかし、ここで本隊と分断されたままやられれば、勝てる戦も勝てませぬ」
「なぜロイス侯は動かぬのか!?」
「ノラン様!」
ノランは苛立ちのあまりに手にした槍騎(※ランスのこと)を投げ捨てたくなる衝動を辛うじて抑え込んだ。
「撤退して本隊と合流する。包囲が完成する前に、後方をこじ開けよ!」
だが、己の感情を押し殺してまで決断したノランの命令は、再度空中で鳴り響いた轟音と共に掻き消され、誰もが空を見上げることとなった。
『勇敢なるロイスの兵たちよ!』
そして、代わりに聞こえたのは、彼らが今、まさに討とうとしていたはずの皇帝シリウスの声であった。
『勇敢なるロイスの兵たちよ!
そなたたちの勇猛さ、しかとこの目で見せてもらった。共に国を守る者として頼もしい限りである』
「何を言ってる?」
シリウスの言葉の意図を理解することが出来ず、ノランは独りごちる。
『そして、そなたたちの憤りもまたしかと受け取った。
長きに渡り、皆に辛い思いをさせたこと、ここに詫びる』
その言葉と共に沈黙が訪れる。
誰もが手を止め、皇帝の声がする空を見上げる。
兵たちは皇帝のその姿を目にすることは叶わなかったが、この沈黙の間、皇帝が謝罪のために頭を下げているのだと、容易に想像が出来た。
皇帝が!
『いつ訪れるともしれない終末の獣の襲来を前に、十分な蓄えを保持する必要があった。しかし、徒に皆を不安にさせることは躊躇われた。結果的に、皆に不安と不満をもたらしたことは私の未熟ゆえだ。
しかし、神子の名において、獣の襲来は予言された。これよりは皆で手を取り、立ち上がる時。
これは間もなくそなたたちも伝わるべきものであったが、今ここで、この勇猛なるロイスの兵の皆の思いに応えるために、『メルギニア』皇帝、シリウス・クラウディウスは宣言する!
これより未知なる獣『ウツロ』との戦が終わるまでの間、役務、商いに関わる税を除き、すべての税は免税とする!』
皇帝の言葉が響き、数秒の静寂の後、周囲はそれまでの喚声を遥かに超えた歓声が響き渡った。それは周囲の風と地を震わせるほどとなった。
「……大きく出ましたな」
空から響く皇帝の宣言を聞き、カファティウスが苦笑いを浮かべる。
だが、ある程度は必要な施策でもあり、また、実際に『ウツロ』との戦が始まれば、国は国としての体を為さず、納税のために人を割く余裕もなかったであろう。
既定路線を宣言しただけに過ぎないが、それを知らない民たちからすれば、信じられない決断だ。
「正に皇帝にしか出来ぬ策ですな」
「普通の皇帝でも出来ぬ策だよ、これは」
『メルギニア』の皇帝は、全権を持っているわけではない。議会で議決された事項、選帝侯会議で議決された事項、それらを最終承認するという意味では全権を握るが、議案を勝手に起案し、議決する権限はないのだ。
「事後承諾だが、ここにはブラベ侯と私、それからロイス侯がいる。まぁ、なんとかするとしようか」
幸い、選帝侯会議では、民の減税に関する決議案が採決されている。その事実を元にこのことが既に合意済みであったとすればいい。
隣にいるブラベ侯ザーリアも、同じ結論に至ったのか、苦笑いを浮かべながらカファティウスを見て頷いた。
『収穫量が減る中、皆には無理をさせた。だが、それも全てはこの時のため。役務も、非常事態であるゆえ、兵役だけは免除できぬが、皆の守るべきものを守るための戦である。苦しい戦となるだろうが、皆力を貸してほしい!』
「私はこれを支持すればいいわけか」
「内輪揉めしている場合ではない、とのことだ。その後の処遇は聞いてない。聞かれても答えることは出来ない」
一部のロイス侯の側近たちを除き、兵たちが皇帝の言葉に沸き立つ中で、ロイス侯ファブリツは青い空を仰ぎ見た。
――女神の意思など無くとも、人の意志だけで運命を掴むか。
『キシリア』戦役とは違い、先手を取ったつもりが、そのさらに先の手を打たれていた。自分達が民衆に対して蒔いた毒の花、その花の色を危うさを示す色彩から艶やかな色彩に変えてしまった。
おそらくこの後、各領地にて「皇帝の重税」という名の下に蓄えた不正な糧食の放出も約束させられるだろう。免税したところで食べる食料が必要になることは変わりない。これまでの税は今、この時、民に配るために準備したのだ、と皇帝はそう言っているのだ。
そうして、マグノリア、メラヴィア、ロイスで行ってきた、皇帝への反感を植えつける為に行った徴税を皇帝自らの手柄に変える。
その手腕は純粋な感嘆よりも、得もしれぬ恐怖となってファブリツの心の奥底に突き刺さっていた。
心の何処かで、この戦に対する反発を持っていたファブリツは、この時初めて、自らでも気づかぬほどの小さな殺意の種をカファティウスに対して抱いていた。
『勇敢なるロイスの民よ。この地では向かい合うこととなったブラベの民たちよ。そして、この私の想いに賛同してくれた信頼する直轄軍の兵たちよ。
我らはこれより共に手を取り、帝都メラノの防衛に向かう。勇敢なる皆の他に、マグノリア、メラヴィア、ケヴィイナ、『メルギニア』が誇る十一の選帝侯の軍の半分がここに集う。負ける事など万に一つもないだろう!
我ら国の盾となり槍とならん!』
その場にいる誰もが、霧が晴れどこまでも続く青い空のような未来を信じていた。
しかし、その同じ時、遠い北の地、『キシリア』の空は、光星からの光が喪われ、暗い闇の中に沈んでいた。
首都パトロネアの一角に立つ建物を中心とした円筒のような光は、猛烈な勢いで広がり、都市を、大地を光の内側に呑み込んでいく。
その光の壁が地平の彼方の更に向こうに姿を消すほどまで広がると、円筒の光を境目に、大地が地の底に沈み始めた。
「天地崩壊」の始まりである。
第三章 『激動の大地』 了
『メルギニア』内乱の途中ですが
長かった第三章はここで終わりです。
遂に始まった「天地崩壊」。
ヒトとヒトの争いはどこへ向かっていくのか。
ヒトと『ウツロ』との争いはどこへ向かっていくのか。
第四章は望星隊の視点から始まる予定です。
次回物語の更新予定は
一週間後の2023年3月13日(月)の予定です。
2023年3月9日(木)は登場人物紹介を投稿します。
これまで章の最終話に合わせて投稿してたのですが
今回は登場人物紹介だけで
2話分のボリュームになったので
公開日を分けました。
お話1回分お休みいただくのは申し訳ありませんが
その分色々書いたので、お楽しみください。




