第三十八話 毒の花
「皇帝旗」
ファブリツは霧の晴れた先に、風にはためく「それ」を目にして呟いた。
皇帝の声が聞こえるからには、この地のどこかにいるであろうことは想像に難くなかった。しかし、風の魔術で声を飛ばせる以上、皇帝直属軍の中央部か、その奥に控えるブラベ軍後方の輜重部隊(食料、武具、燃料等を運ぶ輸送部隊のこと)の近辺かと、そう考えていた。
その皇帝が軍の最前線にいる。
皇帝を前に不敬のないようと膝をついていたファブリツは、その異常事態から無意識のうちに立ち上がっていた。
カファティウスが付いていながら、なぜ皇帝をこのような位置に置くのか。
最も考えられる理由は軍をおびき寄せるための罠だが、それにしてはあからさますぎる。
「侯!皇帝を拿捕すれば、我らの勝利です。わざわざ手の届く位置に現れたのを見逃すなど、愚か者のすること。今こそ、攻める時です」
ファブリツの横でノランが叫び、その声に応じ、アーマンド、ハルバートら大隊長が呼応する。
気勢を上げる隊長達の向こう側では、兵たちもまた困惑していた。
始めはその多くが皇帝旗に対して委縮や畏敬の念を見せていた。
だが、そのうち集団の中から恨みを叫び始めるものが現れた。
「あれが皇帝」
「収穫が減り続けているにも関わらず、帝都の人間を食わすために税を重くし続けたやつだ!」
それは領民たちに対し、ルクセンティア、シューブリンらと共に数神期かけて浸透させてきた毒だった。
領民たちが皇帝シリウスを討つ上で、躊躇わぬようにするための。本来ならば、その毒が民たちの間を巡り、浸透しきったところで、民たち自らが反乱を起こすよう仕向ける予定だった。
それが、神子という新たな大義名分の登場によって変わった。
計画は前倒しされ、毒は最初の一手の為ではなく、最後の一手として取っておくこととなった。
その毒が今、皇帝を目にしたことで最後の水を得て、黒く濁った花弁を開き、自ら咲こうとしていた。
この日、ファブリツは何度、女神の意思を感じたことだろうか。
自らの意思を投げだしたいと願っていたと言ってもいい。
だがここにきて、事態は人の手に委ねられたと言ってよかった。汚し続けたこの手は、女神に救いの手を伸ばす事は許されず、自らの意思で血塗れの道を切り拓かねばならないのだ。
ファブリツはそう感じた。
「侯!」
再度決起を促すノランの言葉を手で制すると、ファブリツは側に控えていた専属魔術士フレドに目で合図を送り、兵たちの前に向かった。
突然歩き始めた彼らの領主、ロイス侯ファブリツの姿に気付いた兵たちは、荒れた波が鎮まるように、ファブリツを中心に波紋が広がるように、静寂に包まれていく。
その様子を見渡したファブリツは、フレドに手をかざすと、そのまま手の平を兵たちに向け、そして、握りしめた。
「勇敢なるロイスの兵よ!女神の加護を受けし勇者達よ!我らは愛しき家族を置いて、慣れ親しんだ土地を離れて、鍬を剣に、種を盾に変え、この地まで来た。なぜか!自らの土地を守るため、家族を守るためだ。
我らの生活を脅かすものとは何か!神子が出現を予言した神話の時代に多くの生命を死に追いやった終末の獣か!
もちろんそれも脅威だろう。我らはそれらを悉く平らげるべく訓練を重ねてきた!
だが!
もう一つ、この世に於いて我らの脅威となっている者がある。
現皇帝シリウス・クラウディウス!
神の恩寵が減り続け、民が日々の生活すら苦しむその中で、自らが生きるを楽しむために、そなたたちに負担を強いてきた。
この挙兵は、終末の獣を追い落とすためだけではない。ここで我らの力を示した上で、現皇帝に我らの窮状を訴えることも目的の一つとしていた」
ファブリツは兵たちに背を向けると、腰に佩いた剣をすらりと抜き、まっすぐ皇帝旗に向ける。
陣形において既に包囲網を敷かれている中で、自ら姿を見せる以上、あれはおそらく囮として立てられた旗か、もし皇帝自身がそこに居たとしても、そこに到達させない何かがあるだろうことは想像できた。
それでも、兵が、指揮官が、皇帝に対する戦意を見せた以上、これを止めれば自らの命が危うくなるだけでなく、互いに同士討ちをした上で、皇帝軍に殲滅される恐れがあった。
ならば、最早前に進むしかない。
「その皇帝があれにある!
勇敢なるロイスの兵たちよ。皇帝を捕らえよ!そして、我らが自ら生きる未来をその手に勝ち取るのだ!」
ファブリツの声は、フレドの風の魔術により、ロイス軍九万の兵の元に届き、兵たちはその声に呼応するように叫び声を上げる。
風は風を呼び、人の熱と混ざりあい、空へと駆け上がっていく。それは未だ残っていた周囲の霧を揺らし、散らしていった。
「勝利を我らが手に!」
「勝利を我らが手に!」
ファブリツの声に合わせて叫ぶ兵士たちの声は、それ自体が一つの力を持ったかのように大地を揺らす。
その揺れが収まるのを待たずに、ファブリツは一度皇帝旗に向けていた剣を、空高く掲げると、一気に降り降ろし、叫んだ。
「突撃!」
喊声が空気を震わせると、それは剣先に導かれるように前方へと押し出されていく。その音を追い槍を構えた軍列が前進を始める。霧に濡れた穂先は光星の光を受けて、数多の地上の星となって煌めいた。その背後からは晴れ渡った青い空を覆いつくすほどの黒い雨が舞い上がり、対陣に向かって降り注ぐ。
兵の携えた槍の穂先が地上を疾駆する綺羅星ならば、空から降り注ぐ矢の穂先の輝きは正に流星雨だった。
一つの巨大な生き物となった軍列は鏃形に陣列を組み上げ、横に長く連なる皇帝直属軍とブラベ軍の中央、皇帝旗がはためく陣列めがけて解き放たれる。
その先陣の後方から皇帝旗目指し馬を駆っていたノランは安堵の息と共に、獰猛な笑みを浮かべていた。
――手間のかかる義父親だ
父親が皇帝に対する反感を領民に植え付けていたその意味を何も理解していない。
このような時にその感情を焚きつけずにいつ利用するというのか。
愚鈍とは言わないが、いざという時の決断力は実の父と比べると見劣りすると言わざるを得なかった。
幸い予め仕込んでおいて自らの手勢の者たちが、周囲を煽るように皇帝への恨みつらみを叫び始め、自然と兵たちに「皇帝討つべし」という意思を持たせることが出来た。
民は皆愚かだ。自らが見える世界こそが全てだと思い込んでいる。それが意図して仕組まれた世界だと気付くことがない。だが、その方が民にとっては幸せなのだ。そうである限り、彼らは領主の庇護の下に生きることが出来るのだから。
もう義父親もよい歳だ。後続にその座を譲っても良い頃だろう。皇帝拿捕の手柄を以て、父親に手を回してもらう事も考えたほうがいい。
目前に迫りつつある皇帝旗を眺めながら、自然と槍を握る手に力は入り、口の端が持ち上がる事を止めることは出来なかった。
『残念だ』
前進を始めたロイス軍を目にして、メルギニア皇帝シリウスはそう呟くと、これまで彼の声をロイス軍に届けていた専属魔術士のカエキリウスに手を振り、風の魔術を止めるよう伝えた。
「どうされますか?」
その皇帝の横に沿うように立ち声を掛けたのは、皇帝直属軍の指揮官プブリウスだった。皇帝シリウスは四神期前の『キシリア』戦役の際にも一部隊を率いていた経験があるとはいえ、その時は激戦区を外されていた。数万の軍の標的になるという経験を持たないシリウスが、向けられた圧倒的な敵意を前に委縮していないか。
最初の作戦が「予定通り」失敗に終わり、次の指示を仰ぐために声を掛けたのだが、それと同時に純粋にシリウスを守る立場として彼の状態を心配しての事でもあった。
「予定通り次の作戦に移行する。中央はこのままゆっくりと後退。右翼、左翼は中央を支点に斜線陣を敷くよう伝えろ。敵の鏃を内側に取り込み、敵の牙から毒を抜く」
だがプブリウスの心配は無用に終わった。
シリウスは無表情のまま、当初の計画通りの作戦を告げると、プブリウスに笑いかける。
「皆には苦労させるが頼む」
「それこそ役目なれば」
シリウスの流れるような金の髪が光星に照らされ、神話に語られる光を背負う女神の姿を思わせ、プブリウスは自然と膝をついていた。
『キシリア』戦役以前のシリウスは、芸術や音楽など感性の面においては秀でた能力を持っている、というのが周囲の評価であった。裏を返せば、それ以外の才はない、ということだ。こと軍事面においては、父親の才覚を欠片も受け継いでおらず、平時の面ではそれなりに優秀だが、非常時においては役に立たない跡継ぎ、というのがシリウスだった。
それがこの戦では、別人ではないかと疑うほどの才覚を見せ、まさに前皇帝ペテルギウスの後継者としての振る舞いであった。
それゆえか、この軍には国防大臣であるカファティウスも同道しているが、ここまで目立って口を出してこなかった。万が一の時には対応するつもりはあるようだったが、そうでない限りは傍観する様子を見せている。
それは臣下として正しい姿であり、プブリウスも文句のあるはずはなかったのだが、普段の姿を見ているとどこか不気味でもあった。
「最前は前方に二列目以降は上方に盾を構え、上空からの矢に備えよ。魔術部隊は前衛が抜かれぬよう、接敵後は風の盾を継続して張り続けよ。魔力消費が厳しいゆえ、三つの部隊に分かれ、順に回してゆけ。魔力切れが起きるより前に友軍を抑えることが出来ればそれで良し。万が一それで抑えられなければ、予が自らの責を以てこの戦を終わらせる」
「そのようなことは……」
「それが私が選帝侯と交わした約だ。今この国に必要なのは皇帝という名の元に団結する民の力だ。ならば求心力の無い皇帝など必要ない」
「……しかし」
「それまではこの不甲斐ない皇帝を守ってくれ」
シリウスの顔を見上げたプブリウスはその笑顔を見て、それ以上言葉を告げることは出来なくなった。代わりに「はっ」とだけ告げ、顔を伏せる。
この国難の時に内乱による国力の低下は確かに避けるべき事態であった。だが、そのために皇帝の命を捧げることが正しいと言えるのか、その想いをプブリウスは捨てることが出来ないでいた。
「皇帝が憂慮する事態にはまずならない」
「皇帝が自ら座を降りる事態になることはあるのか?」という問いかけに、皇帝の指示に伴い両翼が動き始めたのを眺めながら、カファティウスは応えた。
「何か確信でも」
先の質問に続きカファティウスに尋ねたのは、ブラベ軍の最高指揮官であり領主でもあるブラベ侯ザーリアだった。
「確信、ではない。打てる手を打っている。ただそれだけの話だ」
「聞いてもいいかな?」
「聞かずとも、すぐに分かるさ」
カファティウスはそれ以上語らず、徐々に距離を詰めるロイス軍のその向こう側に視線を向けていた。




