第三十六話 霧の幕開け
神宿五百二十五年土の昇神節二十九の陽。
ブラベ領とロイス領の境界線に位置するカリヤ湖の付近は、その陽、光星が地平線に顔を出す少し前から霧が立ち始めていた。
雪解けも始まり、土の下から次々と碧の葉が顔を出し始めるこの時期は、冷え込んだ夜の空気がエクマ山地から西大海に吹きおろし、西大海で温められて発生した霧によって、山地と大海に挟まれたこの地一面に広がりやすくなっていた。
カリヤ湖の東に位置するエクマ山地によって、未だ姿を隠している光星だが、谷間から差し込む光が霧に照らされて乱反射し、辺り一面乳白色で染め上げられたようになり、人の手が届く範囲に映るものは全てぼんやりとした影がようやく見えるといった状態になってきた。
ロイス侯ファブリツはその光景に、言葉にすることの出来ない女神の意志のようなものを感じた気がした。
ロイス侯ファブリツは、マグノリア侯ルクセンティア、メラヴィア侯シューブリン同様、旧『ポートガス』王家に繋がる家系であり、古くをたどれば、『ロイス』王国王家の直系にあたる。しかし直系と言えど、ロイス王国自体の歴史は建国から国として形が失われるまでの歴史は三代と短い。その後『ポートガス』王国の一領主となった後も、中心地であったマグノリアから遠く離れた地にあったことから、格式とも権威とも縁遠い家柄であった。ロイス侯などと言っても民のまとめ役にもっともらしく髭を生やした程度。それがファブリツが思う彼の立ち位置だった。
そのような家系で育ったからか、彼は人の上に立つ者であるという感覚も権威に対する執着も薄く、この内乱においても『ポートガス』という枠組みの中でここまでずるずると引きずられてきたという感覚がある。
それを特に強く感じたのは、三人の選帝侯の間で行われたこの内乱計画の作戦会議の場においてだった。
「帝都は『ウツロ』が滅ぼす」
マグノリア侯がこぼしたその言葉は、もちろん額面通りの筈はなく、自分たちの利権のために、帝都の民を焼き滅ぼす、という意志だと感じた。
『ポートガス』の権威とはそこまでして取り戻すべきものなのか。
彼らにとって『メルギニア』とは今も他国なのだろうか。
おそらく他国なのであろう。
『ポートガス』が『メルギニア』に吸収されてから既に四十神期近くが経過しようとしているが、見方を変えれば、今なお『ポートガス』時代を知る者は存命であり、その文化も考え方も絶やされることなく根付いているのだ。
より『メルギニア』領に近い『ロイス』領は、『ロイス』王国の頃から『メルギニア』との交流も多かった。それほどの近さであっても『アストリア』の女神の盾たらんとする『メルギニア』とは考え方が異なっていた。
天地創世の時代、そして天地崩壊の時代、二度にわたり世界を、数々の生命を護ったとされる光の女神ラナ、そのラナが興したとされる国『アストリア』。その『アストリア』を守ることが、数多の生命を守ることになると信じていた『べトゥセクラ』。
『メルギニア』はその『べトゥセクラ』の意志を継ぐ国として興り、今もなおその志のもとで動いている。
女神は女神であり、人は人。女神が国や世界を守るのならば、天地崩壊はなぜ起きたのか。
人は自らの手で生きるべきだ、そう考えていたのが、後に『ポートガス』国となる『ポートガス』連邦の3国。すなわち『マグノリア』『メラヴィア』『ロイス』の三王国だった。だが、それは『メルギニア』とは共に歩めない、というだけであり、決して「敵」ではなかったはずだった。
それが『ポートガス』連邦がより人の欲に塗れた国、『ポートガス』王国となり、考えがより先鋭化し、結果的に『メルギニア』は敵となった。
『ロイス』国から見た『メルギニア』とはそういう存在だった。
最初から『メルギニア』の文化とも、国の在り方としても相容れなかったであろう『マグノリア』や『メラヴィア』と、ただ国の在り方が違ったという『ロイス』とは、そこが違うのだろう。
だがそれでも、ファブリツはルクセンティアにもシューブリンにも異を唱えることができないまま、ここまで来てしまった。
それは、消極的な肯定と同じことだった。
事がここに至ってしまえば突き進むしかない。
その引き返せない一歩が、この乳白色の結界の先に控えているのだ。
すなわちブラベ領への侵攻。
表向きは、神子が予言した『ウツロ』侵攻に対する首都防衛のため、と言っているが、そのようなたわ言は誰も信じていないだろう。
そして国から正式な要請もないまま領界線を越えるということは、国に対する反乱以外のなにものでもない。
この線を越えれば本当に引き返すことは出来ない。
辺り一面に広がる乳白色の霧が、引き留めるための女神の意志のように感じたくなるのは、彼自身の願望の表われであったかもしれない。
「侯。定刻です」
逡巡する彼の背を後押しするように声を掛ける者がいた。
ファブリツの娘マグダレナの夫で、マグノリア侯ルクセンティアの三男ノラン・ルクセンティアだった。
両家の繋がりを強くするためと言えば聞えは良いが、ルクセンティアの影響力を強めるために遣わされた使者のようなものだった。
――この霧はやはり女神の意志ではなかったか。
そうどこか諦めにも似た気持ちを抱く。
「…わかった」
ファブリツは進軍の指示を出そうと、軍の幹部が集まる天幕に足を運ぶために、自らの天幕を出ようとしたところで、黒い人影がこちらに駆け寄ってくる姿が見えた。
ファブリツの護衛が彼を護るために目の前に立ちふさがると、それよりも更に手前で人影は立ち止まると、その場に膝をつく。
「報告いたします」
「許可する」
「はっ。この先、イーリス河方面に多数の人影あり。この霧のため、明らかとは言えませんが、姿形から数万単位の人影が周りを囲むように広がっており、その数の多さからいずれかの軍と考えられます」
「軍だと。馬鹿な。こちらが使者を出したのは二つ陽前。一つ陽前の夕刻に使者が到着したとして、軍を編成し、この場に向かわせるなど不可能だ。この霧に恐れをなし、何かを見間違いたのではないか!?」
横で報告を聞いていたノランがファブリツの横で怒声を上げ、兵士は体をすくめる。
叫んだところでどうにかなるわけでもあるまい、という想いはあれど、ファブリツもノランの言葉の正しさは認めていた。
帝都メラノからこの地までは、軍の行軍速度なら早くとも四つ陽は必要となる。仮に、一つ陽前の夜半にブラベ領に先行して軍を出すように伝令を送ったとしても、軍の編成は今朝になってからだろう。そこからここまでは一つ陽程の距離。今、この地この時間に軍が存在するというのはあり得ないことだった。
「夏を前にエクマ山地に向かう牧羊の群れを見間違えた、ということはないのか」
前のめりなノランを手で制したファブリツは、一歩前に進み、兵士に声を掛けた。
冬は麓の村で過ごし、夏は高山に羊の群れを放牧するような生活をしている者たちがいるのであれば、そういうこともあり得るだろう。
ファブリツはそう考えて言葉にしてみたものの、おそらくそれは違うだろうという確信があった。
それはこの霧を女神の意志と思いたがっていた気持ちと同じであったかもしれない。
だが、彼にはなぜかそうした確信があった。
「多くの旗らしき影や、無数の棒のような影もありましたので、おそらく羊や牛を連れたものの群れではないと考えます」
「影に動きはないのだな」
「今のところは」
「良く報告してくれた。戻って、戦の準備に備えるよう周りに声を掛けるよう。追って各隊長より指示が来るだろう。ノラン!」
「はっ」
「本陣に急ぐぞ」
「かしこまりました」
相手の軍は南にカリヤ湖、東にイーリス河、北に西大海を背負う形で布陣しているだろう。それはこの戦において決して引くことは許されない、という指導者の強い意志の表われのように見えた。
そして、そうした兵の心理を巧みに追い込み、ただ一つの物事に集中させるやり方を取る指揮官を、ファブリツは一人、知っていた。
アンスイーゼン候カファティウス。
なぜ今そこにいるのかという疑問はあれど、おそらく彼が軍を率いているのだろう、ファブリツはそう確信していた。
△▼△▼△
「布陣、完了しました」
「ご苦労だった。各自指示あるまで待機」
「はっ」
伝令を下がらせると、カファティウスは霧の向こう側に映る数々の天幕の影に目を移す。
この時期、この辺りに霧が出ることは予測されたことではあったが、この時、都合よく霧が出たのは運に過ぎない。
自らが進軍時期を選択出来るのならば、そうしたことも計算に入れて計画をしただろうが、今回の戦は時間との戦いであり、そこまで贅沢を言う余力はなかった。
――これもまた女神の盾たらんとする『メルギニア』への加護なのだろうか。
女神の存在を疑うわけではなかったが、女神は世界の危機において、神子を通してのみ人の世には関与し、あとは自然に任せるのみ、そう思っていた。
人は自らの利権や感情によって平等になりきれない存在であるがゆえに、女神にはそれを超越した存在であってほしい、そういう願いが、カファティウスの深層にはあるのかもしれなかった。
旧『ポートガス』王家に連なる三選帝侯の反乱。
予測された事とは言え、想像以上の規模と策を以て事に当たっているようだった。
今回、カファティウスが先手を打てているのは、いくつかの偶然が彼を助けたに過ぎない。
本来は『ウツロ』の発生状況と神子の捜索の為に手配したガイウスの部隊が、こちらの期待を遥かに超える動きで情報を収集してくれたことで、早期に旧『ポートガス』領の動きを知ることが出来た。
選帝侯会議後に皇妹によってもたらさせた情報により、旧『ポートガス』には皇位継承権よりも強い「神子」という大義名分を手にしていたことを知った。
ケヴィイナ領デキウスが旧『ポートガス』勢力と繋がろうとしていた動きを事前に抑えられたのも、皇妹の情報をあの時期に手に入れられなければ手遅れになっていた可能性があっただろう。
おかげで、ケヴィイナ侯デキウスには二重の裏切りを行わせることで、マグノリア侯ルクセンティアの裏をかくことが出来るようになった。
それでも、ケヴィイナ侯は最後の最後で再度マグノリア侯につく恐れがあったが、それもまた皇妹の計らいで考慮に値しなくなった。
いや、これは皇妹メテオラだけが理由ではないだろう。
彼を引っ張り出したのは皇妹メテオラのお陰と言ってよかったが、その後の彼の動きまで皇妹は予測していたのかどうか。
「甘いだけでは国は治められない。この場面をどう制御するのか、お手並み拝見、というところだな」
おそらく、彼はカファティウスの期待に応えてくれるだろう。いや、その期待を越えてくることすら、自分は期待している節がある。
カファティウスは思わず笑みをこぼすと、エクマ山地の裾野に視線を移した。
吹き下ろす風は、この乳白色の霧を晴らすか、血の色に変えるか。
カファティウスは最早一観客の気持ちで、その時を待つのだった。




