第三十三話 ガイ V.S. フアン
光星が地平の底に眠りについた頃、沼のように昏く黒く濁った空を無数の神の子が輝き彩りを与えていた。
夜空の表面に薄く広がった灰色の膜は、闇の女神クラウメの纏う外套であり、夜空の向こう側、無数の大神の子らの光が、この地を見つけられないようにするためとも伝えられる。
昼の青く輝く空には、同じように薄く広がる白い膜があり、こちらは光の女神ラナの外套と言われている。
光星が眠りにつき、闇星が目覚めるまでの僅かな時の狭間には、女神の力が弱まり、外套もまた失われる瞬間が訪れるのだが、その僅かな間隙を守るのが火の女神アマジウ。僅かな時間で空を赤く染め上げ、自らの外套の内に包み込むと言う。
対して夜明けは土の女神グランマと水の女神レアラが。
暗がりを薄い水色の膜で覆いながら、追随するように砂の膜を広げていく。光星の光が突然空に広がる事で、大地の子どもたちが驚かないよう、少しずつ光星の光が届くように、水と砂の膜で覆うのだと言う。
最後の一人、風の女神は、常に世界に揺蕩っている。
透き通るような外套のため、神の光は遮れないが、代わりに神の恩寵を、広く遍く伝えてくれる。それが風の女神だという。
夜空に輝く無数の神の子の光はその一つ一つに同じように命が宿り、同じように暮らしている、とそう伝えられていた。
互いの世界は触れ合うことのない世界。
もしも触れ合うことがあれば、互いに世界を呑み込み合う。
神の恩寵の現象と共に現れる『ウツロ』も、もしかすると女神の護り、外套の膜を通り抜けたどり着いた他の神の子どもではないか、そんな語りも存在する。
そうだとしても、手を取り合えないのなら討つしかない。
夜空の輝きを眺めながら、フアンは先ほど倒した『ウツロ』のことを考えていた。
遭遇した時には考えないようにしていたが、思い返すほど、『ウツロ』というものが分からなかった。
『ウツロ』がただの黒い靄の塊であったり、それが何かの形を取るにしても、自分の知らない何かであったり、獣のような形をしていれば良かった。
だが、はっきりと断言は出来ないにしても、どこか自分たちと同じ人を思わせる造形と動きに見えてしまう瞬間があった。
だからこそ、『ウツロ』が他の神の加護を受けたこの空の果てからやってきた人である、そんな馬鹿げた話を思い出してしまう。
思い出したところでどうにもなりはしない。
『ウツロ』は自分たちの命を喰らう。
意思の疎通は図れない。
ならば討つしかなかった。
「目が覚めたのか。どうだ、身体の調子は」
フアンが夜空を睨みつけるように見つめていると、背後から声を掛けられた。
男性特有の低音を含みながら、どこかよく通る少し高い音域の声。食事時に朗らかに話すときには低音が薄れ、威圧を感じるときには隠れていた低音が高い音域を上下から挟み込むようになり、身体の中から響き渡るような音に変わる。
その音自体に魔術が含まれているのではないかと疑いたくなるような男。
浅黒い肌と黒い短髪の男の名はガイと言った。
「もう……大丈夫です」
視線を落とし、声の主の方を振り向く。
それと同時にフアンの中で心の在り方を切り替えた。
「随分、警戒されているようだな」
「元来、人見知りなんです。敵視するぐらいでないと、話せないので」
ガイは少し目を見開き、フアンを見つめる。
そして心の中で「なるほど」と頷いた。
一応筋は通っている、と。
目立たないように存在を隠すためではなく、ただ他人と話すことが苦手だから気配を消そうとする。自分の仲間に代わりに話をしてもらう。
ガイの部下にもそういう性格のものを見たことはある。
命令すればやる。返事もする。だが、それ以外の会話となると、途端に会話にならない。
やる気がないわけでも、コミュニケーションを拒否するわけでもない。ただ、苦手なのだと。
ガイにはその心境の全てを理解することは出来なかったが、事実としてそういう人間が存在するということは知っている。
この目の前の少年がそうだとは思っていなかったが。
そうやって彼らを見ればこれまで「稚拙」だと思っていた行動も仕方ないと思えた。そもそも密偵ではないのだ。稚拙なのも当たり前だった。
だが、それでも腑に落ちない部分はある。
「君たちは『アストリア』の人間なのか?」
今度はフアンが目を見開く番だった。
これまでのガイの言動は相手が自然と語りだすよう促す発言が多かった。その目的は、彼自身のことを語ることなく、相手に自ら語らせるようにするためではないか、とフアンは考えていた。それがここにきて随分直接的な質問だ。
最早隠す必要もないってことだろうか。
「ガイさんは『メルギニア』の人間ですよね」
「ははっ」
ガイは額に手を当てると短く笑った。
こういうところは一般人とは到底思えないとガイは思う。既に「剣は抜いた」。この剣を突き出すか、地に突き刺すか、それとも、万に一つもないだろうが、その剣を差し出すか。
この少年はどう切り返すのか。
「仮にそうだとしたらどうする?」
「ありがたいのが半分、困るのが半分、でしょうか」
「ありがたい?」
「ここで『ウツロ』と遭遇するのは想定外でしたが、あれを一緒に見たからには僕としては手の内を曝したい。そしてその相手は『メルギニア』の「ギルドの人間」より、『メルギニア』の「国の人間」の方が助かる、と思っています」
「理由を聞いても?」
「国として対策を取っていただけるからです」
なるほど、とガイは口の中で呟いた。
ガイは、フアンが『アストリア』の人間である可能性と『アストリア』の傭兵ギルドの人間である可能性を考えていたが、今の言葉を聞いて、彼は『アストリア』の傭兵ギルドの人間の可能性が出てきた。
国の人間が他国の傭兵ギルドに表向き依頼をかけることは出来ない。にも関わらず、彼はもともとは『メルギニア』の傭兵ギルドに協力依頼に来たような話し方をしていて、国への橋渡しは期待してなかった。
もし彼が『アストリア』の「国の人間」で、この件についての協力を依頼したいなら、堂々と正面から来ればいい。このような回りくどいやり方にはあまり意味がない。
だが彼が『アストリア』の「傭兵ギルドの人間」となった場合、『アストリア』の傭兵ギルドには、「赤い牙」のアルの他にも魔術協会の外で活動できる魔術士がいるということになる。
そこで引っかかるのが「半分困る」という言葉だ。
彼が『アストリア』の「国の人間」の可能性を捨てきれないのもこの言葉のせいだった。こんなところで『メルギニア』の「国の人間」と出会うような状況では困るとも捉えられる。
そこまで『メルギニア』そのものに影響を与えるような人物にも見えないが、先入観は目を曇らせる。
ガイの目をじっと見つめるフアンを見て、彼は今、自分をどういう気持ちで見ているのかと考えた。
ガイが真正面に剣を構えるのに対し、フアンは身体を半身にして待ち構える。そうしてガイが剣を突き出せば、フアンは身体をずらして手にした小剣でこちらのわき腹を突き刺す。
剣の突き出す速度がフアンの避ける速度を超えれば、フアンは死ぬ。
フアンが小剣を突き出すより早く、ガイが剣を薙げば、やはりフアンは死ぬ。
ガイが小剣を突き刺されたとして、それを筋肉で止め剣を薙いでもやはり死ぬ。
あくまでこれはたとえ話だが、今この状況はそれぐらいの状態だというのがガイの見立てだ。
それを理解してフアンはガイを睨みつけているのだろうか。
「困る方は?」
ガイの立ち位置を更に半歩、すり足で近づくような感覚でフアンに切り込む。
フアンの急所をガイの言葉の刃が狙っている、そのことにフアンは気づいているのだろうか。
気付いているだろう。
いや、気づいていてほしい。
その方が……面白い。
「それでは僕ばかり話し過ぎるというものです」
近づいた分だけフアンが下がったかのような反応。
容易にその刃が届くとは思わないことだ、とでも言われているかのような。
「それで?ガイさんは『メルギニア』の人間ですか?少なくとも、正規な傭兵ギルドの人間ではないことは知っています」
ガイは口の端が持ち上がるのを抑えきれなかった。
どうやらこの少年、手にしていたのは小剣ではないらしい。侮りすぎたと反省する。
「『メルギニア』傭兵ギルドの人間だよ。調べてもらってもいい」
嘘ではなかった。ガイは今現在は『メルギニア』傭兵ギルドの人間だ。だが、少年の先の言葉がはったりでなければ、容易に覆されるだろう。それは分かっていた。
「『メルギニア』の傭兵ギルドに魔術士はいません。『メルギニア』の魔術士は全て、国の管轄下に置かれた魔術協会に所属しています。未登録でない限り」
「俺は魔術士ではないが」
「アギィさんは魔術士です。そのアギィさんが隊長と呼ぶ」
僅かにガイの剣先から位置をずらしながら、今度はフアンが距離を詰めてくる。いや、もしかしたら彼にその気はないのかもしれない。彼の言葉が本当なら、彼の求めているものは、言葉の刃による一騎打ちのようなやりとりではないだろう。
だが、今少し遊んでいたいという気持ちもある。
「そうだな」
「では、もう一つ。傭兵ギルドのギルド長が、その依頼内容を把握することも許されない相手と直接会話出来る。そんな人が一介の傭兵ギルド員であるはずがない」
「つまり、君はギルド長と会話出来る立場にあるか、それに近い人物と会話出来る立場ということか」
ガイの切り返しにフアンは苦笑した。
油断ならない人だと思う。
素直に会話させてくれればいいのに、それを許してもらえる雰囲気ではない。
もしもフアンの推測が当たっているのなら、ガイがフアンにこのような態度を取るのも理解出来るというものだ。
彼らの前でフアンが魔術士である証を見せてしまったからには『アストリア』からの密偵ぐらいには思われていても仕方ないと思った。
そして、それを否定するには、メラノの傭兵ギルドに向かうか、アストリア王都の傭兵ギルドに向かうかのいずれかしか手段がなかった。
先ほど「アギィは魔術士である。だからガイ達一行は『メルギニア』帝国軍所属である」という論法を使ったが、これはそのままフアンにも返ってくることなのだ。
少しだけ異なる点があるとするなら、『アストリア』には「赤い牙」のアルという有名な例外が存在していることだ。だから内情を知らなければ、二人目の例外がいることを否定することも出来ないという点だけが、今フアンが平然とした振りでこの場にいられる理由だった。
フアンが未登録の魔術士だと気付かれれば、フアンは即魔術協会に連行される立場なのだ。そういう点では、エレノアと同じく、正体に気付かれれば非常に危うい立ち位置にいる、というのがフアンだった。
「「赤い牙」のアルさんばかりが特例ではないってことです。戦闘能力って意味であの人と比べられたら困りますけど」
『アストリア』傭兵ギルドにおいて、現状フアンとレツが与えられている立場は国を跨っての傭兵ギルドの橋渡し役である。アルに認められている特別とは全く異なる特別ではあるが、嘘は言っていなかった。
だが、嘘では無くてもあまり大きく出るわけにもいかなかった。
今のフアンが困るのは、フアンが『アストリア』からの密偵として疑われ、『メルギニア』に拘束されること、そしてフアンたち一行の素性が明らかにされることだ。
素性が明らかになれば、フアンだけではなく、エレノアとフェリにも問題が波及する。
そのため、フアンは、ガイに自分が『アストリア』の国の人間ではなく、傭兵ギルドの人間であり、『メルギニア』には、『ウツロ』に関する情報の共有と注意喚起、協力体制の構築を目的に訪れたことを信じてもらう必要があった。
素直に話せれば良かったが、ガイとはメラノ以外でも顔を合わせている上に、たった今、魔術を使う様子を見られている。『メルギニア』の傭兵ギルドとの関係構築をするだけの目的にしては、余計なものを見られすぎた、というところだった。
『ウツロ』の襲撃さえなければ、とフアンは思う一方で、これは機会でもあると考えた。フアンがガイに言ったことでもあるが、ガイがもし『メルギニア』帝国軍の人間であるなら、今回『ウツロ』の脅威を目の当たりにしたことで、共に『ウツロ』に当たる為の関係を構築出来る可能性が出てきた。
欲張ってはいけないとは思うが、これをきっかけに内戦も回避出来ればいい、そんな期待もあった。
国外に共通の強大な敵がいる時、国内はこれに当たるためにまとまるものだからだ。
「ガイさんが『メルギニア』の軍関係者として話します。
これは『アストリア』の傭兵ギルドからの正式な依頼と取っていただいて構いません。
天地崩壊をもたらすと言われる『ウツロ』を止めるために協力いただけないでしょうか」




