第二十五話 マナ暴走
詳しい話を聞こうとフアンが男性に近寄ろうと歩を進めたとき、すぐ脇でざわめきが起こった。
フアンがそちらに視線を移すと、エレノアの前で一人の女性がお腹を押さえてうずくまっている様子が見て取れた。
心配したエレノアがうめく女性の肩に伸ばそうしたその手を、いつの間にそこに居たのか、フェリが押さえ込む。
驚いたエレノアがフェリを見ると、普段は薄い茶色をしているフェリの瞳がどこかで光を落としてきたかのように灰がかった色に見えた。いつもとどこか違う様子に手首を握られた痛みも忘れ、呆然とフェリを見つめる。
「フェ……アン?」
その呼び掛けにフェリは応えることなく、代わりにエレノアを自分に引き寄せようとしたと同時に、うめいていた女性から黒い靄が噴き出した。
「そんなっ!」
女性の身体から出た靄は、風を受けて燃え上がる炎のように人を超える高さまで噴き上がると、女性を包み込みながら激しく揺らめく。
エレノアは『ゲラルーシ』山脈でフアンに行ったように女性にマナを当てて黒い靄を払おうとするが、その手をフェリが掴んで放さない。振り払おうとしても、まるで彫刻にその手を掴まれたかのように微動だにしなかった。
「放して!」
しかしフェリはエレノアの叫びに応えることなく、エレノアの向こう側に見えるうずくまる女性の方を睨むように見つめ続ける。
黒い靄の揺らめきが僅かに止まり、収束しようとするのを目にしたフェリは、その女性に向けて一歩を踏み出そうとしたが、それよりも早く彼女に駆け寄る影があった。
「フアン?」
フアンはうずくまる女性の横にしゃがみこむと、手のひらを彼女の腹部に当てる。
次の瞬間、黒い靄が一瞬膨れ上がったように見え、だが瞬きするほどの間で、次は霧散したかのように薄まると、最後には彼女の腹部に収束するような動きをして姿を消した。
エレノアは一連の動きについていけず、ただ呆然と女性とフアンを見つめる。
「……今のは?」
「少なくとも、『ウツロ』じゃないよ。大丈夫。シン、悪いけど、女性のこと診てもらえないかな。彼女とお腹の中の赤ちゃんとを」
「……え?」
「レツ、ごめん。ちょっと……任せた」
フアンはそれだけ言うと、覚束ない足取りで傍にあった木の根本まで歩いて崩れるように座り込み、そのまま目を閉じてしまった。
「え?フアン?」
「シン、先に女性を。多分、フアンは大丈夫ですから」
狼狽えるエレノアに、今度はフェリが声を掛ける。
そこでエレノアは、いつの間にかフェリに掴まれていた手首が放されていたことにも気付いた。
瞳の色もいつも通りの薄い茶色に戻っていて、色が失われたように見えたのは、光の加減でそう見えただけかもしれない、そう思った。
エレノアとしては気になることがいくつもあったが、フアンが大丈夫であるならば女性の体調を確認するのが先かと、思考を切り替えて女性に歩み寄る。
うめき声を上げていた女性は未だ息が荒かったが、意識はある状態で、かろうじて自分の身体を支えている、そんな風に見えた。
彼女の状態を落ち着かせるために、エレノアは女性の背中からそっと手を触れ、エーテルの流れを整えるよう力を加えていく。
触れれば、確かに彼女のもつエーテルの流れとは別の、もう一つのエーテルの流れに気付く。彼女の中に宿るもう一つの命。先ほどフアンが「赤ちゃん」と言っていたのはこのことだったと分かる。
結局、『ウツロ』のようにも見えたあの靄がなんだったのかは分からなかったが、女性も、女性の中に宿る新たな命も無事であった。そのことだけは「良かった」、と素直に思うことが出来た。
「はいはいっ、こっちは治癒術士のシン様が診てくれてるから大丈夫だよ。見てる限り心配なさそうだし、並ぶ人は並ぶ、仕事戻る人は仕事戻る!集まらないよ」
そんな彼女たちの周りに出来かけていた人だかりを、レツが大声と大きな手振りで散らしていく。フアンの事が心配だろうに、そんな様子を微塵も見せず、ただ「任せた」とだけ言われてすぐに行動を移せる。そんなレツの姿が、エレノアには不思議に思え、だからこそ、フアンはレツを信じていられるのだろうな、そう思った。
エレノアは周りの村人に、女性を家まで運び横たわらせて安静にするようお願いをすると、光星が天頂を越えて傾き始めた頃まで「お勤め」を続けた。
そのうちにフアンも目を覚ましたようで、先ほどの騒ぎで聞き損ねた行方不明者の噂について、男性に聞き込みしている姿が見て取れた。先程倒れたとは思えない、ごく普通の様子に、エレノアは安堵する。
一連の「お勤め」を終えて、人々からの感謝の言葉を受けながら村を後にすると、エレノアはようやくずっと気になっていたことを口にした。
「あの妊婦さんから出た黒い靄、フアンは『ウツロ』じゃないって言っていたけど、なんだったの?」
「ん?あぁ、あれはマナの暴走だよ」
「マナの暴走って……」
それ自体はエレノアも知っている。
マナを扱う素養の持つ者が、マナの扱いに失敗した結果、マナによって周囲の現象が異常を起こす状態だ。
本来のマナは、無から有を生じる事はない。けれど、マナが暴走した時には、そのありえない状態が起こることもある。
何もない場所から炎が出たり、突然皮膚が割けるような何かが起きたり、だ。
その時エレノアの脳裏に、昔訪れた村で起きたマナの暴走による事故の記憶が蘇る。
燃えあがる少年の手、その手を押えているフェリの腕が吹き飛んで……。
「エレノア様」
エレノアの様子に気付いたフェリが、エレノアの手を握った。
エレノアはその感触にふっと意識が引き戻されると、自分の手を握る先にいるフェリを見つめた。
普段からあまり表情を出さないフェリだが、瞳の揺れを見ると彼女が自分を心配してくれている事が伝わってくる。
思い返してみると、初めて出会った頃から比べれば随分と感情が分かるようになってきたと思う。
フェリを知らない人からすれば無感動に見える表情も、よく見れば、頬や口の端の緩み、目尻のわずかな動きに感情が表れているのだ。
「ん、大丈夫。ごめん」
フェリは今こうして側にいてくれる。それ以上に何を求める必要があるというのか。
過去を思い出して勝手に不安になるなんて自分らしくない、とエレノアは思った。
「エレノア様はご存じないかもしれませんが、私は聞いたことがあります。魔術士の素養を持つ者の中に、胎児の頃にその素養を覚醒してしまうものがいるという話を」
そんなエレノアの心の動きを知ってか知らずか、フェリはエレノアをじっと見つめたまま、そう語った。
「実際に見るのは初めてですので、あの事象が本当にそれだったのかは分かりません。
フアン様はなぜそうだと思われたのですか?」
「僕も見たのは初めてだけどね……。どんなものかは親から聞いてたから」
フアンはフェリからの視線を避けるように顔を背ける。
フェリと目が合わせることが出来なかったわけではない。
ただ誰かの目を見て話したくなかった。
もう両親を失ってから時間が経っているというのに、未だ完全に吹っ切れていない自分の弱さが嫌になる、そう思った。
「フアンのお父さんも治癒術士、なのよね?」
シアン・レイナー。アストリアの治癒術士。
まだフアンがギルドの調査員になるより以前、ベアド村で暮らしていた頃にフアンが『ウツロ』に襲われた事件の後、行方知れずになったままだと、エレノアは記憶している。
長年治癒術士をやっていれば、「お勤め」の中でそういった事案に関わることもあるのかもしれない、エレノアはそう思った。
「そう、治癒術士。でも「お勤め」とは関係ないよ」
「え?」
「僕が母さんのお腹の中にいた頃に、マナ暴走を起こしたところを間近で見てるんだ」
意外ではあったが、納得も出来る答えだった。
フアンは魔術協会に所属していないとはいえマナを扱えるのだ。生まれる前にマナの暴走を起こした事があると言われれば、そういうこともあるのかもしれない、そう思った。
だが、そうやって思ってみれば、なぜフアンが魔術協会に所属することもないまま今までいられたのか。エレノアはこれまでその理由を聞いたことがなかったことに思い当たった。
「じゃぁ、フアンは生まれた時からマナが使えたのに協会には所属していなかったってこと?
よく気付かれずに……」
「誰だってそう思うよね?」
フアンが少し顔を上げると、苦笑いを浮かべた。
「こいつ、マナが使えなかったんだよ。あの事件の日まで」
レツがフアンの肩に手を掛ける。
「だから村の誰もこいつが魔術士だってことを知らない。知ってるのは、フアン自身を除けば俺だけだよ」
「でもマナの暴走を……」
「僕もなぜかなんて分からない。生まれる前にマナの暴走を起こしたという話も昔一度だけ聞いた話で、それがどういうものか、なぜ母さんと僕が無事だったのか、そうした話を聞くことは出来なかったから。
だから『ウツロ』に襲われた後、突然マナを感じられるようになった理由だって分からないままだ」
フアンは胸の前に手のひらを掲げると、手のひらの上で風を回転させる。周囲を舞う小さな葉屑を巻き込んで小さな玉のような形を描く。
フアンはしばらくそれを見つめたかと思うと、手のひらを握り、風を霧散させた。
「今日のことも、もしかしたらと思っただけ。あの黒い靄からマナの塊のような流れを感じたから。同じマナなら抑えられるんじゃないか、そう思っただけだよ」
「じゃぁ、大丈夫って分かってあの靄に触れたわけじゃないってこと?」
「少なくともエーテルを奪われる何かではない、という確信はあったよ」
エレノアが大きく息を吐く。直前のフェリの不可解な行動もあり、フアンの行動には何か理由があったかと思っていたのに、ただの直感だというのだ。
『ゲラルーシ』山脈では黒い靄『ウツロ』のために一度命を落としかけているのに、なぜあの靄に無造作に向かえるのか、エレノアには理解できなかった。
自分ならきっと、自分なら……。
「エレノア様も同じことをしようとしていましたから、フアン様の行動を咎めることは出来ないと思います」
まるでエレノアの心を読むかのようにフェリが告げる。
その点については、エレノアは何も言い返せなかった。だが、それで思い出したこともある。
「それは、確かに強く否定できないかもしれないけど。それよりも、フェリ。あの時どうして私を止めたの?なんだか様子も変だったし」
「何をでしょうか」
「何をって……、私があの黒い靄を払おうとして近づこうとしたら、フェリが私を止めたんじゃない」
エレノアは自分の手首を見つめる。そこに何かが残っているわけではないが、あの時フェリに握りしめられた感触は、今もまだ少し残っていた。
フェリが見た目ほどか弱くないことは知っている。だがそれでも、自分が手を振りほどこうとして微動だにしないというほど強いとも思えなかった。
しかしエレノアの疑念に対してフェリは首を傾げる。
「そうでしたでしょうか」
フェリが自分を見つめる視線に、エレノアはなぜか寒気を覚えた。
何かが変わったわけではない。
柔らかな薄茶色の瞳の色も、無感情のようでいてどこか優しさを感じる声音も。
だがなぜかその瞳の奥に光を失ったような灰色を、その声色の裏に無機質な音を感じたのだ。
「フェリも無意識の内にエレノアを守ろうと動いていたのかもな。エレノアが危険を顧みずに誰かを救いたいと思うように。普段は馬鹿みたいに考えるフアンが、咄嗟の時には考えるより先に身体が動いていることがあるように、さ」
レツが笑って、フアンの肩を叩く。
普段は考えて考えて動くはずのフアンが、結果の見えない行動をすることは意外だとエレノアは思った。だが、レツのように言われてしまえば、そういうものなのかもしれない、と思えてしまう。
「エレノアも気を付けたほうがいいぜ。こいつ、考えるバカだから」
「なにそれ」
「まぁ、付き合ってれば分かるよ」
そう言って、レツがくしゃくしゃとフアンの髪の毛を撫でるのをフアンは一生懸命手を払いのけて止めさせようとして、そのうち逃げるフアンをレツがで追うというじゃれ合いを始めた。
エレノア自身が考えるより先に行動してしまうことがあるように、フアンにもそういった一面がある。だったらフェリにもそういった一面があってもおかしくないのかもしれない。
「覚えていませんが、エレノア様が後先考えずに誰かを救おうとしてしまうことを、止められるものなら止めたいと思っているのは事実です。そもそも私たちがこうしてここにいることになったのも、エレノア様の行動が原因と言えば原因ですから」
「そういえば、フェリ達が『アストリア』から逃げ出した理由とか、聞いたことないよな」
「口が滑りました」
「わざとよね、フェリ。今の、わざとよね」
無表情のまま、手のひらを口に当てたフェリを見て、実はその口の端が少し上がっているのをエレノアは見逃さなかった。
いつの間にか、先ほど感じた寒気はどこかに消えてしまっていた。




