第二十二話 皇弟
2023/1/5 8:48
時間経過について1神期(1年)としていた箇所を
3神節(9ヶ月)に修正しました。
カファティウスの全てを取り込むような黒い瞳が、皇妹の透き通った青の瞳を捕らえるように見つめている。皇妹はその視線をしばらくの間、真正面から受け止めていたかと思うと、突然両手を頬に当てて視線を逸した。
「あまり見つめられると恥ずかしいわ」
「それは失礼を」
――心にもないことを
だが、カファティウスはそれを言葉には出すことはなく、執務卓に添えた手を放すと、そこから一歩下がり、皇妹に一礼した。礼を終えると、今度は彼女と視線を合わせずに済むように目を伏せる。
「神子」
カファティウスの黒髪と、彼の身体を覆う金の縁取りに白地の上着の色彩の対比を値踏みするように、頭の上から爪先まで眺めると、皇妹はカファティウスが垂れた頭の天頂部に突き刺すつもりで呟いた。そして、沈黙する。
カファティウスの一挙一動を見逃さぬようと彼女の目前で頭を垂れるカファティウスの反応を眺めて楽しむかのように。
「……天地崩壊の折、神の力を揮い、崩壊から世界を救ったという女性だと理解しておりますが」
「そんな歴史書に載っているだけの言葉を期待しているだけではないのだけど」
「残念ながら、私は未だその存在を捉えられておりません」
再び天地崩壊が起きた時、神子はまた人々の前に現れる。教会の見解ではそのようになっている。伝承に語られた天地崩壊はただの一度だけ。にも関わらず、次にも神子が現れるとなぜ分かるのか。
その程度の信憑性しかない情報だ。
伝承として語られているものが一度だけと見えるだけで、過去にも繰り返し起きていた事象であり、それをまとめて一度として語っている可能性もないではない。
だからこそ、神子が必ず現れる、という伝承も最初から「嘘」と決めつけることは出来なかった。
天地崩壊と『ウツロ』の関係性とて、伝承にある情報が全てなのだ。そして、今、伝承に語られた通りの事が起き始めている。ならば、神子もまた、現れたとしてもおかしくはなかった。
その神子の話をわざわざ皇妹が持ち出してきている。とすれば、考えられることはそう多くはない。
「皇妹はご存じなのですか?」
「私は知らないわ」
「……では、どなたが?」
視線を合わせないまま、彼女の表情を見ると、彼女の口の端の動きから笑みを浮かべていることが分かる。彼女は知らない。彼女自身の知識として確かなものとするほどの情報ではない、ということだ。だが、確かなものでないなら……
「弟の所にいたそうよ」
「皇弟の……」
存在の確認だけでなく、確保までが後手に回ったか、と両手に力が入る。だが、そこで思い返す。皇妹はなんと言ったのか。「いた」と、言わなかったか。
「姿を消したのですか?」
それほどの重要人物を皇弟が手放すとカファティウスには思えなかった。
彼がもし本当に現皇帝を追い落とすことを考えているとするなら。
現皇帝シリウス・クラウディウスの即位は、誰もが認める即位であるとは言い難いものであった。
彼の即位は突然であり、また、外部から見れば不自然と捉えられても仕方のないことが多かった。
戦時中の突然の前皇帝の病没。
偶然従軍している、戦には向かない性格の皇太子。
正式な手続きを踏まないままに、事後承認を前提とした即位。
これらのすべてが謀略ではなく、ただ必要にかられてのことであった事を知るものは少ない。
敢えて言うなら、あの戦場に居た者達が、そう振る舞うしかないように場を整えたカファティウスだけが、あれは偶然の産物だと語れる唯一のものであったかもしれない。
だが、彼とて自らの立場を利用して都合よくあの舞台を演出したのではないのか、と疑われる一人だ。
彼がなんと言ったところで、誰もそれを真実だと信じることはないだろう。
そして、この事実を最も信じたくないであろう一人が、皇弟の母、第二妃メイサ・ルクセンティアだった。
幼いころから父親とまともに顔を合わせることもなく、母親こそが世界の全てであった皇弟は、その影響を強く受けていると思われる。
カファティウスは、皇弟と直接言葉を交わす機会はほとんど持たず、特に現皇帝即位後は一度も顔を合わせていない。
それゆえに、現在の皇弟が何を考えているかは、あくまで他人が語る彼の像に過ぎない。
だが、その数少ない記憶と、他者からの情報のいずれからも、彼の優秀さと、現皇帝への嫌悪感が窺い知れる。
もしも皇弟が、誰もが認めるほどの優秀さであるか、誰もが認められないほどの愚鈍さであれば、このような悩みは持たなかったであろう。
話に聞く皇弟は、現皇帝と比較すれば確かに優秀であり、だが、即位した現皇帝を排除すべきという声を誰もが持つほどの優秀さは持っていなかった。
そのまま現皇帝が即位に至るまでの状況に思いを馳せそうになり、カファティウスは思考を切り替える。今、その過去の記憶は重要なことではなかった。
「神子が自らの意思で去ったのであれば、唯人である我らに止める術はないのかもしれませんが、それにしてもなぜ」
もし皇弟が手放すことを望んでいなかったとすれば、神子が自ら姿を消したことになる。神子の持つ神の力、「神力」。その力がどのようなものであるのかについては、伝承にも語られていない。ただ、その力を以て人を率い、天地崩壊を防いだ、それだけだ。
そうであるなら、人には理解の出来ない力で皇弟の元から去ったとしても不思議ではなかった。その理由までは推測出来ないが。
「そこまでは私も聞いていません。ただ、神子は言ったそうです。
まもなく、虚無の時が訪れる。大量の『ウツロ』が神の恩寵を取り戻すためにこの世に姿を現し、そして世界は底に沈むだろう、と」
「神子が……」
カファティウスが『ウツロ』出現の報告をサビヌスから受けてからおよそ三神節が経過した。その間も様々な伝手を使い、継続して情報を収集してきた。
サビヌスを通し、国境砦での任期を終えて戻ったガイウスとその部下達に『ウツロ』の出現場所に関して調査を命じたのもその一つだ。
だが、『アストリア』から来た商隊が遭遇したと思われる事案を最後に、『ウツロ』の目撃情報は止まっていた。
『ウツロ』が現れなくなったとカファティウスは考えていない。数は少ないが、依然、原因不明の行方不明者は発生していたからだ。
それは特に北の『キシリア』との国境付近、2国いずれの国のものとも明確に線引きが出来ていない三角地帯の近辺で発生していた。
そこは『アストリア』の国境砦からもそれほど距離のない場所であったため、国境砦付近に現れた『ウツロ』が、意図的に国境砦付近を避け、別の危険の少ない場所で活動をしている、とも考えることが出来た。
『ウツロ』がそこまで危険感知能力が高いか、知識が高い獣であるなら、厄介な話である。
その三角地帯は現在は中立地帯となっており、二国いずれの軍も、正式には軍隊を駐留させていない。非公式なものはそれなりにいるとは考えられるが、少なくとも公にはそのようになっている。
それゆえにあまり目立った行動を取ることの出来ない場所であり、大々的に『ウツロ』を調査するということも不可能な場所であった。
だが、言い換えれば、その区域以外での目撃はなく、大きな動きも見られない、というのが現在の状況であった。
それゆえに、神子が告げたという言葉は、カファティウスにとっては意外であった。
「『ウツロ』はどこから現れるのか、といった話は」
「それだけ、ということよ」
「なるほど」
神子の言葉は意外ではあったが、納得のいくこともあった。
各領地が、治安悪化を理由に臨時徴兵を行っている、という話であったが、その理由は治安悪化ではなく、神子のこの話がきっかけなのだ。
先程のサビヌスの報告は概要のみであったが、詳細を聞けば、おそらく臨時徴兵を行った領地は皇弟派の領地のみであるということが分かっただろう。
彼らとしても、何かが起きた時、ある程度の大義名分を持っていたというわけだ。
だが、その大義名分を公にすることは叶わなくなった。神子が姿を消したからだ。
選帝侯会議で『ウツロ』の話が出ても動揺が少ないわけだ。事前に知り、対策を打っていたつもりなのだから。
ただ、おそらくその兵は別の用途も持っていただろう。
そこまで思考を巡らせて、ふと思い出す。
「皇妹は先ほど、選帝侯会議の内容をご存じのようでしたね」
「さぁ」
「今更誤魔化されても仕方ないとは思いますが。まぁ、それは結構です。
先ほど、選帝侯会議における私の提案に対して「珍しく失策だった」と仰った。
それに対して私は問題ない、と言った。その点については現在もそう思っております。
ですが、そうである場合、腑に落ちないことがあったのです」
「何かしら」
皇妹は自分の脇にある椅子の背もたれに対して指を這わせる。
明らかにカファティウスの反応を楽しんでいた。
「皇妹は、神子の話をご存じでした。つまり兵の臨時徴兵の理由が『ウツロ』にあったことをご存じだった」
「そうね」
「選帝侯会議にて、私も『ウツロ』の存在を公にいたしました。本来皇弟派からすれば、この時に神子の存在とその言葉を明らかにし、臨時徴兵の正当性を訴えたかったことでしょう。
そこで集めた兵を何に使うのか、と言えば、当然『ウツロ』を討伐するためだ。実際の『ウツロ』には何の役にも立たない兵かもしれないが、『ウツロ』の生態が明らかではない以上、彼らが兵を集めることを止めることは出来ないはずだった。
しかし、彼らは神子を失ったことで、事前に『ウツロ』が現れることを知っていたことを理由にすることが出来なくなった。
その結果、今回の私の提案により、彼らは集めていた兵を解散せざるを得なくなったはずです」
「えぇ」
「皇妹が私に対して「失策だったかもしれない」と仰ったとき、私の提案内容まではご存じないと思い、「問題ない」と返しました。
ですが、皇妹が皇弟の元にいた神子の存在も知った上でこちらにいらっしゃったとするのなら、「失策」とは、やはり『ウツロ』を選定侯会議の議題として取り上げたことではないでしょうか?」
皇妹はにこりと笑みを浮かべると執務卓の上に腰を下ろして、カファティウスに顔を近づける。
「なぜ、そう思うの?」
「私の言葉は、神子の言葉にあった、「まもなく、虚無の時が訪れる」という言葉を、公の場で認めることになってしまったのではないかと」
皇弟派にとっては神子の言葉が事実かどうかは、そこまで重要ではない話なのだろう。
それよりも『ウツロ』の存在が公になった。
神子は『ウツロ』が現れ、天地崩壊が起こる、と言葉を残した。
この2つがあれば、彼らには十分に違いない。
あとの歴史は、自らが作ればよいのだ。
「神子の言葉を知らなかったあなたに対して、「失策」と言うのは少し酷かもしれないわね」
「いえ、むしろ、そう告げることで私が気づくかどうかを試しましたね」
「ふふっ。私がそこまで意地が悪いと思う?」
皇妹は楽しそうに笑うと、カファティウスの鼻先を指先で軽く押す。そして軽やかに執務卓から滑り降りた。
「帰ります」
「……ありがとうございます」
「楽しかったわ」
カファティウスが深く礼をしたその横を通り過ぎると、皇妹はそのまま執務室を後にしようとして、「そうそう」、と言い、扉の前で振り返る。
「私、対等に話ができるお友達が少ないのよ」
彼女は笑うと、今度こそ執務室を後にした。
カファティウスが頭を下げそれを見送ると、彼女が通り過ぎた後に残されたのか、ふわりと百合の匂いが鼻孔をくすぐった。




