第十話 討伐訓練
【虚空の底の子どもたち】
第二章 『冥き星は望む』
空に輝く闇星の光も、数多の木々が延ばす枝葉のカーテンに遮られては、大地まで届くことはなく、風の妖精が振りまく鱗粉の微かな灯だけが森の中を照らしている。
異界の獣『ウツロ』の捕縛を目的に結成された望星隊の隊員テルは、同じ隊の仲間ミヤ、スサと共に訓練を兼ねて昏闇の森を訪れていた。
『ウツロ』は、同じ種族にも関わらず、個体差が激しく、運動能力の高いもの、マナの扱いに長けたものが存在し、熟練の隊員でも気を抜けば一瞬でやられることもあると聞いている。
多種多様な状況の戦闘を想定する必要があることから、訓練でもまた、多種多様な魔獣を相手に行われてきた。
来る日も来る日も訓練の繰り返しで、そのことに不満がないと言えば嘘になるが、気が付けばいなくなっている隊員がいることを知ると、自分もまた、一歩誤れば同じ立場なのだと、テルは思いを改めていた。
夜間行動であることから、彼らは全員、全身を黒で覆われたいで立ちであり、目を凝らさなければ、木々の紋の消えた場所に彼らが中腰で潜んでいる姿を捉えることは難しい。彼らが各自の位置を辛うじて把握できているのは、事前の作戦行動に基づいているからに過ぎない。
歩数にして二十歩から二十五歩程度前方には、今回の討伐対象である四足型の魔獣の姿の瞳の光が見えていた。マナを取り込みすぎて魔獣となった獣は、一様に黒く変色し、周囲には漏れだした黒いマナが浮遊するという特徴がある。そして、獣本来の器官とは別に、マナの察知をする能力を保有するようになるため、事前に魔術式を展開した罠を用いる戦術は使えなくなる。
獣が察知しえないほどの遠距離から、獣が避けることも難しい速度の魔術を打ち出すか、接敵して直接討つか、そのどちらかを要求され、前者は実質ほぼ不可能であることから、こうして接敵して討伐することがほとんどだ。
左右に展開するミヤ、スサが少しずつ包囲の網を縮めているのを感じながら、テルは手にしていた直剣を構え、自身も少しずつ魔獣との距離を詰めていく。
獣の左右後方からミヤ、スサが初撃を狙い、仕留められなければ前方からテルが詰める。
相手が一体ならおよそこの手段で狩ることが出来た。
木々の影に隠れながら獣までおよそ十歩の位置まで近づいた時、地面で伏せていた獣は不意に首を上げると、彼らが潜む場所とは異なる方に視線を向けた。
直後に体を起こすと、飛びのくようにその場を離れ、その後、テルの潜む場所目掛けて駆け出した。
――見つかったのか
それを判別するより早く身体が動く。こちらに向かってくる獣に目掛けて直剣を突き出し、そのまま振り下ろすようにして獣の腹部を切り裂くと、同時に展開した風の魔術式で、獣の腹部に空気の塊をぶつける。
獣を覆っていた黒いマナが霧散し、割かれた腹部に掛かった風の圧力で、獣の内臓が飛び散り、血の雨が降り注ぐ。
それを薄い風の膜で弾きながら、テルは獣が絶命したことを確認するために、地面に転がった獣の傍に近寄った。
その最中、背後で地響きが鳴り、その音に相応しい振動が辺りを揺らす。
木々に止まって眠っていた鳥たちが一斉に騒ぎながら空へと飛び立ち、音によって揺らされた空気が、周囲の葉をざわめかせた。
テルがその音に振り向くより早く、何かがテルの横を通り抜けると、鉄が打ち付けられるような音が鳴り響いた。
テルが振り向くと、天に向かって掲げられた獣の爪と、その爪に目掛けて直剣を振り下ろしている人の背中が目に映った。
「全員散開!」
獣に向けて直剣を振り下ろしながら、先の轟音に負けない声量で叫んだのは、部隊長のミナカだった。
彼はこれまでテルの後背で状況を見ていたが、前方に突如現れた物体を見て、訓練として隊員に任せられる事態を超えたと即座に判断していた。
熊のような姿をした直立で大型の獣は、全身が黒いという点では先ほどの獣と同様であったが、漏れ出る靄は明らかに先ほどの獣を上回っていた。
獣を取り巻く靄がまるで生き物のようにうねりを見せたかと思うと、ミナカに向かって襲い掛かる。
獣の動きに、テルたち三人は我を取り戻すと、ミナカの指示に従って、その場から距離を取るために走り始めた。
光のささないほぼ完全な闇と言っていい森の中を、根を避け、土の盛り上がりを避けながら走り抜ける。
時折、視界の端で動物たちが駆け抜ける気配を感じるが、魔獣でないことを祈りながら、森の外に向けて走り続ける。
そのうち、テルの後背には、いつの間にかミヤとスサが続いていた。
撤退時の集合場所については事前にいくつか決められており、今回の状況を想定して設定されていた撤退先に従うなら、全員が自然と集まるのは当然の結果だった。
隊員達が散開した様子を感じながら、ミナカ自身はその場を離れられずにいた。隊員の無事を確保するため、というのはもちろんだが、それ以前に、ミナカがこの場を離れることを容易には許してくれない相手でもあった。
巨体に似合わず俊敏な動きで繰り出される爪と、無作為に繰り出される腕のような形をした靄は、本能で振るわれているためか、無作為に繰り出され、それゆえ、次に何が来るかを予測することが困難だった。
マナの塊の靄は風の魔術を以て弾き飛ばすことで対処出来たことから、避けるのは爪だけに集中する。しかし、だからこそ、魔術は防御の用途にしか使えず、目の前の巨体を傷つけるための決定打に欠けていた。
手にした直剣で獣の体皮を傷つけてはいるが、周りを覆う剛毛と暗闇が、傷の深さの確認を許してくれず、攻撃が効いているのか、効いていないのかを判断することも難しい。
厄介な俊敏さを奪うために足元を狙おうと懐に入る隙を窺うが、両手の振り降ろし、両足の蹴り上げ、その一つ一つの動作がミナカの命を奪うに十分な威力を持っており、それも容易に許してくれない。
けん制しながら獣との距離を取り、ミナカは周囲を見渡すと、すぐ隣にある木の幹を蹴り上げそのまま木の枝に乗り上げる。
一瞬の縦の移動に獣がミナカの姿を見失ったのを確認する間もなく、ミナカは枝を伝ってその場を離れた。
森の切れ目から少し離れた場所でミナカを待っていたテルたちは、少し太めの木の枝に布を絡めて、簡易的な松明を作り、そこに火を灯していた。
獣と接敵したのは、森の奥のため、ここからミナカがどうなったのかを見ることは叶わなかったが、時折響く地響きのような音と木々の葉の揺れる音が、未だ戦闘が続いていることを窺わせる。
「……静かになったな」
両耳に手を当てて目を閉じていたスサが呟き、テルとミヤも同様に耳を澄ませる。しばらくは無音が続いたが、やがて波が伝わってくるように、ざわめくような音が増え始める。
「……ミヤ、松明もうひとつ」
「了解」
地響きのようにあたりを震わせるほどの轟音はなくなったが、その代わりとでも言うように枝葉のこすれる音と鳥のざわめきが断続的に聞こえるようになってきた。
それは徐々にテルたち三人の待機する場所に向かって近づいてくる。
やがて枝葉の震えが目に見える程になる頃、ミナカが森から飛び出してきた。
そしてそれを追うように、先ほど森の中で出会った大柄の熊の姿をした獣が飛び出す。
「隊長、火です!」
「っしゃ、灰になれ、このクソ魔獣がぁっ!」
ミナカは視界に松明を捉えると、松明の火に重ね合わせるように魔術式を組み上げる。そして振り向くと同時に、自身の指先から連なる魔術式を振るように、獣目掛けて投げつけた。
その着弾を待たずに、ミナカはもう一方の手に風の魔術式を組み上げると獣と火がぶつかる場所目掛けて、こちらも魔術式ごと投げつける。
2つの魔術式が重なり合った瞬間、轟、と火が渦を巻いて空に駆け上がり、獣の身体を包み込む。
火は時が経つと共に高くなり、それと同時に辺りに強い風が吹き始める。
闇星だけが辺りを照らしていた暗闇も、燃え上がる炎の渦により明るく照らしだされ、周囲の空はまるで光星が姿を隠す夕暮れのように赤く染まっていた。
炎の壁の向こう側に見えていた黒い塊が少しずつ小さくなりやがて消え去ると、炎の渦もまた、空に向かって昇っていき、やがて見えなくなる。
「なんでも喰いすぎ良くないぞ。覚えとけ」
「……隊長、誰に言ってんすか」
獣がいた場所に向かってびし、と指をさして言ったミナカを見て、スサが呆れたように呟いた。




