第八話 靄の向こう側
闇星クラウメが西の山影に身を隠し、代わって東から光星ラナの輝きが辺りを包み込む頃、フアンはどこか頭に重い感覚を残しながらも、意識を取り戻していた。
身体を起こそうとして、まだ十分な力を入れられず、布をいくつか重ね敷いて作られた簡易的な布団から転がるように落ちてしまう。その物音で天幕で休んでいた者たちも目を覚ました。
「フアン」
天幕の外で不寝番をしていたレツが音に気付き、天幕を覗き込むと、そこで横に転がっているフアンを目にした。
布団から転がり落ち、真横に転がったまま身動きができないのは具合が悪い、とジタバタと足掻いているフアンを見て、何かそういう変わった生き物のようだ、と思い、レツはフアンが目覚めた安堵から自然と笑みが浮かんだ。
しかし、面白いからとそのまま放っておくわけにもいかない。レツはフアンを抱え布団に戻すと、包まった布を解いてやった。
「まだ力が入らないのか?」
「……そうみたいだね」
フアンは、愉快そうに笑みを浮かべるレツに少し機嫌を悪くしながらも、助けてもらったから文句を言うわけにもいかない。布団に横にされた後は、また転がるわけにはいかないので、そのまま大人しくしていることにした。
「ありがとう」
「どういたしまして」
二人のやり取りが終わるのを見計らったかのように、ウィルがフアンの側に寄る。
「もう大丈夫なのか?」
「身体に力は入りませんが、それだけといえばそれだけです」
「……大丈夫なのか?」
ウィルは同じような、しかし意味合いの異なる言葉を、今度は自分の背後に立ったシンにかける。
「私はなんの保証も出来ないですけど、普通には見えますよ」
問われて躊躇いもなく応えるシンに、アンは小さくため息を吐く。
アンとしては、シンに自分の立場はわかっているのかを問いたいが、一方で、この場の人達に限れば、既に手遅れとも思える。
問われないのは、命令があるからなのか、気遣いなのか。どちらかと考えれば、昨晩のセリカの件があるので、気遣って問われていないのかもしれなかった。
「翌陽には戻ると思います」
気付けば天幕の誰もが、フアンを見ている中、フアンは一度息を吐き出すと、そう言った。
「そういう感覚があるのか?」
「以前にも同じ経験があるんです」
「同じって……」
「黒い靄にやられた経験です」
レツを除く天幕の誰もが、わずかの間、その言葉の意味を理解できずにいた。
言っている言葉は分かっているのに、頭がそれを拒絶しているような感覚。
その状況からいち早く抜け出したのはウィルだった。
「以前って……いつだよ」
「四神期ほど前の事です。不作とか、そういう話が出るより一神期前なので、関連があるかもしれないし、そうじゃないかもしれない。そんな頃なんですけど」
「……そんな時期に、人里にいきなり現れたの?」
もしもそんなことがあり得るのなら、大変なことだ。昨晩『ウツロ』がもたらした結果をシンは思い出す。
都の真ん中に『ウツロ』が現れたなら、どれだけの犠牲が出るのか。考えるだけでも恐ろしい。
シンにしてみれば、最早戻ることのない場所かもしれないが、それでも、それなりに長い時間を暮らしてきた土地だ。
近隣の村も合わせれば、知り合いはかなり多かったし、愛着だってあった。
好んで今、ここに居るわけではない。
王都とその周辺の人々を思ったシンは両手を胸の前でぎゅっと組み、何かを我慢するような表情で二人を見つめた。
「覚えてないんです」
呻くようにフアンは応える。
記憶が薄れるほど昔の出来事でもなければ、自我がはっきりしない子供の頃の出来事でもない。
それでも、フアンの記憶は、あの日起きた出来事の少し前から、まるで吸い取られてしまったかのように、すっぽりと抜け落ちていた。
「……あの時は、父さんと母さんが助けてくれたと、あとで村長から聞いただけで、自分は何も」
△▼△▼△
フアンの母セナは、久し振りに教会から休暇をもらい、家に帰ってきていた夫シアンと共に、冬支度に向けて必要な雑貨品を買いに出ていた。
出掛ける際、フアンにもついてくるかと声を掛けたが、久しぶりだから夫婦水入らずで買い物をしてくれば、と言い、一人家に残っていた。
親と一緒に買い物に出るには、もう恥ずかしい年頃であったのかもしれない。
そんなことも思いながら、セナはフアンの言葉に甘えることにしたのだった。
そうして、外出から帰宅したセナは、上機嫌で玄関の戸を開け、「ただいま」と声に出そうとして、それに気付いた。
激しい雨を降らせる雷雲のような、濃い灰色を幾重にも重ねたような色の靄が部屋の真ん中に浮んでおり、その中央部には小さく丸まった黒い塊のような何かが倒れていた。周りの靄のせいでその塊が何かはっきりと分かる状態ではなかったが、わずかに見える服の形や髪型、背格好などから、それが息子のフアンであることが辛うじて判別できた。
「シアン!フアンが!」
目の前に見える現象をそれ以上どう表現して良いのか分からなかった彼女は、フアンの異常事態を知らせるべく、ただシアンの名を叫んだ。
そして、黒い靄の中からフアンを救い出すために、彼のもとに駆け寄り、靄の中のフアンに手をかけた。
靄は、意志を持って蠢いているようにも見えたが、触れることは出来ずに、簡単にフアンと思われる塊に手が届いた。
容易に触れられたから気が緩んだ訳では無い。ただ、早くフアンをその靄から引きずり出したい一心で、セナはもう片方の手も靄の中に突き入れる。
靄が形を変えたのはその時だった。
まるで、新たな獲物を見つけたとでもいうように、靄はフアンの身体を離れると、あっという間にセナの身体を包み込む。
セナは一瞬のことに声を上げることすら出来なかった。
取り込まれてしまうと、声を出そうにも、声は出なくなっていた。いや、声の出し方が分からなくなっていた。
その直後には視界が失われ、手足から力が抜け、そうして、意識が途絶えた。
「セナ、どう……」
少し離れた場所で荷物を片付けていたシアンはセナの叫び声を聞き、慌てて玄関から部屋の中に飛び込んだ。そうして目にしたのは靄の中に取り込まれ膝から崩れ落ちていくセナの姿と、その傍らに岩のように丸まって倒れ、身動ぎすらしないフアンの姿だった。
その靄がどういうものなのかは、治癒術士であったシアンには容易に予測できた。いや、シアンであればこそ、即座に予測できた。
彼は、近年見られる気候の変化が、教会に伝わる伝承で語られている、天地崩壊の前兆と似ていることに気付き、備えの必要性を上層部に訴え出たばかりだったからだ。
――魔術抵抗の為に学んだ程度のマナ操作で、これを取り除けるか。
魔術士も治癒術士も、希少価値の高い人材であり、その身が危険に晒されることもある。そのため、教会に属する治癒術士は、そこで一通りの護身術、軽度の薬物への耐性などを学ばされる。マナ操作もその一環だった。マナで編まれた魔術はマナで編んだ魔術で対抗することができる。
逡巡の余地はなかった。
靄が伝承通りの生態ならば、それ以外の手段はなかった。
シアンは靄をまとったセナのもとに駆け寄ると、手のひらをかざし、靄めがけてマナを放出した。
△▼△▼△
「僕は意識を失っていたから、靄に囚われていた時からしばらくの記憶がありません。ただ、母さんはその時の衰弱が激しくて、数陽の後、亡くなったと聞いています。父さんは、母さんを弔った後、教会に戻った……らしいです。父さんが村を出る前に、事情をきいた村長から、僕はそう聞かされただけで。父さんは教会に戻ったと聞いたのですが、実際には戻ったことも確認できなくて、行方はわからないままです」
フアンは目を閉じる。
どれだけ思い出そうとしても、あの時の、あの日の記憶は曖昧なままだった。靄に包まれ命を吸われただけでなく、記憶すらも吸われたかのようだった。
「あの時、僕の意識が戻ったのは二つ陽後。動けるまではそこから更に五つ陽後でした。
でも、今回は夜が明けるまでに意識が戻ったから、動けるようになるのもそれほど時間がかからないんじゃないか、そう思ってます」
天幕の中で話を聞いている中で、ただ一人、フアンだけが、笑みを浮かべていた。どこか寂しげに。
次回で一区切りです。




