第百四十二話「槐の頼み」
伊吹があんなことになってしまったけど、それでも日は過ぎていく。五月に入って、食堂の寄付と予約優先権が五月度分に変わった。
もちろん寄付の締め切りは四月中にあったわけで、誰が何口というのはもっと前からわかっている。やはりというべきか、寄付が先月分よりも大量に増えたために俺達が毎日分確保するのが無理になってしまった。
俺達のグループの家は全員二十数口、学園で食事を摂らなければならない分、毎日分の寄付を申し込んだ。でも他にも寄付が殺到したためにそれぞれ十口まで減らされている。半分以下の口数だ。つまり逆に言えば食事の半分以上は普通の食堂で食べなければならない。
「十口ですか……」
「まぁ思ったよりは多く残ったんじゃない?」
皐月ちゃんの言葉に薊ちゃんはあっさり答える。薊ちゃんは下手したら一人一口まで制限されるんじゃ、って言ってたから、それに比べたらまだ多いと思ったのかもしれない。
例えば月に二十日昼食を食べる日があるとしたら、俺達七人のグループが毎日分申し込めばそれだけで百四十口になってしまう。これは相当な数だろう。俺達だけでそんなに独占したら、他に申し込みたい人がたくさんいたら不公平になってしまう。
そこで俺達が二十口申し込んだとしても、他に申し込みが殺到していたら、他に回すために大口の者の分が減らされて調整されるというわけだ。その調整が具体的に誰がどう計算してやり繰りしているのかはわからない。ただ俺達に知らされたのは、五月度分は十口しか確保出来なかったという結果のみだ。
「週に平均二回とちょっとということですね」
「そうですね……」
皐月ちゃん賢すぎやしませんかね?小学校三年で割り算を習うんじゃないかな?それなのにまだ三年生になって一ヶ月も経ってないのに、もう平均とか言ってる時点でおかしくない?
そりゃ皆、家で家庭教師に習ったり塾に通ったりしてるのかもしれないけど、藤花学園の生徒達は皆ちょっと異常すぎる。俺が前世の知識や記憶があるからって調子に乗ってたらすぐに追い抜かされてしまいそうだ。
俺だって前世もそれなりに良い大学を卒業したはずなのに……、やっぱりトップレベルの大学に行くような子達は子供の時からこういうものだということか。
「ずっと普通の食堂ばかりよりは良いですね」
「そうね。椿の言う通りよ。週に二回でもマシな料理が食べられるだけ良いじゃないですか。ね?咲耶様」
「それは……、まぁ……、そうですね」
確かに毎日普通の食堂ばかりよりは、せめて週に二、三回でも予約で食べられるだけマシだろう。予約があるからと思えば食堂の食事も我慢出来るというものだ。
「ただ私達は七人で日を合わせたいと思っていますからね……。これだけ他の生徒達の寄付と予約優先権が多くなったということは、まだ席が空いている間に、早めに予約を取らないと七人揃ってというのも難しくなったかもしれませんよ」
予約システムでリアルタイムに席の空き状況はわかるけど、もし建て替えた食堂に新しいシステムを導入するなら団体予約のようなものもあった方が良いかもしれない。俺達以外にも友達と一緒に食べたいのに、団体で席を取れないと困っている子もいるかもしれないからな。
「取れる予約が減ったのは残念ですが、その分楽しみになったとも言えますよ」
「ええっ!」
「そうですね」
蓮華ちゃんの言葉に皆も頷く。ちょっと残念な気もするけど、やっぱりあれでも毎日食べていたら飽きるだろうし、これはこれでよかったのかもしれない。それに折角だから他の生徒達にも利用してもらいたいしね。
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もう五月に入ったというのに伊吹は未だにあのままだった。大人しくなったと言えば聞こえは良いけど、人間不信とか、根暗とか、そういうネガティブな変化としか思えない。俺は伊吹じゃないから伊吹の考えてることはわからないけど……、良い変化じゃないのは確かだろう。
「ちょっと良いかな?九条さん」
「はい。何でしょうか?鷹司様?」
サロンで槐に声をかけられたからカップを下ろして視線を向ける。
「ここじゃちょっと……。向こうでいいかな?」
「はぁ……、わかりました」
茅さんや薊ちゃん達に視線を向けた槐に頷いて付いて行くとサロンを出た。ちょっと離れて話すだけかと思ったら外まで行くつもりだったようだ。了承をしてしまったのだから止むを得ず付いていく。
「ごめんね、こんな所まで来てもらって」
「いえ……。それで何のお話でしょうか?」
いつものバルコニーに出た俺達は向かい合って話をする。槐が俺を呼び出してする話なんて大体想像はついているけど、それはあくまで俺の想像であって確定じゃない。俺がいくら考えても想像でしかないのだから相手に聞くしかないし、聞けばわかる話だ。
「うん……。伊吹のことなんだけどね……」
やっぱりか……。槐が俺をわざわざ呼び出してまでする話なんて伊吹のことくらいだろうと思っていたけど、やっぱり伊吹のことだった。俺が原因でもあるわけだし、俺にどうにかしろということかな。
「最近の伊吹の様子がおかしいのはわかってるよね?」
「ええ……、それはまぁ……」
あれでわからない人間はいないだろう。前までの伊吹を見たことがある者なら一目で様子がおかしいことがわかるレベルの変貌振りだ。
「原因もわかってるよね?」
「ええ……、それもまぁ……」
確実とは言えないけど予想は出来るよ。俺にボコボコにされる前と、された後であれだけ態度が違うんだから、恐らく原因は俺にボコボコにされたことだろう。
「そんなわけだから九条さんがなんとかしてね」
「はぁっ!?何故私がそのようなことを……」
何で俺がなんとかしなきゃならないのか。そもそもあんなものは本人の問題であって他人がどうこう出来るものじゃないだろう。
「九条さんが伊吹をあんなにしちゃったんだよね?じゃあ元に戻せるのも九条さんしかいないでしょ?皆色々手を尽くしたけど戻せないんだ」
「そのようなことを言われましても……、どうしろと言われるのですか?今度は私が近衛様に殴られて負けろと言われるのですか?」
俺にボコボコにされてああなったというのなら、それを直すには今度は俺をボコボコにして勝たせれば良いのか?それくらいしか方法なんて思い浮かばないぞ。
「いや……、そうは……」
「何と非道なのでしょうか!婦女子の顔を殴らせ、わざと負けて差し上げれば良いと言われるのですね!」
「ちょっ!僕はそんなことは……」
「鷹司様は何と酷い方なのでしょうか!私が近衛様に勝ってしまったのが原因だからと、今度は私にわざと負けて殴られよと言われるのですね!」
よよよっと泣き真似をする。本気で泣いてるわけじゃないけど、泣き真似だからって槐がとやかく言えることじゃないだろう。
「違うよ!そうは言ってないってば!」
慌てた槐が俺の肩を掴みながら必死で否定する。わかってるよ。そういうつもりで言ってないのはな。でもこう言われたら困るだろう?
「では私が近衛様の状態をどうにかするというのはなかった話ということで良いですね?」
「いや、それとこれとは話が違うから」
「チッ……」
「九条さん今舌打ちしたよね?それに嘘泣きだよね?」
槐め……。そこは追及しちゃ駄目な所だろ。女の子が舌打ちしても聞かなかったことにして、嘘泣きでも女の子が泣いたら守ってあげるのが男だろ。まったく……。
「ですが実際に手の打ちようがないでしょう?これまでも皆さんがどうにかしようとしてこられたはずです。それでもどうにもならなかったというのに、私にどうせよと言われるのですか?本当にわざと負けるくらいしか方法など浮かびません」
伊吹がショックなのは女の俺にボコボコにされたからだろう。じゃあ自信を取り戻すには一度負けた俺に勝つことくらいしかないんじゃないのか?
でもそうなると俺は伊吹に負けてやらなきゃならないし、殴られなきゃならない。修行で慣れっこだから殴られたり痛い思いをするのは平気だけど、例えわざとでも伊吹に負けるのは嫌な気がする。それに俺が負けたら負けたでまた伊吹が調子に乗って余計なことを言ってくる気がしてならない。
「何もそんなバイオレンスな方向じゃなくても他にもあるでしょ?例えば……、優しく慰めてあげるとかさ」
「…………」
「……何でそんな露骨に嫌そうな顔してるの?」
そうなのか?いつものポーカーフェイスだと思うぞ?鏡がないから自分の顔はわからないけど、いつものニコニコフェイスやポーカーフェイスは自由自在だ。
まぁ俺の表情についてはどうでもいいとして、顔には出していないはずだけど確かに嫌だ。何で俺が伊吹を慰めてやらなければならないのか。そもそも本人の心の問題なんて本人が解決すべきことじゃないのか?いや、本人にしか解決出来ない!だから俺がどうすることも出来ない問題だ!
「本人の心の問題は本人にしか解決出来ません。ですので近衛様がしっかり現実と向き合い、反省し、真人間になるしか方法はないのではないでしょうか?私には打つ手はありません。近衛様ご本人が自力で克服されるのを待ちましょう」
よし、決まった。これは完璧な理論だ。
「そんなことないよ。九条さんがあんな風にしてしまったんだから、九条さんにしか治せないよ。それに……、心の傷だって本人だけに任せるのはおかしいよ。周囲の手伝いがあってようやく心の傷だって治るものだよ」
「それは本人の心や精神が弱いから悪いのです。近衛家の次期総裁ともあろうものが何を甘えたことを言っているのですか。その程度も自力で乗り越えられないなどそれは本人の器に問題があるのです。この程度で潰れてしまうのなら所詮はその程度の者だったということでしょう」
何で被害者である俺が伊吹の面倒をみてやらなければならないのか。可愛い女の子が傷ついているのなら優しく手助けしてあげるけど、どうでもいいどころかむしろ嫌いな奴がウジウジしてたって、自力でどうにかしろや!としか思わないだろ。これでも殴ったのは悪かったかなと思ってちょっとは遠慮してるくらいだ。これ以上譲歩や遠慮や補償をしてやる謂れはない。
「九条さんにしか治せないんだ!お願いだよ!」
「鷹司様……」
俺の手を握って、槐は頭を下げて叫んだ。こんなに必死に俺に頼むなんて……、やっぱりこいつらBLなんだな……。そりゃ恋人があんなになっちゃったら、藁にも縋る思いでどうにかしたいと手を尽くすよな。
槐だって本気で俺がどうにか出来るなんて思ってないだろう。俺はカウンセラーでも精神科の先生でもないわけで、そんな俺にどうにか出来るはずなんてない。それでも、少しでも可能性があるのならと俺に縋っているんだ。
だったら……、俺も少しはその思いに応えなければならない。伊吹が元に戻るとか立ち直るとは思えないけど、例え立ち直らないとわかっていても、やるだけはやらなければ……。
「はぁ……。わかりました。私がどうにか出来るとは思えませんが、やるだけはやってみましょう……」
「ほっ、本当かい!?ありがとう!」
「ですがっ!それでどうにもならなくとも責任は取れません。むしろどうにもならないと思っています。それでも近衛様を想う鷹司様の心のために、その想いを汲んで出来る限りのことはしてみようというだけのことです」
「何か所々変な言葉が混ざってるような気がするけど……、それでもいいよ九条さん!きっと九条さんなら伊吹を立ち直らせることが出来るよ!ありがとう!」
ブンブンと両手で握られた手を振られる。これは伊吹のためというよりは、俺に頭を下げて、ほんの僅かでも可能性があるのならと頼み込んできた槐の気持ちを汲んでのことだ。
それに実際俺が何かした所で伊吹がどうにかなるとは思えない。俺が思い浮かぶ方法なんてやっぱり次はわざと負けてやるくらいしか思い浮かばないし……。
引き受けたのは良いけど、一体どうすればあの伊吹が元に戻るだろうか……。
いや……、待てよ?元に戻そうと思うから難しいと思ってしまうんじゃないのか?
無理に元に戻そうとか考えずに、とりあえず今とは違う状態になればそれでいいんじゃないのか?そもそもあの俺様王子、どころか残念王子と化していた伊吹がまた元に戻っても鬱陶しいだけだ。それならもっとまともな伊吹になるように修正すればいいじゃないか。
そうだよ。どうしてそのことに気付かなかったのか。今の弱ってる状況なら洗の……、ブレインウォッ……、じゃなくて、真理を悟らせるのも簡単じゃないか?この隙に伊吹を俺の都合の良い性格に修正を……。
「九条さん?悪い顔になってるよ?何か悪いこと考えてない?」
「いいえ?まったく?何も?」
どこが悪いことだというのか。とても素晴らしいことを思いついた。あとはどうやって伊吹を修正するかだな……。




