五「明日は知れない」
その晩はもう、眠いと感じることもなかった。ルーシュイも目が冴えたレイレイのために自分が眠ることも諦めて相手をしてくれた。
申し訳なく思うものの、本心では嬉しい。
ルーシュイはいつもより少しだけ早く朝餉の支度にとりかかり、レイレイは早めに朝餉を済ませた。
そうして支度を済ませると、牛車を呼び、ユヤンのところへと急いだ。ユヤンもシージエが気がかりでろくに休んでいないのではないだろうか。
ユヤンの邸宅ではなく、太極殿の方にいるのではないかとルーシュイがあたりをつけた通りだった。シージエの状態が安定しない限り、邸宅に戻ることはできないだろう。
牛車を降りたレイレイを迎えてくれたのは、チュアンとレアンであった。挨拶も早々にレアンは本題に入る。
「鸞君、ユヤン様よりお二方をお連れするように仰せつかって参りました。こちらへ……」
そう、双子が促す。
「わかったわ」
レイレイは気を引き締め、ルーシュイと共に双子の後に続いた。双子は余計なことを一切話さなかった。ピリピリとした空気が宮城の至るところにある気がする。
途中、いくつもの戸を潜る。そのたびに番兵がおり、その番兵のそばには方士らしき者もいた。ルーシュイにならどのような術が施されているのかわかるかもしれないけれど、レイレイにはさっぱりわからなかった。
先に進むたび、きっとシージエのいる場所に近づいているのだろう。この深部にまで足を踏み入れさせてくれるのは、ユヤンの信頼の証だろうか。
ユヤンがシージエから長時間離れられない状況のせいでもあるが。
チュアンとレアンに通された部屋は、朱色と深緑が主体の美しい敷物が敷かれた小部屋であった。これといって物がないのは、緊急事態のためにわざと空けたのかもしれない。
「ここでお待ちください」
チュアンがそう言うと、レアンが隣の戸を開けて去った。音という音はない。レイレイは自分の呼吸音がうるさく感じられるほどの静寂の中、じっと耐えながら待った。
ユヤンがやって来たのは、いつもよりもずっと早くであった。ただ、今回のことはいくら半仙とされるユヤンであっても、いつものようなゆとりを持ってはいなかった。
厳しい面持ちに、まとう空気もどこか硬い。レアンはシージエのもとに置いてきたようであった。
「ユヤン様……」
拝手拝礼した二人に、ユヤンはそうした形式さえ煩わしく感じているように見えた。それほどに気が急いている。
「鸞君、まずはそちらの話を聞こう」
「は、はい」
話と言えるほどのものはない。切羽詰まった様子のユヤンにそれを語るのはとても心苦しかった。
それでも、これも務めと思ってレイレイは握った拳に力を込めて言った。
「夢は見たはずなのです。けれど、朝にはそれをほとんど思い出すことができませんでした。これと、断言できることは何もなくて……。この大事に何のお役にも立てず、申し訳ありません」
ぺこりと頭を下げたレイレイを、背後のルーシュイが心配そうに見つめているのが気配でわかる。
けれど、ユヤンは落胆しているふうではなかった。小さくうなずく。
「そうか、思い出せないというのなら、なんらかの妨害があるのだな。それならば、その夢は核心に迫るものであるのだろう」
妨害――
レイレイが夢の内容を思い出せぬのは、誰かが妨害しているということなのだろうか。
「鸞君、すまぬが、引き続き手がかりを探ってもらいたい」
ユヤンがそう言うのなら、レイレイは従うだけだ。しっかりとうなずいた。
「わかりました。お役に立てるのでしたら……」
ありがとう、とユヤンは目元だけで微笑んだ。どこか疲れたふうにも見えるユヤンに、レイレイは躊躇いがちに訊ねる。
「あの、陛下のご様子はいかがなのでしょう?」
気にならないわけがない。けれどそれは外へ漏らすことのできない情報であるのも理解している。訊ねても答えられないという返事が関の山だと思いつつも、どうしても訊ねたかった。
けれど、ここでユヤンは意外なことを言った。
「そうだな、陛下に一度お会いしてみれば、夢に何か影響があるだろうか。鸞君だけこちらに。鸞君護はそこで控えていてもらおう」
「仰せのままに」
ルーシュイは駄目だと言う。過敏になるのもしかたのない状況なのかもしれないけれど。
レイレイはユヤンの後ろに続き、一度だけ振り返った。チュアンはルーシュイと残るらしい。ルーシュイはレイレイに向け、軽く、それでも力強くうなずいた。
送り出されたレイレイは、呼吸を整えながら歩いた。道はそう入り組んでいない。今いた部屋がすでにシージエがいる場所のそばであったのだ。
太極殿のこんなにも奥深くに入り込むことなどそうそうないというのに、内装などに目を向けている心理的なゆとりがレイレイには一切なかった。廊下を抜け、ユヤンが近づくと、番兵が重々しい戸に向けてユヤンが戻ったことを告げる。そうして戸を開いた。
そこでレイレイはルーシュイが来てはいけない理由を知った。
「貴妃様……」
レイレイの声に、貴妃であるジュファがハッとして美しい顔を上げた。けれど、造形の整った顔立ちは変わらぬのに、やつれて見えた。シージエの容体のせいだろうか。寝台の縁に膝をついて、眠るシージエのそばにいた。
「レイレイさん?」
驚きからか瞬きを繰り返すジュファに、ユヤンが言った。
「彼女には特殊な能力があります。陛下の御力になれるかと思い、連れて参りました」
「レイレイさんが? ……いえ、ユヤン様がそう仰るのでしたら信じますわ」
本来なら後宮の中にいるはずのジュファだが、シージエのそばにいさせてくれたのだろう。シージエの状況をユヤンが伝えたのならば、ユヤンはジュファを認めているのだ。
その他に、広い室内に数人の人がいた。衛兵と方士であり、寝台から少し離れた壁際に控えている。寝台に一番近いのはジュファ、後はレアンもいた。他の重臣はシージエの状態を隠すために公務を代行し、忙殺されているのではないだろうか。
ユヤンに促されるまま寝台に近づくと、シージエは静かに横たわっていた。飾り気はないけれど、艶やかな絹の寝衣で眠るシージエは安らかに見えた。あまりに生気が感じられなくて、レイレイはその顔にぞっとした。いつも溌溂としたシージエだからこそ、余計にだ。
ただ、苦悶の表情を浮かべていないことだけが救いだろうか。
ジュファがぽつりとつぶやく。
「ずっと、目を覚まされないのです……」
生身の人間なのだから、何日も眠り続けていては食事も取れずに衰弱する。
ユヤンも苦々しく言った。
「陛下の魂魄が封じ込められている。この状況が長引けば……」
その先は聞きたくなかった。ユヤンもまた、言いたくなかっただろう。
気丈なはずのジュファの眼からぽたりと涙が落ちた。
「……わたしも死力を尽くします。貴妃様もどうかお心を強くお持ちください」
そんなことしか言えない。ジュファがこう泣くのなら、ジュファにとってシージエは大切な存在になったのだ。そのことを喜びたいのに、喜んでもいられない状況が悲しい。
「お願い致しますわ、レイレイさん……」
涙を拭うジュファにレイレイは深々と頭を下げてその場を後にした。




