四「知らない顔」
レイレイはルーシュイに励まされながら覚悟を決めて寝台へと上がった。気が昂りすぎても眠れない。適度に力を抜き、心を落ち着ける。
以前は夢を見ることが恐ろしくて眠れないこともあったけれど、鸞君としていくらか経験も積んだレイレイは、こうした時でも眠れるように頭を切り替えることができるようになった。必ずとは言えないけれど、少しくらいは。
今日はことがことなだけに、ルーシュイが最初から部屋の外に控えていてくれるという。部屋の中にいたのではレイレイの眠りの妨げになるから、それくらいの距離にいるのが丁度いいだろうというルーシュイなりの配慮であった。
レイレイは力を抜いて目を閉じた。ルーシュイが焚き染めてくれた香の香りが、張り詰めた気を和らげてくれる。
どれくらいか経って、レイレイは夢の中にいると自覚することができた。
けれど、その夢の中には――
一人の男がいた。
雲のような靄が足元にまとわりつく中、一人の男がぽつりと佇んでいる。長い髪を束ね、寛いだ姿でいるけれど、衣服の布地ひとつ取ってみても裕福な家柄のようだ。
レイレイにとっては、知らない顔であった。
つるりと滑らかな顔で、癖は少なく知性を感じさせる。際立って美しいというわけではないけれど、身だしなみには気をつけている様子だった。
二十代の半ばくらいだろうか。男はレイレイに向け、フフと軽く笑った。
『ようこそと言うべきか。君が当代の鸞君なのかな?』
『――っ!』
向こうから言われた。レイレイがこれまで見た夢の中で、レイレイが初めて対面した時に鸞君だと先に気づいた者はいない。レイレイは完全に後手に回っていた。
そう、この場を支配するのはこの男。レイレイはそれをひしひしと感じた。
焦りがないと言えば嘘になる。レイレイはあやふやな足元で精一杯踏ん張った。
『あなたは誰ですか? どうしてわたしが鸞君だと思うのですか?』
すると、男はくつくつと笑った。人を小馬鹿にしたような耳につく笑いである。
『どうしても何も、私自身がこんな夢を見る理由はない。大方、アレの具合が悪くなった原因を探っているのだろうけれど』
アレ、といかにも軽んずる言い方をしてみせた。この男はシージエの不調を知っている。皇帝の不調など、ごくごく少数の上層部しか知らないことだろうに。
『……あなたは誰ですか?』
レイレイはもう一度、腹の底から声を絞るようにして問うた。
すると、男は楽し気に笑む。
『聞いても無駄だと思うな。聞いても、君は思い出せないから』
何故、そんなことを断言するのか。思い出せないというのは一体どういうことなのだろう。
この男は何者なのか、レイレイには見当もつかなかった。それでも、レイレイは確かめないわけにはいかなかった。
『あなたが陛下に何かをされたのですか?』
すると、男はまた笑った。
『そうだよ。宮城にいる時はさすがに手も出せないけれど、アレはよく出歩くから隙だらけだ』
シージエがお忍びで城下へ来ていたこともこの男は知っているようだ。ユヤンとは違った意味で、なんでも知っていると言わんばかりのこの男が、レイレイには恐ろしく感じられた。
『どうしてこんなことをされるのですか? 陛下に何か恨みがあるのですか? それとも、この国が気に入らないのですか?』
レイレイがやっとそれだけを言うと、男は顔から笑みを消した。そうしていると、ひどく冷たい。背筋が凍るような視線に、レイレイは身じろいだ。
『どうして、何故、と君はそればかりだね。聞いても無駄だと言っているのに、物わかりの悪い……』
この人は怖い。それだけははっきりと感じ取れた。
このまま問い続けたところで、彼が名や身分を教えてくれることはなさそうだ。この夢の中に何か手がかりがあればいいのだけれど、見渡す限りは雲のような靄が広がるばかりで何もない。
レイレイが何もできずに立ち尽くしていると、男はそんなレイレイを値踏みするように見た。
『君は役目を終えたら後宮に入るのかな?』
『え?』
いきなり、レイレイの予測もつかないことを口にする。その内容のせいもあり、レイレイが固まっていると、男は薄く笑った。
『役目を終えた鸞君は、ほとんどが後宮に入ったのだよ。だから君もそうなるのだろうなと思ってね』
どうしてそんなことを知っているのか。鸞君にまつわることは重要機密であるのではないだろうか。
呆然としていたレイレイに、男はさらに言う。
『入ったらいい』
あっさりと、男は告げた。レイレイは理由もわからぬまま、その言葉にぞっとした。
『まあ、その時の皇帝がアレだとは限らないけれどね』
男の嫌な笑いが耳障りで仕方なかった。
その時、男の笑声を破り、リィンと澄んだ鈴の音がレイレイの耳に届いた。
レイレイはその音色に導かれるまま、目を覚ます。
目覚めの寸前、何故かふと獣の匂いがした。
ハッと目を覚ました時、寝台のそばにはルーシュイがいた。レイレイを覗き込む形で控えている。
「レイレイ様があまりにもうなされておいででしたので、介入してしまいましたが……余計なことをしてしまったのなら申し訳ございません」
ルーシュイが心配そうに言う。レイレイは軽い疲労感を覚えながらルーシュイを見上げた。
「ううん、助かったわ。ありがとう、ルーシュイ」
その言葉に、ルーシュイはほっとしたようだった。レイレイは身を起こすと、一度ぶるりと身震いした。
けれど――
何がそんなにも恐ろしかったというのだろうか。
それを思い出そうとすると、頭の中に空間があるような感覚がした。
「わたし……」
愕然として、自分の額を押さえた。
何かが恐ろしいと感じた。けれど、起きてみると思い出せない。
あれはただの夢で、深い意味はなかったのだろうか。あの夢の中に誰かがいたような気が、おぼろげながらするだけだ。
「レイレイ様?」
ルーシュイが固まっているレイレイの顔を暗がりの中で再び覗き込む。
「どのような夢をご覧になったのですか?」
当然ながら、ルーシュイはそう訊ねてくる。けれど、レイレイはそれに対して答えられるだけの情報を持たなかった。
急に不安が押し寄せ、ルーシュイの衣をつかんだ。
「それが……思い出せないの」
「思い出せない?」
「うん。こんなこと初めてなの」
しょんぼりとしたレイレイの頭を、ルーシュイが大きな手で労わるように撫でた。
「ユヤン様は文に、少々含みのある書き方をされていました。レイレイ様がいつものようにお力を発揮できないのでしたら、何か理由があるのでしょう。明日、朝一番にユヤン様のもとへ行き、事情をご説明致しましょう」
「うん……」
自分だけではこのよくわからない状況に慌てるばかりだった。ルーシュイの冷静さにいつも救われる。
ただ、今回はシージエが関わっている。そうのん気に構えていられないのも事実なのだ。
レイレイもシージエの力になりたい。その気持ちが空回りしないよう、こんな時だからこそ気を引き締めていなければならない。




