十二「他の誰かでは」
今日もまた、レイレイは身支度を整えると部屋を出た。粥の甘い香りに誘われつつも、鳥のさえずりを邪魔せぬように足音を忍ばせる。
「ルーシュイ、おはよう」
「おはようございます、レイレイ様」
粥を机上に置き、ルーシュイは振り向きながら微笑んだ。そのいつもの光景に今日は何か泣きたいような気持ちになった。
それをルーシュイは敏感に察してくれる。寂しそうな瞳がそれを物語る。
「レイレイ様のお役目を私が代わることはできませんが、できることならばそうしたいと思っております。何か私がお力になれることがございましたら、どうぞご遠慮なくお申しつけください」
心配そうにそんなことを言ってくれるから、レイレイは思わずルーシュイの胸に飛び込んだ。
「ルーシュイがそばにいてくれるだけでわたしは幸せだから」
だから、そばにいるこの時間が永遠であるように願わずにはいられなかった。
シージエに想いを告げられ、それで気づいたこともある。シージエのことは好きだから、共にいて嫌な気持ちになることはない。楽しく話し、過ごせると思う。
けれど、惜しみない想いで接してくれるルーシュイといる時、レイレイは嬉しいと感じる以上に、ルーシュイのために自分がいるような、そんな気になる。こうしたらルーシュイは喜んでくれるだろうか、と彼を基準にしたがる自分が時々可笑しくなる。
それほどまでに求められていることに、レイレイ自身も自分の価値が変わったように感じるのだ。
シージエにとってのレイレイは絶対の存在ではない。それをシージエ自身もわかっていたからこそ、あの言葉が出たのだ。
シージエの言葉はルーシュイには伝えない。それはシージエの気持ちに対する最低限度の礼儀であるとレイレイは思う。ルーシュイに対して秘密を持ちたいわけではないけれど、これは自分のための秘密ではないから。
言えないことがある分、こうして寄り添って気持ちを埋めようとしてしまうのかもしれない。
ルーシュイはそんなレイレイを抱き締め、そうして、耳元でささやいた。
「私もレイレイ様がいてくだされば幸せです」
そのひと言に、ギュッと胸が締めつけられる。今まで何度も甘い言葉をささやいてくれたけれど、今は特にそれを身に染みた。鼓動が痛いほどに強く主張する。
「ねえ、ルーシュイ」
「はい」
「やっぱりツェイユーの恋は叶わないかもしれないわね」
「え?」
何故いきなり今、彼女のことを言い出したのかとルーシュイはレイレイの顔を覗き込む。レイレイは少し苦笑した。
「だって、貴妃様がいらっしゃるから。貴妃様は素敵なお方だもの。シージエが打ち解けるのはすぐだと思うの」
すると、ルーシュイは急にレイレイの唇を塞いだ。名残惜しそうに唇を離すと、ルーシュイは嫣然と微笑する。
「貴妃様がどれほど素晴らしい方だとしても、私にとってレイレイ様に勝る女性はおりません。陛下にとって貴妃様がそうした存在であることをお祈りしたいと思いますが」
「う、うん」
ルーシュイはジュファに会ったことがないからそう言うのかもしれない。一目見たらその台詞を撤回したくならないとも限らない。
ジュファとルーシュイが顔を合わせる機会がないことをレイレイは内心で喜んでいた。ルーシュイに寄り添う他の女性に向けてお幸せに、などとは絶対に言えない。それだけは嫌だ。
レイレイの手をルーシュイが取ってくれたから、レイレイは幸せだ。けれど、異民族のフェオンは、ほのかな恋心を抱いたルーシュイとの別れは悲しかっただろう。皆が幸せになれる世の中であればいいのだけれど、誰かの幸せの裏で誰かは泣くことになる。
けれども、それは終わりではない。いつかまた、違う幸せが巡ってくる。この幸せのためにあの別れがあったのだと、そんなふうに感じられる時があってほしい。フェオンもツェイユーもそうであればいい。
朝餉の前だというのに、出来上がった粥をそっちのけにしてしまう。これもまたいつものことではあるのだけれど。
「ですから、レイレイ様はずっと私のそばにいてください」
ギュッと、背中に回された腕に力がこもる。ここにいるというのに、レイレイがどこかへ行ってしまうという不安が常にルーシュイにはつきまとっているのだろうかと思えた。それはお互い様だというのに。
「ずーっと、ルーシュイといる。わたしだって、それはもうずいぶん前に決めたことなの」
ルーシュイの不安が和らぐように、それを何度でも口にしよう。
レイレイはそう思いながら朝のひと時を過ごした。
《 +錦上添花の章+ ―了― 》




