五「川を流るる」
シャオメイに会って話そう。そう意気込んで床に就いた。
そのはずが、意気込みすぎたのか、夢でのレイレイの立ち位置が定まっていなかった。シャオメイの中にもいない。ただふわりとシャオメイと一人の貴人の後方を浮かんでいる。
場所は山中のようだ。うっすらと雪化粧を施された山肌に男女の足跡が一対、川辺に向かって伸びている。
それは冷たい川のほとりに二人は佇んでいた。
『ほらシャオメイ、ご覧。川面を海榴が流れているだろう?』
黒い深衣の貴人はスラリと背が高く、背筋も伸びて立ち姿からもまっすぐな心根が窺えるようだった。くつろいだ姿で頭には巾をつけているのみだけれど、それでも高貴な人物だろうと感じた。
姿は立派であるというのに、貴人の声はどこか少年のように弾んでいた。それはとても微笑ましいものである。
『ああ、本当ですね。なんて美しいのでしょう』
シャオメイも感嘆の声を漏らした。
首が落ちるようにして、付け根から花が落ちる海榴。
鮮やかな紅が、淋しい川の中で一層艶やかに映る。雪が解け、水かさが増した川をいくつもの花が流れていく。その光景は確かに美しかった。
『せっかくだから、これをお前にも見せてやりたいと思ったのだ』
シャオメイは想い人からの絶景の贈り物に心を震わせている。それくらい、シャオメイに同化しなくともレイレイにも感じ取れた。
けれど、シャオメイはどこまでも真面目なのである。この感動を上手く伝えて甘えられるような女性ではない。
『わたくしなどには勿体ないお心遣いを賜り――』
やっとの思いでシャオメイが口にした言葉を、貴人は朗らかな笑い声で遮った。
『そういう硬い物言いはこの眺めに似合わん。そうは思わんか?』
『え――そ、そうですね』
戸惑いつつも、シャオメイは柔らかく笑った。それはレイレイが知るどんな彼女よりも綺麗だと思えた。
『お前はいつもよく働いてくれている。***もよく懐いているし、できることならばずっと当家に仕えてほしいものだが』
ザ、と雑音が混ざったように一部が聞き取れなかった。けれど、懐くと言うのなら犬か猫の名だろうか。
深く考えようとすると、レイレイは何か足元が覚束ない気分になった。事実、地に足はついていないけれど。
『わたくしもでき得る限りお仕えさせて頂きたく存じます。わたくし共が受けた恩義は、そうそう返せるものではございません』
『恩と言うほど大層なものはない。流れ着いたお前たち父子を雇っただけの話ではないか』
『けれど、私たちのような流れ者を雇ってくださるなど、そうそうできることではございません。これがご恩を感じずにいられましょうか』
真面目過ぎるシャオメイに、貴人は軽やかに笑うばかりだった。
『お前と、妹のインツァオを***が気に入ったから雇い入れたのだ。礼ならば、家主の父か***にでも言ってくれ。私は如何ほどのことをしたとも思っておらんよ』
『****様――』
どうしてだろう。
どうして、肝心なところが聞こえないのか。こんなことは初めてだ。レイレイは二人の背を眺めながら焦りを感じた。
レイレイの鸞君としての力が衰えているのか。そんなことが起こり得るのか。
けれど、聞こえないのはあの貴人の名と、貴人が口にするもうひとつの名だ。シャオメイの妹の名前はしっかりと聞こえたというのに。
あの貴人の身元に繋がる名前がどうしても聞こえない。ザ、ザ、と砂を撒くに似た音が掻き消してしまうのだ。
『さて、そろそろ戻るとするか。シャオメイが冷えきってしまうな』
『わたくしは――ちっとも寒くなどございません』
震えながらそんな強がりを吐く。どんなに寒くとも、シャオメイはこの想い人と少しでも時を共有していたいのだ。その心は相手に伝わっているのだろうか。
この貴人はきっと、誰にでも分け隔てなく優しい人だ。だからシャオメイが特別であるのか、そうでないのか、レイレイから見ても判断がつかなかった。
『お前は寒くとも素直にそう言わん。それくらいのことは私にもわかる。それ、帰るぞ』
そこはわかるのに、シャオメイの気持ちには気づかないのか。それとも、気づいていても応えないのか。
レイレイは複雑な心境で二人を眺め続けた。
『はい――』
ちらほらと舞い出した粉雪の中、なだらかな坂を二人は下る。その時、シャオメイの靴が雪の上で滑った。
『あっ!』
危ない、とレイレイが焦っても、レイレイに助けることなどできない。振り向きざまにシャオメイを素早く抱き止めた貴人は、ほっと白い息をついた。
『危なかった。こんな雪道を連れ回して、嫁入り前の娘に怪我などさせたら大変だ。お前の父にも申し訳が立たない』
距離と呼べるものがほぼない状態で言っても、シャオメイは少しも冷静に聞けなかったのではないだろうか。いつもは大人びたシャオメイが顔を真っ赤に染めて絶句している。
その様子から、シャオメイは本当にこの人が好きなのだと感じられた。
シャオメイのか細く震える背中。その両肩に貴人は手を添えて立たせる。二人は向き合っていた。貴人の顔がレイレイからもようやく窺い知ることができるのだ。
二十代半ばといった頃合いだろうか。通った鼻梁に黒々と輝く眼。それは端整な顔立ちの若者である。
シャオメイを通り越え、彼の視線は見えるはずもないレイレイの方に向いた。そんな気がしたのはきっと気のせいだ。
気のせいだと思うのに、レイレイはその若者の顔を見た途端、得も言われぬ心持ちになった。
上手く言葉にならない。ただ、感情が胸を締めつける。
あれは――誰なのだ。




