五「最後の夜」
《《%size:20px|5◇最後の夜》》
起き出すと、レアンとチュアンが用意してくれてあった朝餉を食べた。羹は美味しかったけれど、ルーシュイの粥が懐かしい。
レアンとチュアンは多くを語らない。ユヤンから言いつかったことだけを忠実に守っている様子だった。レイレイとしても、口を挟まずにいてくれることがありがたかった。
最後の夜。レイレイは念入りに時間をかけて湯浴みをした。そうすることで精神を落ち着けることができるような気がしたのだ。
まっさらな寝衣に身を包む。まるで戦いに挑むような心境だ、とレイレイはどこかで可笑しく思った。
レイレイは自室の寝台へ乗り、体を横たえた。まぶたを閉じれば、ルーシュイの感情を浮かべない顔が思い起こされた。
そうして、レイレイは意識を彼のもとへと馳せるのだった。
● ● ●
拒絶、抵抗は予測していた。けれど、夢の中の靄は赤黒く、死後の世界かと錯覚してしまいそうになる。荒々しい風が邪魔をして、レイレイは足が地につかないまま吹き飛ばされようとしていた。
ルーシュイに会いに来た。本当の彼に。
だったら、ここで諦めてはいけない。
レイレイは必死で呼びかけた。
『ルーシュイ!』
風がひと際うるさく鳴って、レイレイの声を掻き消す。ルーシュイが黙れと言っているような気がした。
レイレイはこの風も靄もすべてルーシュイそのものなのだと手を伸ばす。
『ルーシュイ! あなたに会いに来たの。話をさせて』
意識を集中し、レイレイは暴風に耐えながら進んだ。
そうして、深淵はここだと何故だか感じる部分があった。靄に隠されたその部分に手を触れると、風がやむ。その途端、陶器が割れるような音を立てて見えない壁が崩れたようだった。
そこには薄ぼんやりとした光があり、レイレイはその先へと急いだ。
逸る気持ちのままに駆け出すと、道の先に人影が見えた。膝を抱えるように座り込んでうつむいている。他の誰でもない、ルーシュイだった。
まるで雲に隠れた月のような人だとレイレイは苦笑した。
『ルーシュイ』
レイレイが呼びかけると、ルーシュイは首をもたげた。怒りを僅かにその目に浮かべたように見えた。
『……やっとこんなにも遠くへ離れたというのに、あなたは平然と私の前にやってくる。まったく、ひどいお方だ』
実体のルーシュイが今、どの辺りにいるのかは知らない。そう言うからには城市から離れたところなのだろう。
レイレイはぐ、と言葉に詰まった。けれど、黙ってはいけないと口を開く。
『ねえ、ルーシュイまで鸞君護を辞める必要はなかったでしょう? どうして戦線になんて加わるの?』
すると、ルーシュイは冷めた目をしてつぶやいた。
『私の過去を覗かれたのでしょう? 私は異民族の血を半分受け継ぐ人間です。戦線で争うのは私を構成する二つの勢力ですから、そこに身を置いてみたかったのですよ』
まるで死に急ぐようだとレイレイは感じた。自分の命にルーシュイは投げやりだ。レイレイのそばにいたルーシュイと同じ人物とは思えないような無気力さだった。
レイレイが心を痛めているとルーシュイは知ってか知らずか、ぼんやりとした笑みを口元に浮かべた。
『……最初は、楽勝だと思っていたのです』
『え?』
『世間知らずな小娘の一人くらい、すぐに陥落できると』
その世間知らずな小娘とは、レイレイのことだろうか。レイレイが唖然とすると、ルーシュイは虚ろな目をして続けた。
『シャオメイのことも私には好都合でした。あなたを殺害しようとしたシャオメイからあなたを救うことで、あなたの私への信頼は絶対的なものになるとあの時は考えました。なのに、あなたは私を非難する目を向け、シャオメイを庇いました。正直、気は確かかと思いましたよ』
『……だって、シャオメイがひどい目に遭うのは嫌だったから』
レイレイの呟きをルーシュイはうなずいて飲み込んだ。そうして続ける。
『シャオメイがいない、二人きりという状況が作り出せたので、私は更に動きやすくなりました。鸞君のあなたの信頼を勝ち取り、あなたを操ることができたなら、私はこの国に復讐できるのではないかと、それだけを考えていたのです』
復讐。ルーシュイはレイレイのそばで優しげに微笑みながらそんなことを考えていたのだ。レイレイには彼の思惑など何も伝わっていなかった。
呆然としているレイレイに、ルーシュイはクスリと笑った。
『なのに、あなたは私の予測を飛び越えて、思いのままに振舞われましたね。農民のために体を氷のように冷たくして生薬を探すような真似までされて。諭せばあっさり諦めるだろうと思っていた私に、あなたの在りようは衝撃でした』
あの時は必死で、色々と考えるゆとりもなかった。それだけのことだった。
ルーシュイはそのまま語り続けた。その声はさっきよりも細く感じられた。
『夢の先で恐ろしい目に遭い、駆けつけて私を呼ばれましたね。あの時、震えるあなたを抱き締めた瞬間から歯車が狂い出したのかもしれません』
『ルーシュイ?』
声が聞こえづらくてレイレイはルーシュイのそばへ膝をついた。レイレイを見上げた彼の瞳は悲しそうに揺れた。
『あなたは私のそばをすり抜けて、お役目のために――いえ、苦しむ者のために飛び出してしまわれる。鸞君護とは名ばかりで、私にあなたを護ることなどできないのだと思い知りました。あなたは鸞君である限り、いつ命に関わる目に遭われるのかわからないのです』
『……だから、わたしに鸞君を辞してほしかったの?』
『そうですよ』
ルーシュイは素直にうなずいた。今のルーシュイは偽りの言葉を持たない。
『誰かに死んでほしくないと思ったのは、家族を失ってから初めてのことでした』
生きてほしい、そう願ってくれた。だからこそ、この選択をした。ルーシュイなりにレイレイを思ってくれたからこその。
けれど、それがレイレイの幸せに繋がるとは限らない。ルーシュイは間違っている。だからレイレイは声を上げなければならなかった。
『ルーシュイ、だからって後宮に入れってどういうことなの?』
それは、とルーシュイは初めて口ごもった。
『あそこに行くまで、私もそんなことになるとは思いませんでした。後宮は女の戦場とも言える場所ですから、のんびりとしたレイレイ様には不向きです。それから、レイレイ様が陛下の寵を受ける身となられることも、本当は考えたくありません。けれど――』
ルーシュイは言葉を切る。目を見ては話さなかった。視線は宙をさまよい、揺れ続けている。
『それでも生きていてくださるのなら、私はそれで耐えられると。私がお救いできずに死なせてしまうくらいならば、その方がずっといいと……』
ルーシュイがこんなにも臆病な面を持っていたとは思わなかった。なんでも卒なくこなしていたのに、心ではいつも怯えていた。幼少期に両親を奪われた悲しみが心に根づく。この繊細な心が、ルーシュイの姿なのだ。
『ねえ、ルーシュイ』
レイレイが呼ぶと、ルーシュイはびくりと体を震わせた。
『わたし、これからは無茶をしない。ルーシュイにちゃんと相談して、それから行動するように気をつける。だから、もう一度一緒に鸞和宮に戻りましょう?』
すると、ルーシュイは悲しげに笑った。
『すみません、それはできないのです』
『どうして?』
愛想を尽かしたのではないと言う。レイレイも命に関わるような無茶はしないと約束した。なのに、駄目だと言う。何がいけないのかレイレイにはわからず、ギュッと唇を結んだ。
ルーシュイも悲しそうにささやく。
『私の過去を覗かれたのに、どうしてまた一緒になどと仰るのですか? 私の心がどれだけ荒んでいるのか、もうご存知でしょう? レイレイ様は私がひた隠しにしてきたものに触れてしまわれたのです。私は――』
そこで言葉を切った。そんなルーシュイにレイレイは強い視線を向ける。
『私は、なんなの?』
傷口から膿をすべて抜き去るように、レイレイはルーシュイの奥深くにまで踏み入る。すべてを受け止める覚悟はしたのだ。
ルーシュイはためらいながら言った。
『私はもう、レイレイ様と共に過ごす日々が苦痛なのです』
二の句が告げられないほど、レイレイは強い衝撃を受けて固まった。苦痛だと、そこまっではっきりと言われるとは思っていなかった。レイレイの愕然とした顔に、ルーシュイは続けた。
『あなたが私をどう思われるのかが恐ろしくてならないのです。私情を挟まずにそばにお仕えする――それができない自分になった以上、もう戻れません』
レイレイはまどろっこしいやり取りに疲れた。ルーシュイはそうやって逃げていく。けれど、本心では怯えているだけだ。
『ルーシュイ』
ここは夢で、お互いの実体は別々にある。だからこそ、ここで触れ合っても意味はない。そうなのかもしれないけれど、レイレイはルーシュイの首に腕を回して体を預けた。
『レイレイ様……?』
戸惑う声に、レイレイはそっとつぶやく。
『何度かこうしてルーシュイに抱き締めてもらって、わたしは力をもらったから』
なんとかしたい、力になりたい。愛しい。そうした気持ちがあるからこそ、体が動く。ルーシュイもそうであったのなら、と願いたかった。
『わたしはあなたの生まれも憎しみも知ったけれど、それがルーシュイを嫌う理由にはならないから、そばにいて』
腕に力を込めても、ルーシュイの手が背中に回っても、お互いの熱は感じられなかった。無機質な感触だけがある。
『こんな私でも、おそばにいることを許して頂けますか?』
『ルーシュイじゃないと嫌。他の誰も代わりにはならないの』
『シャオメイにもあなたはそう仰いましたね。……なるほど、あの時のシャオメイの気持ちが今になってわかりました。こんなにも、あなたのひと言が救いであったのですね』
珍しく声を詰まらせ、レイレイを抱き締める腕から力が抜けた。そうして、ようやくレイレイの瞳を覗き込む。指先が頬に触れた。
『二人きりで過ごしたら、私はこうしてあなたに触れますが、それでも?』
『うん』
レイレイは微笑んだ。ルーシュイに触れられることを嫌だとは思わない。むしろ、とても幸せな気持ちになる。もしかするとこれが、ツェイユーがシージエに感じていた気持ちなのだろうか。
体が心地よく芯から痺れるような、そんな感覚だった。
ふわり、とルーシュイの唇がレイレイのものと重なった。けれど、所詮は夢の中である。それはあまりに味気なかった。
『……なるべく急いで戻ります』
ルーシュイはそう言って苦笑した。
『一度申し出たことを覆すのですから、陛下やユヤン様にはひどくご迷惑をおかけしてしまうかとは思いますが、いくらでも頭を下げますし、減給も構いません。レイレイ様のおそばに戻れるのなら』
『わたしも一緒に謝るわ。だから、早く戻ってきてね』
『はい』
そう言って二人は離れた。ルーシュイは最初とは別人のような優しい笑顔を浮かべた。
『では、ひとまずお別れします。次に現でお会いする時にはもう少しマシなことが言えるようにしておきますので』
レイレイはクスクスと笑った。
『うん。待ってる』
再び会える時はそう遠くない。レイレイはルーシュイを信じて待つだけだ。
夢から覚める時、レイレイは今まで感じたことのないような幸福感に包まれていた。




