二「ツェイユーと」
ユヤンの次官、左僕射をレアン、右僕射をチュアンと言った。やはり彼らは普通の童子ではないらしく、子供扱いを何より嫌った。
「さあ、鸞君。こちらにお乗りください」
レアンとチュアンが牛車の左右に立ち、レイレイを促す。レイレイはありがとうと言って牛車に乗せてもらった。
けれど、二人は牛車には乗らなかった。歩くつもりなのか、外にいる。つまり、話し相手はいないということ。だから、レイレイは道中ずっとルーシュイのことばかり考えてしまった。
そこにはシージエのことなど差し挟む余地もなかった。それをユヤンは読み取っていたからこそ、レイレイを鸞和宮へ行かせてくれたのかもしれない。
たった一日しか経っていないというのに、鸞和宮が懐かしく感じられた。レイレイはここしか我が家と呼べる場所がないのだ。
ただ、懐かしいと思う反面、違うとも感じた。
ルーシュイがいない。そのせいで鸞和宮がレイレイの知るものではなくなってしまった。
ひっそりと、なんの音も立てずに存在する。侘しさが宮を包んでいる。いつも、レイレイが知らぬ間に雑務をこなし、美しく保ってくれていた。シャオメイがいなくなった時も寂しさはあったのに、それとは比べるべくもない喪失感が胸に迫る。
「三日間、私かレアンのどちらかがつきますので、ご心配なく」
そう、猫のような眼をしてチュアンが言った。レイレイにはまだ二人の区別はつかないけれど。
「うん、ありがとう」
レイレイは鸞和宮の奥へと進んだ。朝だというのに薄暗く感じてしまうのは、きっとレイレイの心のせいだ。
自室へ入る前にルーシュイが使っていた隣の部屋を覗く。ルーシュイらしく、部屋は少しの乱れもなく整えられている。寝台も皺なく伸ばされ、調度品にも埃はかかっていない。ルーシュイの荷物らしきものもなく、ここにはすでに生活感と呼べるものがなかった。
レイレイはギュッと手を握り締めると自室へと向かった。
昨日の朝起きた時、レイレイは寝台を整えて起きただろうか。起き抜けのまま放置したのではなかっただろうか。その寝台は、ルーシュイの部屋同様にきっちりと皺が伸ばされている。几帳面すぎるほどに。
ルーシュイは旅立つ前にここへ来た。それだけははっきりとわかった。ここへ来て、何を思ったのだろう。どんな思いで部屋を整え、ここを後にしたのだろう。
彼の心が知りたい。
レイレイは滑らかな寝台へと身を横たえた。けれど、こんな日の高いうちにルーシュイが眠っているはずもない。どうするべきかと考えているうちにレイレイはもうひとつの気がかりだったことを思い出した。
そうして、そちらを見てみようという気になった。それは、シージエに恋をするツェイユーのところだった。
● ● ●
あの後、無事にどこかに潜むことができただろうか。家の者がなんとか事情をでっち上げて連れ帰ってくれたのならいいのだけれど。
ツェイユーも眠ってはいない時間帯だろう。もしかするとあの木の下にいるのかもしれない。
そうしてレイレイが見た風景は、現在ではなくすでに起こり、過ぎ去ったものなのだと知った。木の下で供を連れてシージエを待つツェイユーの前に現れた青年は、シージエではなかったのだから。
(ルーシュイ……?)
それはルーシュイだった。柔和そうな作り笑いも浮かべていない顔は、恐ろしいほどに冷たく映る。ツェイユーはルーシュイのことなど知らないはずだ。厳しい面持ちで自分の前に立つ青年を、怯えた瞳で見上げた。
『あ、あの、何か?』
整った顔立ちの青年とはいえ、その表情には少しも友好的な雰囲気がなかった。ツェイユーが怯えるのも無理はない。
ルーシュイは彼女に向かって唐突に言った。
『昨晩、君を庇った女性がいたはずだ。彼女が衛士に捕らえられたのを知るくせに、君は何も申し出なかったのか?』
そのことを何故彼が知っているのか。ツェイユーには事情を知ることはできないけれど、その弱みを知っている青年に更なる恐怖を覚えた様子だった。
『あ、あれは……』
乳母の女性が焦って前に出ようとする。けれど、それをルーシュイが目で射た。乳母の女性はそこから足が竦んだのか、動けなくなる。
『あれは? あれはなんだと? 捕らえられた彼女がどういう目に遭うか、君は考えられなかったとでも言うのか?』
押し殺した低い声だった。ルーシュイのこうした声を聞いたのはいつ振りだろうか。レイレイの危機にはいつも怒っていてくれた気がする。
レイレイがこの時そばにいたら、青ざめたツェイユーを気遣って止めただろう。けれどこれは夢で、すでに起こった出来事である。レイレイはただその先を待った。
『だ、だって、あれは……仕方がなくて……』
ツェイユーにしてみても必死で、何も考えられない状況だったはずだ。レイレイはそう思った。ただ、ツェイユーはレイレイよりもほんの少し冷静だったらしい。
『私、恋しいお方を追ってあの時刻になってしまったのです。あそこで追いかけなければまた会えない日々が続いてしまうと。でも、追い着く前に晩鐘が鳴ってしまったのです。もし私が衛士に捕らえられ、刑罰を受けたなら、もしかするとそれがあの方のお耳に入るかもしれませんでした。そうなったら、晩鐘が鳴っても外を出歩くふしだらな娘とお思いになったはずです』
ツェイユーはルーシュイに怯えながらも口早に言った。それは自分に言い聞かせている風にも思われた。ルーシュイはスッと目を細めた。
『代わりに捕えられた彼女が刑罰の対象になるとは思わなかったのか?』
『わ、私、彼女が誰なのか存じ上げません。あの、彼女はその……刑罰を受けられたのでしょうか?』
ツェイユーの探る瞳に、ルーシュイはうなずいた。
『そうだ。笞刑を受けた。背中の皮が裂けて苦痛で気を失われていた』
すると、ツェイユーは小さく息を吐いた。
『それは恐ろしい目に……』
彼女が震えながらそうつぶやくと、ルーシュイは平素の優雅さをかなぐり捨て、彼女を殴りつけるのではないかと思うような獰猛な目をした。それはツェイユーにも伝わったようで、ヒッと声を漏らす。
『自分がそんな目に遭わずに済んでほっとしたか? 大事な肌に刑罰の傷など残っては大変だからな』
『あ、あの、私は……』
取り繕うように言葉を探す彼女をルーシュイは冷笑した。
『お前は常に自分のことしか考えていない。そんな女に誰が心を移す? お前が欲する愛しい相手は、それほど愚かではない。お前はそうして生涯この木の下で待ち続けていろ』
ひどい、と泣き崩れるツェイユーを、ルーシュイは少しの罪悪感も交えずに見下す。そこにあるのは純粋な怒りであったようにレイレイには感じられた。
昨日、レイレイをシージエに託した後、ルーシュイはここを訪れてツェイユーと会っていたのだ。来る必要はまるでなかった。どうしてわざわざと思いたくなる。
けれどそれは、痛みに苦しんだレイレイを間近で見ていたから、それをツェイユーが知らぬままでいることが我慢ならなかったのだろうか。
そんなふうに思ってくれるのなら、レイレイのことを突き放したりせずにそばにいてくれてもよさそうなものだ。
どうして、とレイレイは思う。
レイレイに愛想を尽かしたのではないのなら、ルーシュイはどうしてあんな選択をしたのか。
レイレイが危なっかしいから、鸞君でいてはいけないと思ったのなら理解できる。でも、それだけならルーシュイが鸞君護を辞した理由にならない。レイレイは駄目な鸞君であったけれど、ルーシュイは優秀だ。引き続き他の鸞君を護っていればよかったはず。
それすら嫌になるほど、レイレイの在り方がひどかったのか。自分が無力に感じるほど、レイレイがルーシュイを追い詰めたのだとしたら。そう考えたら、レイレイはルーシュイに何を言っていいのかわからなくなった。
去って行く背中は、いつも心を読み取らせない。




