四「晩鐘と刑罰」
その日、レイレイはツェイユーの夢へ赴くつもりはなかった。まだかける言葉を見つけられないでいたのだ。だから、頭が整理できてからにしようと思っていた。こんがらがった頭を休めるため、晩鐘の音も聞かず、早めに床に就いた。
けれど、そのせいで夢に見てしまったのだ。
シージエは日が暮れてからもふらりと外を歩いていた。一人で辺りを見回しながら歩いている。散歩が好きなようだったけれど、それにしても時間が遅い。そろそろ家に戻るつもりで歩いているのかもしれなかった。
そんな時、木の下にいたツェイユーは遠目に愛しいシージエの姿を見つけてしまった。
『シージエ様!』
とっさに駆け出そうとした彼女を、乳母の女性が止めた。
『いけません、お嬢様! もう戻らないと晩鐘が鳴ってしまいます。正当な理由もなく晩鐘が鳴っても尚外出していたところを見咎められたなら、刑部から罰せられてしまいますよ!』
けれど、頭に血が上っているツェイユーはそんな乳母を力いっぱい突き飛ばした。乳母は大人しいツェイユーがそんなことをするとは思わなかったのか、まるで身構えておらずに声を上げて尻餅をついてしまった。
今、シージエを追わなかったら二度と会えないかもしれない。ツェイユーにはそれしか考えられなかったのだ。
ただ、シージエの足はツェイユーには速過ぎた。裳の絡む足を必死で動かして走るけれど、そう簡単には追いつけない。そうして息せききって走るうち、辺りはどんどん暗くなる。
レイレイはそれを眺めながら、このままではいけないと焦った。夜間の徘徊に対する懲罰はどんなものであっただろうか。
どちらにしろ、このままではいけない。早くツェイユーたちをなんとかしなくては。
そう強く思ったせいか、レイレイの体は以前山中へ飛んだ時のように実体をも伴ってぽつりと冷たい地面に落ちた。そのすぐそばへやってきたのはツェイユーの乳母であった。彼女を連れ戻すために立ち上がって、必死で追いかけていたのだ。
レイレイは素早く立ち上がると乳母に向かって口早に告げる。
「あなたももう外を出歩いていてはいけない時刻になります。ツェイユーさんはわたしが連れ戻しますから、どうか先に戻ってください」
「あ、あなたは?」
「今は説明している場合ではありませんので、とにかく急いでください」
戸惑う乳母を残し、レイレイは路地をひた走った。寝衣に裸足。実体であるせいで寝ていた姿そのままである。
けれど、そんなことに構ってはいられない。レイレイはツェイユーを捜した。
夢で眺めていた時に見覚えがあるところを選んで進んだ。この時間になるとすれ違う人もほぼいなかった。
懸命に走るけれど、実体ではそう速くも進めない。レイレイがもどかしく走る中、ついに晩鐘の音が鳴り響いた。
ハッとして空を見上げる。重々しく、いっそ不気味ですらある音だった。これからは闇が迫りくる時間である。レイレイの存在はひどく場違いに思えた。
「ツェイユー……さん?」
思わずつぶやくと、道の先に彼女がうずくまっていた。物陰に潜むようにして。
よく見ると、この道の先には街鋪がある。衛士に見咎められるととっさに我に返ったのだろう。
「大丈夫?」
レイレイもその隣に身を潜めると、ツェイユーはびくりと肩を跳ね上げた。レイレイは人差し指をそっと口元に当てて声を潜める。
「ええと、どうしましょう。とにかく、衛士に事情を説明してみましょうか」
か弱い娘が家に帰りそびれただけのことである。レイレイは事情を説明すればわかってもらえるものと思った。けれど、ツェイユーは暗がりでもわかるほどに青ざめてかぶりを振った。
「駄目……見つかったら終わりよ」
「大丈夫、わたしがついてるから」
夢で顔を合わせているけれど、錯乱気味のツェイユーは気づかないふうだった。いやいや、と首を振り続ける。
「落ち着いて、ね?」
そう宥めるも、彼女はガタガタと震えていた。そうこうしているうちに二人組の衛士が手燭を持って夜の道を歩いてきた。二人が潜む建物の物陰も、覗き込まれればおしまいである。
そんな時、リィンと音がした。涼やかな鈴の音だ。
この音はルーシュイが鳴らしている。レイレイを探しているのだ。すぐにそれがわかった。けれど今、レイレイがこの呼び声に答えてしまったら、ツェイユーが置き去りになる。
この音はレイレイにしか聞こえないらしく、ツェイユーも衛士もまるで反応を示さなかった。レイレイは鈴の音に答えることをせず、ツェイユーを振り返る。
「どこかに上手く隠れて。出てきちゃ駄目よ」
小声で素早くそう言うと、レイレイは物陰から出て衛士の前に立った。物々しく刀を帯びた衛士は白い寝衣のレイレイを幽鬼か何かだと思ったのか、一瞬かなり驚いた。
けれど、手燭で照らし出したレイレイがただの娘であるを確認すると、キッと目を怒らせる。
「すでに晩鐘は鳴り終えた。許可のない者の徘徊は禁じられており、その法を破ったものには刑罰が与えられる。来い!」
と、衛士の一人がレイレイの腕を捕らえた。
「あ、あの……」
鸞君であることを告げれば、処罰は免れるのだろうか。けれど、それをすれば事情を訊ねられる。ツェイユーの名前は出したくなかった。
それと、今レイレイがルーシュイに呼び戻されてここから消えれば、やはり消えたレイレイを探して衛士たちは夜道に戻って隠れているツェイユーを探し出してしまうだろう。
結局、レイレイは何も言えなかった。
すると、逞しい衛士の顔が歪んだ。
「どうせ家を抜け出して男に会いにいくつもりだったんだろう。大人しそうな顔をしてふしだらな娘だ」
「え……」
なんと弁明すればいいものかわからず、レイレイは連れられるままに街鋪へと向かった。心がもやもやとするけれど、ツェイユーがつかまらなくてよかったと思うことにした。
物々しい街鋪の戸口を潜ると、中は広く殺風景であった。ここはなんのために広く取られているのか、レイレイにはわからなかった。
その中に衛士たちの上官らしき武人がいて、一人の衛士が事情を説明している。ちらりと横を見ると格子の部屋があり、どうやらここで拘留されるらしかった。
「なるほどな」
と、上官の男が野太い声で言った。体の大きな四十ほどの武人だ。ただ、体は大きく目つきは悪く、どこかまとわりつくような視線をレイレイに向けていた。
「夜間徘徊ならば笞刑だな。若い娘だ。公開は避けてやろう」
「はい、笞打ち二十と取り決められておりますので……」
その名の通り、笞で二十回打たれる、そういう刑罰である。死にはしないとは思うけれど、相当に痛いだろう。レイレイは今になって恐ろしさが込み上げて来た。
上官の男が壁際でカチャカチャと何かを物色していた。そうして、振り返った時に手にしていたのは長さが子供の背丈ほどもある四角い節のついた棒である。
「青銅や鉄の金属はあんまりだからな。慈悲深い私は木製にしてやったぞ。感謝するといい」
ニヤニヤと笑ってそんなことを言われた。木製だろうと、あんなもので殴られたら体がボロボロになるだろう。ゾッとして青ざめたレイレイを、上官の男は満足そうに見ていた。
部下の衛士がとっさに口を挟む。
「あの、まずは身元と事情をはっきりとさせなければ。それから、刑の執行はちゃんと刑場で――」
すると、上官の男は自分に意見した部下の腹にその棒を突き立てた。ぐ、と鈍い声が漏れる。上官の男の黄ばんだ三白眼が部下を虫けらのように見た。
「私に指図するな。こんな時間にうろうろするような娘だ。どうせろくな身分じゃないだろう」
と、上官の男は腕に力を込め、部下が呻く様に薄ら笑いを浮かべていた。他人をいたぶることが楽しくて仕方がない、そんな様子が見て取れた。大義名分を持って他人を痛めつけられるのだ、レイレイに対して手心など加えてはくれないだろう。
「さあ、押さえろ」
そのひと言が始まりだった。左右に一人ずつ衛士がつき、レイレイの肩を押さえつけた。
「っ……」
恐ろしさのあまり声が出なかった。力をかけられ、レイレイは立っていられずに膝を折る。長い髪が背中から払われ、前に流された。
そうして――
バシン、と鈍い音を立てて背中に鋭い痛みが奔った。目から火花が飛び散りそうな衝撃と痛みに、レイレイは息が詰まった。けれど、回復する間もなく第二撃が来る。
「う……」
うめき声がもれた。間髪入れずに次、また次、と。
力任せに背を打つ痛みには慣れることがない。笞が引っかかって、背中で薄い寝衣の裂ける音がした。骨が砕けそうな、今まで感じたことのない苦痛に、レイレイの意識は遠退きかける。
声を発することができていたかはわからない。それでもレイレイは意識を手放す直前にルーシュイの名を呼んだ。リィン、と鈴の音が鳴る。
息も絶え絶えになったレイレイを打ち据える手が止まった。押さえつける腕もなくなった。レイレイは呼吸を整えながら辛うじてまぶたを開く。そうした時、レイレイがいた場所はあの薄暗い街鋪ではなかった。
「レイレイ様!」
目の前に悲愴な面持ちのルーシュイがいた。そこは鸞和宮の自室の中であった。ルーシュイは崩れ落ちるレイレイを抱き止め、そして背中の傷に触れてハッと息を飲んだ。
「これは……っ」
レイレイは苦痛に顔を歪め、体を震わせた。
ルーシュイは傷口を気遣いながら強張った腕でレイレイを抱き上げると、寝台の上にうつ伏せに寝かせた。
体勢を変えたことでレイレイは傷口に焼けるような痛みを感じる。その痛みを堪えていると、涙が零れそうだった。一体自分は何をしているのかという気にもなる。
そんなレイレイの耳元にルーシュイはそっと声をかけた。
「もう大丈夫です。治療致しますので、あと少しだけご辛抱ください」
その柔らかな言葉に、レイレイは無意識に力を抜いた。するり、とルーシュイの手が背中の辺りで動く気配を感じた。ズタズタの寝衣の背中を開いている。
そこで、傷にほんのりと熱を感じた。それは徐々に熱くなり、けれどその熱さは傷の痛みとは違った。体はカッと熱くなるけれど、それとは逆に痛みが引いていくような、そんな感覚がした。
けれど、体力の消耗は激しく、レイレイはそのまま寝台にぐったりと横たわったままでいた。傷の痛みは嘘のように引いている。ルーシュイが何かしてくれたことだけはおぼろげにわかった。
「術で傷を塞ぎました。けれど、疲れは残っていると思われますので、今日はこのままお休みください。事情はまた明日お訊きします」
訊ねたいことは山ほどあるだろうに、ルーシュイはレイレイを気遣ってくれた。すぅっと蕩けるように意識が薄れていく。その時、さらされていた肌の肩口に熱を持った何かが柔らかく触れた。吐息がかかって、それが唇であったと気づく。
そこからルーシュイのささやきが聞こえた。
これはきっと独り言――
「やはり、あなたはこのお役目に向いておられないのです。こんなことを繰り返していては、いつか取り返しのつかないことに……」
とても心配をかけてしまった。レイレイは申し訳なく思いながらも、ごめんなさいとつぶやく前に眠りに落ちた。




