五「救出劇」
「ルーシュイ」
レイレイがつぶやくと、フェオンも驚いて顔を上げた。草原で馬と戯れながら過ごしていたフェオンには、この場の誰よりも先に、この馬車の他に追い迫る馬の蹄の音を聞き分けられていたのかもしれない。首領らしき細面の男も追っ手に気づいたようだ。
立ち上がって窓を開けた男の一人が、窓から首を出した。その時、鋭い衝撃が馬車を揺らした。すぐそばまで迫っていた追っ手に男が強打されたのだろう。だらりと腕を垂らして気を失った。
ヒッと外で馬車を御す男の悲鳴が飛んだ。馬車は大きく揺れ、蛇行を続け、そうして止まった。最後に車体が横倒しになるのではないかと思うほど傾いた。
その車体がまっすぐに戻る時、レイレイはフェオンを抱き締めて庇いながら、人がひしめく馬車の中で壁に背中を打ちつけた。痛いと思う暇もなく、男たちは追っ手と対峙すべく馬車の扉を開けた。
「クソッ――ふざけた真似しやがって、どこのどいつだ!」
がなりながら外へ出るも、隠し持った暗器を取り出す間もなく旋回した棒状のものに首根っこを強打され、道端に吹き飛んだ。
やっと、レイレイからも追っ手の姿が垣間見えた。葦毛の馬に跨り、三日月のような刃を左右に持つ方天戟を構えている。
ルーシュイ自身の背丈ほどもあるその細長い柄は、馬上で均衡を保つのが難しそうであるけれど、ルーシュイはそれをヒュンと音を立てて振るってみせた。刃は血に濡れておらず、こんな時だというのにレイレイはほっとしてしまった。
ルーシュイの姿を認めて、フェオンがレイレイの腕をすり抜けて外へ飛び出した。男たちも捕らえることのできない素早さだった。慌てて追いかけに出た男はすぐさま方天戟の餌食となったようだ。音でそれがわかった。
逃げ遅れたレイレイは残った首領の男に髪をつかまれた。まだ逃げようともしていないのに、ギ、と強く憎憎しげに引っ張る。
「あいつはお前を追ってきたのか!」
感情が振れると、髪をつかむ力も増す。レイレイが痛みに顔を歪めて返事をしないでいると、不意に車内に風が吹いた。
「っ!」
ぶわ、と車内で風が吹き溜まる。明らかに不自然なその風が、白い札を首領の男の額に運んだ。その途端、男の体は雷に撃たれたかのように跳ね、そうして白目をむいて昏倒する。
髪をつかんでいた手もゆるみ、レイレイはぽかんと口を開けてしまった。何が起こったのかがまるで理解できない。
けれど、早く外へ出なければと思い直し、レイレイは這うようにして馬車から顔を覗かせた。その途端、ルーシュイの声が鋭く飛ぶ。
「レイレイ様!」
険しかったルーシュイの面持ちが瞬時に和らいだ。リィン、と鈴の音が鳴ったかと思うと、ルーシュイが手にしていた方天戟が消え、手にはユヤンから受け取ったあの房のついた鈴が残った。仕組みはわからないけれど、便利なものである。
馬から飛び下りると、ルーシュイはすぐさまレイレイの手を取った。ギュッと握り締める手が、僅かに震えているような気がした。
「やはり、片時もおそばを離れるべきではありませんでした。レイレイ様にこのような思いをさせてしまい、申し訳ありません」
今までに聞いたこともないような熱のこもった声にレイレイは戸惑う。ルーシュイの感情の揺れが伝わるようだった。
「ううん、わたしは大丈夫。フェオンは?」
「ええ、そこにいます」
そこにいると言われても、ルーシュイがレイレイの視界を塞ぐから見えない。寄り添って、立つのを支えてくれる。どこか体の一部がくっついていなければ安心できないと思うのか、ルーシュイはレイレイの腕に手を添えて横に立つのだ。
フェオンはルーシュイが乗ってきた葦毛の馬に首を預けるようにして寄りかかっていた。そうしていると落ち着くのかもしれない。
「父に事情を話している最中に、念のためにレイレイ様にお渡しした札が宿から離れていくのを感じました。そこから馬を借りて追ってきたのですが――」
「ああ、あのお札が」
と、レイレイは懐から渡された札を取り出し、ルーシュイに返そうとした。けれど、それはすでにただの白い札で、書かれていた文字が消えていた。
「もうただの紙でしかありません。それほど時間をかけるつもりはなかったので、ごく弱い術しか施してありません」
ルーシュイはその札をピッと二枚に裂いて捨てた。
さて、と声を上げると、新たな札を懐から取り出し、そこに指先で撫でるようにして文字を書き込んでいく。その札を放ると、札は白い鳥になり、大空高くに舞い上がった。
レイレイが砂埃が混ざる風に吹かれながら空を見上げていると、ルーシュイがそっと告げる。
「あれで父にこの場所を知らせました。今にこの者共を捕縛に衛士が来ることでしょう」
念には念を入れてと思うのか、ルーシュイは倒れている男たちのすべてに白い札を貼りつけた。あれで体の自由を奪うことができるようだ。
御者も含め、すべての男に札を貼り終えると、ルーシュイは馬車に繋がれている馬の一頭を外した。
よく見ると、いつの間にか二頭いるうちの残したの馬にも動きを封じる札が張ってある。
ルーシュイはフェオンに向けて言った。
「フェオン、こいつに乗れるな?」
「う、うん」
フェオンはルーシュイの呼びかけに葦毛の馬から顔を上げて大きくうなずいた。ルーシュイも軽くうなずいて返すと、その手綱をフェオンに手渡した。
心細かったことをわかってほしいと思うのか、フェオンはルーシュイを見つめたけれど、ルーシュイは葦毛の馬の手綱を取ると、レイレイだけを見ていた。
「さあ、城市へ帰りましょう」
鐙に足をかけ、軽やかに馬上に飛び乗る。そこから数歩馬を歩かせ、レイレイの方へ手を差し伸べた。
「レイレイ様、お手を」
「えっと――」
言われるがままに手を取ると、ルーシュイは視線を足元へ落す。
「この鐙に足をかけてください。引き上げますので」
レイレイが一人で馬に乗れないのは、今更言っても仕方のないことである。言われるがままに足を鐙にかけ、ルーシュイの力を借りて馬上へ乗った。
馬の背は、乗ってみると傍で見ていた以上に高くて、慣れないレイレイは思わず震えた。それを感じたのか、ルーシュイはレイレイを抱き込むようにして手綱を取る。背中が熱く感じられた。
ルーシュイがそこにいてくれると、自分でも驚くほどの安心感を覚えている。ふわりと柔らかな気持ちになったレイレイだったけれど、不意に向けられたフェオンの目にレイレイには冷水を浴びせられたようだった。
ああ、フェオンもここにいたかったのかな、とレイレイは思う。恐ろしい目に遭って、そうして助けにきてくれた人に甘えたい気持ちは誰しも同じ――それ以前から、フェオンは自分に親切にしてくれたルーシュイを慕ってはいたのだろう。
けれど、ルーシュイはレイレイを一番に考えなければならない立場だから、フェオンはレイレイが気に入らない。
「馬の背は慣れぬ方には苦痛かと存じます。おつらければ仰ってください。休み休み進みますので」
「う、うん」
極上の笑顔をレイレイに向けてくるルーシュイは、そんなフェオンのことをどこまでわかっているのだろうか。




