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花鳥雲月録 ~乙女と不機嫌な護り人~  作者: 五十鈴 りく
第一部+迷子の章+

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21/102

一「迷い子」

 鸞君として目覚めてから、レイレイは何度か力を使った。だからどうしたと思うレイレイだったけれど、ルーシュイはある日、ひどく深刻な顔をして朝餉の席で言った。


「レイレイ様、その頻度でお力をお使いになっては心身ともにご負担が大きいかと存じます。しばらくの間はゆっくりと骨休めなさいますように」

「へ?」


 レイレイは粥を口に運びかけた手を止めてルーシュイを見た。けれど、その整った顔は冗談を言っているふうではない。


「外出禁止です」


 ぴしゃり、と笑顔で言い放った。何故そこで笑顔が出るのかが今いち解せない。


「た、退屈なのは嫌。全然気が休まらないわ」

古筝こそうなり二胡にこなり嗜まれたらいかがですか?」


 じっと座って楽器を奏でる。聴くのは嫌いではないけれど、まともに弾けるようになるまで練習するほどには好きになれそうもない。そう思ったのが顔に出たのか、ルーシュイはくすりと声を立てて笑った。


「お教えしましょうか?」


 ルーシュイは演奏までできるらしい。卒なく義爪で弦を爪弾き、弓を滑らせて濁りのない音を奏でる様子が、聴く前から想像できてしまう。こうなんでもこなされると面白くもなんともない。


「間に合ってるわ」


 癪だからそう返してそっぽを向いた。けれど、粥はしっかり食べる。

 ルーシュイなりにレイレイのことを心配して口うるさく言うのだとわかっても、あまり嬉しくもないレイレイの方が子供なのかもしれなかった。



 それからしばらく、レイレイは鸞和宮に閉じこもっていたのだが、特別することがあったわけではないので、やはり退屈である。慣れないながらに部屋の掃除をしてみたり、宮の中をちょこまかと動き回ってはいた。

 けれど、徐々に夏が近づいてきていると肌で感じる頃、レイレイは思いきってルーシュイに言った。


「もう十分休んだから、たまには外へ連れていって」


 すると、ルーシュイはあまりいい顔をしなかったけれど、渋々うなずいた。レイレイが退屈に耐えられない性分だと理解してくれたのだろう。


「そうですね、わかりました。けれど、くれぐれも厄介ごとに首を突っ込むのはおやめくださいませ」


 どういう意味だと問いたいけれど、言葉のままだと返されそうな気がした。



 まあいい、久し振りの外出だ。レイレイは心が躍った。

 おめかしというほどでもないけれど、衣を選ぶのも楽しかった。淡い糸で金魚の刺繍のある、涼しげな水色の衣を選んだ。


 どこへ向かうという目的があるわけではない。けれど、踊るような足取りで門を潜り抜けたレイレイを、ルーシュイは苦笑して見守った。のんびりと外を歩くだけで体が弾む。

 道は砂埃がひどいし、日差しは強くて眩しいけれど、宮に閉じこもって過ごすよりもずっといい。

 レイレイが嬉しそうにするからか、ルーシュイもそれ以上の小言は言わなかった。ただ静かに隣を歩く。


「暑いわねぇ、ルーシュイ。水辺に行きたくない?」

「水辺なら宮の中に池があるでしょうに」

「そういうのじゃなくて! 流れる小川とか湖とか」

「またそういう無茶なことを」


 と、ルーシュイは呆れ顔だった。そんなにも無茶を言ったつもりはない。城市のそばには川もある。遠出というほどではないはずだ。


 そんなことを話しながら道を行くと、通りに出た店の軒下に壁を背にしたシージエが座り込んでいた。この界隈によくいるのか、出会う確率が高いと思うけれど、よく考えると久し振りではある。声をかけようとしたら、シージエは一人ではなかった。


 一緒にいる相手は十二、三歳ほどの子供であった。ヤーの時といい、シージエは子供を見るとつい構いたくなる性質なのかもしれない。


 ただ、相手の子供は少し変わっていた。軒下で影になってわかりにくいせいもあるけれど、髪に布を巻きつけ、それが目深で表情があまり見えない。着ている服も継ぎがある粗末なもので、着ているというよりも襤褸ぼろが垂れ下がっているようだ。足には木靴を履いている。


 せっかくだけれど、今日はシージエに声をかけずにいようと思った。ルーシュイはシージエに気づいただろうかと隣を見上げたら、何か普段以上に険しい目をしてシージエたちに顔を向けていた。シージエにではなく、相手をしている子供を見ている。


「ルーシュイ?」


 思わずレイレイが声をかけると、ルーシュイはハッとしたふうだった。こんなことは珍しい。


「はい、何か?」


 とっさに答えるけれど、心ここにあらずだ。あの子供のことがルーシュイはひどく気になるらしい。


「シージエよね、あれ」

「そうですね」

「話しかけましょうか」


 あえてそう言ってみた。すると、ルーシュイは少しだけ遅れてうなずいた。


「はい」


 いつもなら、やめておきましょうと答えただろう。それをあっさりとうなずく。

 レイレイが戸惑っていても、ルーシュイはやはりあの子供に気を取られている。

 それが何故なのか知りたくて、レイレイはシージエたちの方に歩み寄った。シージエよりも先に、その子供が野生動物のように機敏に振り向く。


「あら、驚かせてごめんなさい。シージエ、お久し振りね」

「ああ、レイレイじゃないか」


 シージエは人懐っこく笑うと、尻の砂を払って立ち上がる。子供も同じ仕草をした。立ち上がっても背はレイレイよりも低い。


 ルーシュイはその子供をじっと見た。いつもなら、レイレイに害があるかないかが判断基準であっただろうに、この時ばかりはそうした意識があったのかよくわからない。本当にただじっとその子供を見ていた。

 隣のレイレイのことなど忘れてしまったかのように見入っていたのだ。


 シージエはルーシュイがあまりにその子供を気にするからか、なんとなく言いにくそうにしてつぶやいた。


「この子はフェオンといって、まあ、迷子らしいよ」

「迷子?」


 大人ではないにしても、迷子になるほど幼いとも思えない。不思議そうに返したレイレイに、ルーシュイがフェオンから目をそらさずに言う。


「人攫いにでも連れてこられたのかもしれませんね」


 その途端、フェオンはびくりと肩を跳ね上げた。その怯え具合が真実味を増す。シージエはただ驚いて目を瞬かせた。


「この国にもそうした組織があるのか?」


 すると、それに答えたのはルーシュイだった。どこか嫌悪感すら漂わせる面持ちで単調に述べる。


「この国はもちろん平和だ。けれど、どんな平和な国にだって僅かな闇はある。ないと信じていたなら、それはただ目が行き届いていないだけだろう。完全なる国なんてどこにもない」


 そんなにもはっきりとした言葉で示されたことなどなかったのか、シージエは固まってしまった。どこか叱られ慣れていない育ちのよさを窺わせる。

 場の雰囲気がやや険悪に傾きかけたので、レイレイはその流れを変えるためにフェオンへ声をかけた。


「えっと、怖い思いをしたのね? 少し話せるかしら」


 フェオンはうつむいたまま、レイレイに顔も向けず、返事もしなかった。シージエも小さくため息を漏らした。


「さっきから迷子だってことと名前を教えてくれたくらいで、後はほとんど口を利いてくれないんだ。素性がわかれば親元へも返してやれるのに」


 どうして口を開かないのか。言葉には反応している。言葉の意味がわからないわけではない。それでも答えようとしないのは、見ず知らずの人間を信用しきれないからだろう。


 さて、どうしたものかと思っていると、いつもならば我関せずのルーシュイが動いた。

 少し乱暴なくらいにフェオンの枯れ枝のような腕をつかむと、レイレイとシージエが唖然としている間に二人から離れた。


 そこでルーシュイがぼそぼそと何かを話すと、フェオンは驚いたように首を持ち上げて、そうして大きくうなずいた。ルーシュイは更に何かを言っていた。フェオンの様子は徐々に柔らかく、最後には微笑みすら浮かべていた。


 ルーシュイがレイレイ以外にそうした態度を取ることは珍しい。誰にでも気を許す人ではない。それが、ルーシュイまで話しながら自然と笑顔になる。そのことにレイレイは驚いてしまった。


 フェオンはすっかり安心した様子で、ルーシュイの衣の裾をつかむ。ルーシュイもそれを振り払うことはせず、フェオンの好きにさせていた。それはレイレイから見たら不思議な光景だった。


「すみません、レイレイ様。お待たせしてしまって」


 そう苦笑するルーシュイの背に、フェオンは張りつくようにして隠れた。レイレイは思わず目を瞬かせる。


「ルーシュイ、フェオンに何を言ったの?」

「ええ、まあ、少し世間話を。お二方よりも長く生きている私の方が世の中を知っているということですよ」


 それほど年齢が違うわけでもないと思うけれど、確かにルーシュイは物知りだ。

 レイレイはふぅんとつぶやく。

 フェオンはルーシュイに気を許しても、レイレイには警戒心を解いてくれないらしい。レイレイは少し複雑だった。


 シージエはというと、何かいつになく深刻な顔をして黙り込んでしまった。この国に人買いがいると言われたことが彼なりに衝撃だったようだ。

 散歩好きな彼のことだから、安全だと信じていた城市の治安の翳りに不安を覚えたのだろう。記憶の曖昧なレイレイにはなんと声をかけていいのかもよくわからない。


「ねえ、フェオンのことをどうするの? 親元へ返すにはユヤン様にお願いした方がいいのかしら」


 ぽつりとつぶやいてみると、ルーシュイの目が諌めるように動いた。フェオンはともかく、一般人のシージエに聞かれていい名ではない。

 けれど、シージエは物思いに耽っていて、こちらの話を聞いているふうではなかった。そのことにレイレイはほっとする。ルーシュイはひとつ息をつくと、複雑な面持ちでかぶりを振った。


「いえ、それはやめておいた方がよろしいかと」

「どうして?」


 ユヤンはヤーの時も誠実に動いてくれた。フェオンを見捨てるとは思えない。

 ただ、ルーシュイにしてみれば、下々の者のために、本来雲の上の存在であるユヤンを容易に頼るのはよくないと思うのだろうか。


 ルーシュイはレイレイの問いに答えなかった。シージエがいては話せないことなのかもしれない。かといって、フェオンに頼れる人がいるとも思えず、このまま放ってもおけないだろう。


「じゃあ、とりあえずは連れて帰りましょうか?」


 レイレイがそう切り出すと、ルーシュイは戸惑ってしまった。いつになく、本当に困った顔をする。


「あそこに部外者を入れるわけには参りません。それはできぬのです」


 ひと晩でもいけないのだろうか。ルーシュイもフェオンのことを気にしているのがわかるのに、融通が利かない。

 その時、シージエがようやく口を開いた。


「じゃあ、俺がうちに連れて帰ろう。そこから伝手を頼ってなんとかするよ」


 安請け合いではなく、シージエは最後まで面倒を見てくれる。誠実な人柄だと、顔を合わせるたびに思うのだ。

 それでも、フェオンはルーシュイの陰に隠れ、彼を拒んでいるように見えた。シージエが嫌だというよりも、ルーシュイと離れがたい、そんなふうに見える。


 ルーシュイもそれを感じたのか、宥めるようにフェオンの頭に手を乗せた。その優しさに、レイレイはやはり驚いた。迷子の子供に優しくするのは当然かもしれない。


 けれど、ルーシュイはそうしたことよりもいつもレイレイを優先してものを言い、行動してきた。今はただ、職務と気持ちとの間で揺れている風に見える。

 ルーシュイが迷うなら、レイレイが動かなければならないような気がして、とっさにシージエに向けて口を開く。


「ありがとう、シージエ。でも、フェオンはルーシュイのそばを離れたくないみたい。フェオンのことはルーシュイに任せてもらえるかしら」

「そうだな。でも、家に連れて帰れないみたいだし、どうするんだ? 宿でも取るのか?」


 そうか、その手があったかとレイレイは思った。ひと晩ふた晩のことならそれもいいだろう。


「ええ、そうするわ」


 勝手に答えたレイレイにルーシュイは何か言いたげにしていたけれど、フェオンを不安にさせないためか何も言わなかった。

 シージエはそれでも乗りかかった船だと思うのか、うなずきながら言った。


「宿なら西通りの方が行き届いたいい宿がそろってるって聞いたけど?」

「まあ、それだけ宿代もするということです」


 ルーシュイがそんなことをさりげなくつけ足した。お坊ちゃん育ちの割に細かいことを気にする。シージエもそれなりにいい家柄の出なのではないかと思えたりするのだが。


「持ち合わせがないのか?」


 そう小首をかしげるシージエに、ルーシュイは苛立たしげに眉根を寄せた。


「そういうことではありません。……まあいいです。レイレイ様をおかしなところへお泊めするわけにも参りませんから」


 けれど、シージエはそうしたルーシュイの様子を特に気にするでもなく爽やかに微笑んだ。


「じゃあ俺、明日も来るよ。何か手伝えることがあるかもしれないし。ああ、白雲閣ってところが特に評判だよ」

「うん、ありがとう」


 シージエは手を振って颯爽と人混みに紛れていく。その背が消えた方を眺めつつ、ルーシュイはぽつりと零した。


「別に、彼が悪いというのではありません」

「え?」

「いえ……。宿に向いましょうか。まだ日は高いですが、フェオンはあまり人目のあるところを好みませんので」


 出会ったばかりなのに、ルーシュイは訳知り顔でそんなことを言う。レイレイの方がルーシュイの言葉に戸惑ってしまった。

 フェオンはやはりレイレイに対して気を許してくれているふうではない。やっぱり少し悲しかった。


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