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花鳥雲月録 ~乙女と不機嫌な護り人~  作者: 五十鈴 りく
第一部+薬花の章+

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六「諫言」

 ぽつり、と立っていた。

 目の前の粗い木目が浮いた戸に、レイレイは見覚えはなかった。ここはどこだろうかと考え込むと、その扉の前からゲホゲホと咳き込む声が聞こえてきた。

 小さな手――これはレイレイの手ではなかった――が戸を開こうとすると、中から怒声がした。


『入ってくるな! 子供のお前が罹ったら助からないぞ!』


 びくりとして戸を閉めた。けれどその時に中の風景が目の端に入った。中には粗末な茣蓙ござの上に寝転がる人たちがいた。骨が浮くほどにやせ細り、咳き込んでいる。嘔吐の跡もある。すえた臭いが戸の先から、戸を閉めた今でも漏れてくるようだった。


 レイレイはようやく、自分が同化しているのはあの男の子、ヤーであるのだと気づいた。彼の心も手に取るようにわかる。


 あの中に、大好きな叔父がいる。母の弟で、いつもヤーを可愛がってくれた。優しく穏やかで働き者の叔父だ。その叔父が、急な病に倒れた。伝染病なのか他にも六人倒れ、叔父は隔離された。

 戸の外から、病に苦しむ人々の呻き声を聞いた。ヤーは恐ろしくて、戸の外から元気づけようと何度も叔父を呼んだ。けれど、返答は呻き声ばかりであった。


 長老が、過去にこの病が流行った時、ギンギョウサンという薬を使って快癒した者がいたという。村人たちはやっと貯めた銭をかき集め、ギンギョウサンを買いに走った。そうして、とある薬屋でギンギョウサンを買い求めたところ、それを飲ませたというのに病状に変化は見られなかった。あれはもしかするとただの白い粉で、薬などではなかったのかもしれない。


 効果がないと訴えても、すべて飲ませてしまった以上は証拠もない。薬屋は言いがかりはやめろと突っぱねた。父は、貧乏人に対する仕打ちなんてこんなものだと苦々しく言った。ヤーはあまりの無情さに心が砕けそうだった。


 そうか、情けなどこの世にはない。あるとすれば信頼関係で結ばれた村の中でのみだ。

 ヤーは店先の商品をくすねるのになんの抵抗もなくなった。叔父たちに滋養のあるものを食べてほしかった。上手くいかないこともあったけれど、手に入れた肉饅頭は叔父の弱った体には受けつけなかったらしい。すぐに戻してしまったそうだ。


 ヤーは、病人たちが集められている小屋から逃げ出すように走り去ると、誰もいない草むらで自分の小さな手を見つめた。

 頼りないこの手。誰も救えない小さな手。

 ぽたり、と涙が零れた。


『う、う……』


 一人になった途端、嗚咽を堪えることができなくて、のどが潰れるほどに慟哭した。

 薬がありさえすれば。それを買える自分であれば。

 偽物ではない、本物の薬を手に入れることができれば。


 助けられない。助からない。

 現実は、貧乏人には少しも優しくない。世の中の不公平を嘆いても、救いの手はない。


 代わりにこの命をあげるから、叔父を助けてほしい。

 誰でもいい。どうか――



   ● ● ●



 そこでハッと目が覚めた。レイレイは眠りながらヤーと一緒に涙を流していた。もう、ヤーとは切り離された鸞君のレイレイにすぎないのに、いつまでも病床にある彼の叔父のことが気がかりで涙が止まらなかった。

 身支度も忘れてレイレイはルーシュイのもとへ走った。ルーシュイはまだ起きて間もなかったようだ。早すぎるレイレイの起床に少し驚いていた。驚いたのは、レイレイが泣き腫らした顔をしていたせいでもある。


「レイレイ様? どうされました?」


 レイレイはしゃくり上げ、ルーシュイの衣を両手で握り締めながら言った。


「あの、ヤーが銀翹散をほしがっていたのは、やっぱり病人がいたからなの。早くなんとかしなくちゃ!」


 すると、ルーシュイはレイレイの肩にそっと両手を添えた。


「少し落ち着いてください。わかりました、そう陛下にお伝えしましょう。すぐに文を飛ばします」

「う、うん」


 深呼吸をし、レイレイはルーシュイを見上げた。

 ルーシュイは昨日、貴重な薬を農民に与えるはずがないというようなことを匂わせた。そのことがレイレイには気がかりだった。


「大丈夫かしら?」

「それはわかりません」


 淡々とした口調でルーシュイは言った。レイレイがその淡白さに驚いて瞠目しても、ルーシュイの瞳に変化は見られない。


「わからない……?」


 呆然と繰り返す。けれど、ルーシュイは軽く首を揺らしただけだった。


「そこは陛下やユヤン様が判断されること。レイレイ様のお役目は、『種』を見つけることでございます。レイレイ様はお役目をまっとうなさっておいでですよ。これ以上の深い入りはお役目ではございません」


 何か、ルーシュイの言葉が砂のように耳から零れ落ちていく。


「わ、わたし……」


 役目役目とルーシュイは言う。けれど、レイレイには役目を全うしているという感覚はなかった。ただ目の前で嘆くヤーに同化して心を痛めた。シャオメイの時もそうだ。

 ルーシュイにはそれが伝わったようだ。


「そうやって一人一人に感情移入されていてはお体が持ちませんよ。この国にどれだけの民がいるとお思いなのですか?」

「それは……」


 ひとつも言い返せない。ルーシュイは理路整然と畳みかけるようにして諭す。表情がほとんど動かなかった。冷めた目がレイレイを見ている。


「あなた様は大層お優しい方です。それは十分にわかりましたが、どうかお役目をお間違いになりませんように」

「役目って、困っている人たちの力になりたいって思うことがいけないの?」


 ルーシュイの言うことが正しいのだとして、それでも自分の思いを否定されるのはつらかった。思わず涙声になるレイレイに、それでもルーシュイは嘆息した。まるで子供に言って聞かせるような口調である。


「言い方を変えましょう。では、あなた様に何がおできになりますか?」

「え……」

「あなた様のお力は、諸所を見通すことがおできになります。けれど、それから? 具体的に仰ってください。どのようにして力になると? あなた様に金銀花の蕾を手に入れることができると仰るのですか?」


 絶句した。ルーシュイは隙のない言葉でレイレイを諦めさせようとする。刃物のように鋭い言葉に、レイレイは何も言えなくなった。それでも、ルーシュイははっきりと告げた。


「私はただの護衛ではないのですよ。あなた様が誤った方へ進まれそうな時は厳しい言葉をもってでもおいさめする、それも私の役目なのです。……ですから、少なくとも私は金銀花の蕾を探し出すために手を貸すつもりはございません。それは職務を逸脱した行いですから」


 ぼろ、と涙が零れた。けれど、ルーシュイは顔色ひとつ変えなかった。涙も通用しないことを示すように。

 聞き分けがないのはレイレイの方かもしれない。ルーシュイの言い分が正しいのかもしれない。それでも、レイレイは悲しかった。


 ルーシュイは立場上、レイレイを大事にしてくれる。けれどそれは、やはり『鸞君としてのレイレイ』であり、レイレイの個人的な感情には他の人々と区別してもらえずに等しく厳しい。

 ルーシュイにとってレイレイも特別ではない。薄々感じていたことがはっきりと見えた、そんな気分だった。

 それでも、このままだと職務に差し支えると思ったのか、ルーシュイはため息をついてからつぶやく。


「……深入りしてあなた様が傷つくことになると、私なりに――」


 そんな取ってつけたような言葉は要らない。レイレイはルーシュイの言葉を最後まで待たずに部屋へ駆け戻った。そうして寝台に倒れ込むと声を上げて泣いた。


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