第290話 アクシス家の価値
ギレイルの追及が終わり、重苦しい空気を背負ったまま部屋に戻ったギルは、扉を閉めた瞬間、全身から力が抜けたように大きく息を吐いた。
(……まったく、ろくでもねぇ家だ)
足元がふらつくほどの疲労感。
ただの戦いの疲れではない。
ネロの紋章を奪おうとした時の、あの強烈な激痛が今も頭の奥に残っている。
(ありゃ……絶対にただの失敗じゃねぇ)
苛立たしげに舌打ちしながら、ギルは靴を片方ずつ雑に蹴り飛ばし、そのままベッドへ倒れ込んだ。
天井を睨みつけながら、深く長いため息をつく。
「ちっ……あいつの手に、一体何があったってんだ……」
苛立ち混じりの呟きが、湿った空気に溶けていく。
ギルは黒の紋章の力――【無情なる剥奪者】を使って、ネロの紋章を奪おうとした。
本来なら「直接触れさえすれば」どんな紋章でも奪えるはずだ。
だが、掴んだのは紋章のない右手。
……のはずだった。
ネロの反応はどう見ても“何かがある”と訴えていた。
強烈な違和感を抱き、ギルは右手に隠された紋章があると踏んで能力を発動した――にも関わらず。
「うぐっ……!」
思い出しただけで頭痛が再燃しギルは奥歯を噛み締めた。あの時の頭蓋の内側を金槌で殴られ続けるような激痛。
視界が歪み、そのまま意識を手放したのだ。
目を覚ました時にはメイドに発見され、ネロ一行は既に逃走済み。
その後ギレイルに呼び出され叱責を受けたが、ギルは本当のこと――剥奪に失敗したとは言わなかった。
(どうせギレイルの奴は水の紋章を下に見てる。まさか“奪おうとした”なんて考えもしねぇだろ。都合のいい思考だよな)
ギレイルに黒の紋章の真価を悟られるわけにはいかない。
ギルはアクシス家を利用するつもりでいる。
手札は少ないほど困るのだ。
「……でも、やっぱ腑に落ちねぇ」
寝返りを打つと、月明かりに照らされた自分の左手をじっと見つめた。
黒い紋章が淡い光を吸い込むように脈打っている。
「あの頭痛……なんなんだよ。右手に紋章があったとして、なんで奪えなかった?」
額に皺を寄せて考えるが、答えは出てこない。
「畜生……意味わかんねぇ」
「――随分と機嫌が悪そうだな」
不意に窓際から声がした。
ギルが身体を起こして顔を向けると、そこには月光を背に仮面の男が立っていた。
暗がりからでもわかる無表情な仮面……なのに、じっとりとこちらを観察しているような、不快な感覚がある。
「またあんたかよ。勝手に忍び込むのが趣味なのか?」
「好きに捉えてくれて構わんよ。それで……心境に変化はあったかな?」
探るような声音。
くぐもった声なのに、こちらの胸の内を覗き込んでいるような感覚がある。
ギルは舌打ちしながらも、気になっていたことを問いかけた。
「なぁ。あんた、この紋章に詳しいんだろ? 一つ聞きてぇんだが……俺の力じゃ奪えない紋章って、あるのか?」
「答えても良いが、その前に返事を聞かねばな」
仮面の男が語る“返事”とは――
黒の紋章使いが集う秘密組織【深淵を覗く刻】への加入の意思だ。
「……考えてやってもいいぜ。ただし条件がある」
「条件とは強気だな。言ってみろ」
「俺はここに残る。組織に入ったからってアクシス家を離れるつもりはねぇ。それが飲めるなら加入してやる」
「構わんさ。それでいい」
あまりにもあっさりした返事に、ギルは眉をひそめた。
「……随分とあっさり許可するな」
「このアクシス家は利用価値がある。我々もそう判断している。
これまでもあえて野放しにしてきたのは、その価値を見ているからだ。
だから、お前がここに残るのはむしろ歓迎だ」
「つまり……俺がここに居てくれた方が都合がいい、ってわけか」
ギルはベッドから腰を上げ、仮面の男と正面から向き合った。
男は何も答えない。ただ静かに、それが真実だと告げているようだった。
「まあいい。じゃあ加入してやるよ。――で、さっきの質問の答えは?」
「奪えない紋章があるか――だったな」
仮面の男の声がわずかに低くなる。
「結論から言うと、ある。お前の能力でも“黒の紋章だけは奪えない”」
「……なんだって?」
ギルの目が大きく見開かれる。
「確かに俺は黒の紋章を奪ったことはねぇし、そもそも他の黒の紋章使いなんて知らなかったが……」
「ならば尚更のはずだ。――なぜ、そんな質問を?」
問いかけられ、ギルの心臓が一瞬強く脈打つ。
言いかけた言葉が喉に詰まる。
(……バレるわけにはいかねぇ)
「いや、なんでもねぇ。ちょっと気になっただけだ」
ギルはすぐに視線をそらし、そっけなく返す。
仮面の男は追及するでもなく、淡々と話を続けた。
「加入したと言うなら、今は勇者として動いておけ。――仕事は後で連絡する」
その言葉を残し、男は夜気に溶けるように姿を消した。
「……勝手なやつだ」
ギルは舌打ちしながら再びベッドに倒れ込む。
(もしネロの右手に“黒”があったなら、俺にも視えたはずだ。……なのに視認できなかった)
(じゃああいつの手には何が?)
胸に残る違和感は消えない。
だが――
(どっちにしても、あいつらに聞かせていい話じゃねぇよな)
思考がゆるやかに途切れ、ギルの意識は深い眠りへと落ちていった――。




