65.岐路
「そろそろ解散しないか。明日も授業があるし、ソフィアが眠っていた間の勉強を教えてやらないと。ほらフィリス、キミの出番だぞ。部屋で”二人で”復習してくるといい」
アシュレイの一声で解散した私たちは、各々の寮の部屋へと戻っていった。
眠る時間には少し早く、ソフィアもそう望んだのでアシュレイの言った通り、ソフィアが眠っていた間の授業をおさらいすることになった。
と言っても私のその間の授業なんて出ている余裕は無かったから、エミリーに授業を書き写したノートを借りて来た。アシュレイが見越して頼んでいたらしい。
エミリーの綺麗に要点のまとめられたノートに軽い感嘆を覚える。これなら、滞りなく復習が出来そうだ。
幸い、内容自体は全部ソフィアと以前にやった場所なので、エミリーのノートも併せれば一通りなぞるだけで十二分だろう。
今度、エミリーに何かお礼をしないと。
勉強を始める前に水の魔法を使いつつ二人分の飲み物を用意してから、互いの定位置に筆記用具を置く。
こうして机を並べるのもなんだかひどく久しぶりだ。
一年と少し前まで、一人で勉強をしていた時は何も感じなかったけど、今の私はこの時間が好きだ。改めてそう思った。
「そして四代前のエルネス王は賢王と呼ばれ期待されていたが突如乱心し、それまでの慎重さは鳴りを潜めて様々な政策を強引に発布したの。
急激な変化に国は乱れ、歴史上最も餓死者と反乱の多い時代だったと言われているわ。乱心から約五年、エルネス王は前触れもなく病死して国難は当時の宰相の手で急激に収束を迎えていくの。
ちなみに、エルネス王の政策の一つがこの学園の前身。貴族間の競争意識を高くした後期エルネス王唯一の善政なんて言われているわ。狂王の遺産なんて言われてたから、流石に当時のものから建て替えられたけどね。
歴史はこんなところかしら」
歴史の説明を終え、粗方の復習が終わった。
前に一度やったところばかりだったこともあって、時間は思ったよりもかかっていない。
ソフィアも顔を見るに躓いたようなところはなかったらしく、こうなると後はもう片づけて終わりだ。
耳に掛かった髪を軽く掻き上げながら、ノートを手に取ろうとすると、同じことを考えていたソフィアと手が重なった。
「っ!」
びくり、とソフィアの手が跳ねる。そのままソフィアはとび退くように手を引っ込め、遅れてふいと顔を逸らした。
手が触れただけにしては妙に過剰な反応だ。
「どうかした?」
「な、なんでもないです!本当に!」
どう考えてもなんでもなくはないんだけど。
元気そうにしていたけど、よく見れば顔も赤いし、まだ病み上がりで無理していたんだろうか。
熱を測ろうとソフィアの額に手を伸ばすと、手首を抑えてかなり本気で抵抗された。
「違うんですちょっと意識しちゃっただけで!そういうのじゃないですから!」
顔を真っ赤にして何かを必死に弁明するソフィア。
このまま追及したいという悪戯心が沸いてくるけど、切実に触れて欲しくなさそうなのに強硬するのもどうだろう。
結局後ろめたさに負けた私は手から力を抜くと、適当にお茶を濁してしまうことにした。
「わかった、わかった。聞かないから。じゃあ違う話をしましょうか。アヤメの言ってた魔法の法則のことで、自分なりに解かったことがあるから、話しておきたかったの」
「法則、っていうと信じれば形になるってあれですか?」
「そうそう。あの時ぶっつけ本番でやってみて感じたけど、あれね、やっぱり限度はあるわ」
ピタリ、と動きを止めるソフィア。どうやら、思考がストップしてしまったみたいだ。
しばらく待っていると、徐々に思考回路が再起動し、点になった目が段々と焦点を取り戻していく。
「あれってぶっつけでやってたんですか?!自信満々だったしフィリスさんのことだから確証があってのことだと思ってたんですけど!」
「確かに検証の一つもしていなかったわね」
それこそ日用で使える魔法ででも検証は出来たのに、そんな簡単なことに気が付かないなんて、思っていた以上に気が動転していたらしい。
だけど、私の想像通りなら今回ばかりはそれがプラスに働いていると思う。
「でも、検証していたら失敗していたと思うわ。だって、私の常識内の魔法ではそこまで大きな効果は得られないと思うもの」
「どういうことですか?」
「例えばそうね、一番簡単な水の魔法、コップ一杯くらいの水が生成だけど、これが滝のようになるのって想像できないでしょ?
仮に想像出来てたとして、少なくとも詠唱時には今まで使ってきた感覚が頭を過るはず。この理論ではその少しすら許されないのだと思うわ」
「確かに、いつも使っている魔法が突然強くなるのは想像しづらいですね」
実はさっき飲み物を用意したとき、ふとした出来心で密かに氷や熱湯が作れないかと試してみたけど、出来たものはいつも通りの温度の冷水だった。
出来心だからそんなに熱心に取り組んだわけではなかったけど、やはり成功のイメージは沸いてこなかった。
「そういうこと。私たちの中では唱えた魔法とその規模はイコールで結ばれているの。全く知らない魔法ならともかく、ね。
実際の文言はなんでもいいのに詠唱が作られているのは、イメージがしやすいようにっていうのと規格が統一出来るから、なんて理由だったりするかもしれないわね」
もしもアヤメの言う通り、魔法の本質が想像にあるんだとしたら、ほぼ全ての人間が想像通りに物事を変え得るというのはあまりに危険だ。
だから、大昔の人は魔法に常識という形を与えたんじゃないだろうか。使いやすくするために、あるいは、枷にするために。
「つまりよ、私が検証していたら多少強くなったかもしれない程度の魔法が目の前で起こったはず。それで私は信じるという行為に対して疑念を抱くでしょう。そうなると、もう無理ね。
ソフィアに届いたのは、ただ一回きりで心から信じることが出来たからなんじゃないかと思ってるわ」
後がなかったからこそ、あの時は全力で縋れた。全力で縋って尚、ギリギリだった。
もう一度やれば、私は間違いなく帰ってこないだろう。
「じゃあもうアヤメさんの言ってた魔法を信じるっていう方法は使えないんですか?これから魂術を教えて貰うかもしれないのに」
「うーん、自分の中でそういうものだと原理を確定してしまえば、先入観の無い知らない魔法に対してなら適用出来ないことはないと思う。でもアヤメ程のことは無理でしょうね。私たちは魔法がどのようなものか知ってしまっているから。
せいぜいが、ブースト効果が期待できるくらいだと思う」
アヤメが無茶苦茶な詠唱から突拍子もない魔法を使えるのは、魔力の大きさもあるけどなによりも魔法に対する先入観がないからだ。
「あくまで私の推論だから、間違ってる可能性は全然あるけどね」
「その、じゃあ、魂術の修練がすぐに終わるようなことはないんですか?」
私が肩を竦めて言うと、ソフィアは何かを逡巡するような素振りを見せてから、おずおずとそう切り出した。
長期間のことになりそうだから、先のことを聞いておきたいというのは分かるのだけど、どうにもソフィアからはそれだけじゃないように感じた。
まあ、ただの直感だけど。私だって伊達に一年ずっとソフィアと一緒に過ごしてきたわけじゃない。
「そうね。仮にアヤメの論を適用出来たとしても、最低限のステップは踏む必要はあると思う。でも、貴方が聞きたいのはそういうところじゃないんでしょ?」
私が率直に聞けば、ソフィアは一瞬だけ顔を伏せてから、取り繕ったような笑顔で私に笑いかけた。
「いえ、やっとフィリスさんが元に戻れるようになるんだなって思ったので。すぐじゃないにせよ、おめでとうございます」
相手に内心を悟られたくない時ほど笑顔で。そう教えたのは私だけど、全くソフィアは私の真似をしてほしくないところばかり真似る。
応対や交渉のために教えたのであって、我慢させるために教えたわけじゃないのに。
大方、ソフィアの考えていそうなことは分かる。ソフィアは時々私に気を使いすぎだ。
と、いうことで。ソフィアに隠蔽を教えた当人たる私が責任をもって暴くとしよう。
「私に変な気なんて使わなくていいから。本心で話しなさい。ほら」
ソフィアの弾力のある頬を両側からむにっと引っ張ると、作り笑いがみるみるうちに霧散していく。
思いのほか指に吸い付くような瑞々しい頬の感触が心地よくて、しばらくふにふにと弄っていると、ついには涙目で睨まれてしまった。
ごめんと謝って手を離しても未だに彼女はご立腹だ。
ちょっとやりすぎたかな、なんて反省していると、むすっとしたソフィアに、両手を掴まれてしまう。
「わかりました!わかりましたよ。これはずるいし、言っちゃダメだって思ってましたけど、そういうことなら言いますからね!いいんですね!」
ソフィアは頬を紅潮させ、やけくそ気味にそう叫ぶと、すぅと大きく息を吸い込んだ。
「わたしはフィリスさんとずっと一緒に居たいです。だから今のままが良い。これから先何年も、何十年だって隣に居たいです!
でもそんなこと侯爵のアイリス・グランベイルさん相手だったらきっと出来ません。だからフィリスさんにはフィリスさんでいて欲しいです。
フィリスさんの隣をずぅっと歩いて行きたいんです!他人のことなんて考えてない、純粋なわたしだけのエゴです。けど、これが本心です。これでいいですか!」
とんでもないクロスカウンターに、よくわからない感情に支配され、頬を深紅に染めるのは私の番だった。
私が考えていたソフィアの言いたいことの方向性はあっていた。けど、それもこの生活をもう少し続けたいとか、学園生活をまだとか。そのくらいだと思っていたのに。
……こんなのまるで告白じゃない。
早鐘を打つ心臓の音が、嫌なくらいに耳に届く。
逃がさないとばかりに手を捕まれているせいで、ソフィアから目を逸らすことも出来ない。
せめて気の利いた一言でも言って、私の妙な勘違いごと払拭してしまおうと頭では思うのに、言葉は何ひとつ出て来ない。
熱で暴走する私の頭を現実に引き戻したのは、ソフィアの次の一言だった。
「ごめんなさい。突然こんなこと言われても困りますよね」
ぐっと何かを堪えるように目を伏せて、ソフィアは掴んでいた両手を離した。
遠ざかっていく手を、今度は私が反射的に手にとっていた。
「違うの。戸惑いがなかったと言えば嘘になるけど、そういうことじゃなくて」
言いたいことが纏まらない。論理的な思考が組みあがらない。
けど、何か言わないと。その気持ちに押されて、私らしくない、そう思いつつも私はただ思い浮かんだことをそのまま口にした。
「私だって今の生活は好きよ。ずっと続けばいいって思ってる。だからエゴでもなんでもソフィアがそう言ってくれてることは本当に嬉しい。
けど、私には貴族として産まれた義務がある。享受してきた恩恵の分だけ、皆に還さなきゃいけない責務がある。だから私はグランベイルに戻らなきゃいけないし、きっとそれが正しいこと。
正しいはずなのに、貴方の話を聞いて、何を選べばいいのか私にはわからなくなってしまったの」
貴族として生きること。それは私のするべきことで、したいこと。だったはずなのに。今や同じだった道は二つに分かたれてしまった。
本来なら私の人生に生まれるはずも無かった選択肢、フィリスとしてソフィアと生きていくこと。
その選択肢が、どうしても手放し難い。
「だから、貴女の言ったことが嫌だとか気にくわないとかじゃないの。ただ、迷っているだけで」
まるで私の心の動きのように、宙へと視線をさ迷わせていると、
私が掴んでいた手をソフィアがぎゅっと握り返してきた。
「一緒に居たいっていう気持ちに嘘はありませんけど、わたしは貴族じゃないですから、フィリスさんの身の上全部を理解することは出来ませんし、放り出してもいいなんて無責任なことは言えません。フィリスさんがそのためにどれだけ頑張ってるかは知ってますから。
でも、わたしはフィリスさんのどんな選択でも受け入れますし、批難する人が居たら一緒に謝ります。わたしに出来ることは知れてますけど、精一杯やります。その上でここを選んでくれると嬉しい、です」
「……ありがとう。でももう少しだけ、考えさせて。半端な気持ちで答えるのは、一番ダメだと思うから」
優しい熱に名残惜しさを感じつつも、ゆっくりとソフィアの手を離す。
それから片付けをしてベッドに入るまでの間、私たちの間に会話らしい会話はなかった。
ただ一言、おやすみとだけ告げると、おやすみなさいと返事があっただけ。
けれど、その無言の空間は、決して冷たいものではなかったように思う。
胸にほんのりと暖かいものを感じながら、ベッドに寝転がり目を閉じると、意識はすぐに溶けていった。




