60.再開
暗闇にぽつりと身体だけが浮いているような感覚。腕や足を動かしてみてもスッと空を切るだけで、手ごたえは一切ない。ここがソフィアの意識の世界なのだろうか。
進むことも出来ず仕方なく黒の海に身を任せしばらく波に揺蕩っていると、突如、一気に水が抜けたように黒の中を落下していく感覚だけが私を襲った。
どのくらい落ち続けていたのだろう。周囲は変わらず黒に包まれているけど、いつの間にか足の裏には確かな地面の感覚が戻っていて、目の前にはどこか見覚えのある扉が聳え立っていた。
「これって、教会の……?」
見間違えることはない。教会で私のお世話になっていた修道院の部屋のものだ。
私が知るものより幾分か新しく見えるそれに向かって一歩踏み出してみると、辺りの景色が急変した。
それは、私も良く知っている部屋だった。
他の修道院の部屋よりも幾分か大き目に作られているそこは、この一年で私の何度も通った場所だ。
間取りも、飾り気のない家具も、本人にはまだ大きすぎるベッドも。間違いなくソフィアの部屋だった。
そして私は気付く。
扉だけじゃなくて、家具や内装までが私の知っている物よりも新しいことに。
それらを眺めている私の目線が低く、六歳くらいのそれであることに。
「ソフィアと言ったか。全くあれは悪魔の子だ」
「然り。視えてはならぬ、いえ、存在してはならぬ物が視えていると嘯くなどと、これがあの方の御子でなければ国外追放ものでしたな」
部屋の外から、老齢と思われる二人組の男性の声が聞こえて来た。
嘲笑するようなその言いぶりは、扉越しに聞くだけでも口元が歪みがわかるほどだ。
「いっそ追放されてくれれば良かったのだ。我らの長の子が教義を覆してなんとするのか。あれらに連なる魔法の存在を否定し、隠匿するための我らの信仰ではないか。
それを根本から否定するなど、やはりあれは生まれてくるべきではなかった」
私の物ではない、絶望に似た深い悲しみが流れ込んでくると同時、足が、考えるよりも先に走り出していた。
扉に向かって体当たりをするように肩から突っ込む。扉を破った後はどうするかなんて考えてはいないけど、
理解してしまったからには、動かずには居られなかった。
今、私が感じたこの悲しみは、ソフィアのものだ。この誰からも見放されたような底の見えない絶望は、私の目線と同じくらいだった当時のソフィアのものなんだ。
勢いに任せた突進は、壁にあたる寸前に視えない壁にはじき返された。
ベッド一つ分くらいは弾き飛ばされ、倒れこむ中で私の意識はゆっくりと落ちて行った。
再び目を開けると、そこは変わらずソフィアの部屋だった。
しかし、直前までの部屋とはほんの少しだけ様子が違う。
柄の変わったベッドが、椅子の僅かに欠けた足が、時間の経過を感じさせる。
それに合わせるように、私の目線も頭半個分程度には高くなっていた。
私が状況を把握しきる前に、またも部屋の外から声が聞こえてくる。
「ガウス様出立を急がれませんと、ご予定に差し障ります」
「わかっておる」
お爺様の声だ。こんなところまで来るなんて、もしかしたら、わたしに会いにきてくれたのかもしれない。
そう思うと嬉しくなった。みんなわたしに辛くあたるけど、お爺様だけは優しかったから。
あたらしいまほうをひとつおぼえたんだよ。そう言ったら、褒めてくれるだろうか。頭を撫でてくれるだろうか。
期待に胸を膨らませ、お爺様が入ってくるのを待った。わたしからは会いに行ってはいけない。そう言われているから、大人しく、扉の前で。
足音が近づいてきて、ドアの前でピタリと止まる。
焦れる気持ちを抑えながら、お行儀よく椅子に座って待っていると、唐突に、足音が遠ざかって行った。
それが誰のものかは、言うまでもなかった。
扉は、開くことなくわたしの前に立ちはだかっていた。
瞬きをすると、再び部屋の時間は経過していた。
「ねえ聞いた?あの部屋の子の噂」
「あー、知ってる知ってる。化け物だか、邪教徒だかって話でしょ」
「そうそう。あいつ時々何もない場所を見つめてたりして気味が悪いのよね」
クスクスという笑い声が遠ざかっていく。それが誰の話かなんて分かり切っているのに、馬鹿にされていたというのに、
胸に沸いてきた感情は諦めだった。悲しくはない、それは全部自分のせいだから、そういう風に言われるのも仕方がないんだと、枯れた心がそう訴える。
そんなソフィアの想いをただ感じるしかないことが、私は腹立たしい。
それとは別に、この場所について私はある種の確信を抱いていた。
「もしかして、さ。そこに居るんじゃない?」
部屋の外に向かって声をかけてみると、やはり扉の傍で誰かが微かに身じろぎをしたのを感じた。
「……なんで気付いちゃうんですか」
「勘、かな。誰かが意図して私をここに閉じ込めたんだとしたら、その誰かはソフィアしかいないもの」
ここがソフィアの意識の中であるのなら、そこに干渉できるのは私かソフィアだけだろう。ならば、もうあとは消去法だ。
「さ、帰りましょう。皆待っているから」
扉に触れ、それが開くのを待っていた私に返ってきたのは、望んでいた答えとは別のものだった。
「どうしてフィリスさんが部屋に閉じ込められているのか。それは多分、わたしにとっての壁、遮るもののイメージがその扉だったんだと思います。わたしは、フィリスさんに来てほしくなかったんですよ」
意図的に平坦にした声で、淡々と言うソフィア。僅かに音吐が揺れているのは、そこに隠した感情の大きさ故だろうか。
「どうして?」
「き、嫌いだからです。フィリスさんのことも、皆も、世界も。だから戻らなくていいです」
「嘘ね」
その言葉が嘘だと断じる要素は幾つもある。悲しみで震える声色も、躊躇いが生んだ言い淀みも。だけど、それよりも
「確かに、ここまで見て来た貴女の過去は酷いものだった。けれど、それで世界が嫌いになったので戻りたくないですなんて安っぽい言い訳はさせないわよ。
そんな人間だったら、私は貴女にここまで心を揺れ動かされていないもの」
誰よりも真剣にぶつかってきたソフィアだからこそ、私は変わる切っ掛けを貰えた。私を大切にしてくれた彼女相手だったからこそ、気付けたことがある。
そんな誰よりも優しい彼女が、何もかもを嫌いになっただなんて、三歳の時の私だってもうちょっとマシな嘘をつく。
言いたいことを言った私は扉に背を預けた。後はソフィアの反応を待つだけだ。
それからたっぷり数十秒後、ソフィアは掠れた声で絞り出すようにこう言った。
「全部、聞いてたんです。身体は動かなかったけど、声は聞こえてました。だからフィリスさんにこれ以上奥に進んで欲しくありません。進んで、帰ってこれなくなって欲しくないんです。
もう、自分を犠牲になんてしないでください。そんなことになるくらいなら、わたしは、いいですから」
何度も何度も鼻を啜る音が聞こえてくる。きっと、今頃ソフィアの顔は涙でグシャグシャになっていることだろう。
だからこそ、その涙を拭うために、彼女の大いなる勘違いを正さないといけない。
「私ね、喧嘩したあの夜、ソフィアの言ったことが全然わかってなかったの。自分を大切にしろって。仲直りした後も、やっぱりどこかで自分のこと軽く見てた」
ソフィアにどれだけ大切に想われているかを知ったあの日、彼女の言った事を私はなんとなくわかったつもりになっていた。
結局、いざとなったら私は自分の身を捧げることを厭わなかっただろう癖に。ソフィアが襲われた瞬間だって一番に思ったことは、なんで私じゃないの、だったのに。
「でもね。因果なことだけど、ベッドに横たわる貴女を見て気付いたの。あぁ、これが貴女が本当に心配していたことなんだって。大切な人が傷つくと悲しい。こんな当たり前のことに、ようやく私は気づけたの。ソフィア、貴女のおかげで」
ドアノブを握り、力を籠める。
「だからね、もう私は自分を犠牲にして貴女を助けようなんて思っていないわ。そんなソフィアを悲しませるような真似はしない。二人で、帰りましょう」
扉は、もう私を拒むことはなかった。
「っ……!」
開いた扉の先で泣きじゃくるソフィアの目に、そっと指をあてて涙を拭う。
濡れた碧い瞳が雨上がりの空みたいで綺麗だと、場違いにもそう思ってしまった。
「絶対、置いて行かないって約束してくれますか……?」
「勿論。目覚める時は、二人一緒よ」
腕の中に飛び込んで来たソフィアを抱きとめて、抱きしめ返す。
この腕にある温もりだけで、私はなんだって出来そうだ。
「アヤ――アイリスに聞いた話なんだけどね。魔法っていうのは、イメージを現実にする力なんだって」
溶けるような再会の抱擁をようやく解いた私たちは、暗闇の中に光る一本の道を歩いていた。
私が部屋の外へと出た瞬間、部屋が掻き消えてこの道だけが闇の中に残ったのだ。
それが私たちの望むところへ繋がっていることを、私たちは理論以外の何かで知っている。
「アヤメさんで分かりますよ。この部屋であったことは全部聞いてたんですから」
「そっか。じゃあアヤメ呼びにするわ。で、続きなんだけど、彼女の話では、本来魔法に不可能は無いはずなの。ただ、それじゃあ使い辛いから私たちは言葉と常識によって制限をかけている。わかる?」
「アヤメさんの魔法が常識外れな理由はそれだったんですね」
「私たちが彼女と同じように出来ないのは、常識が邪魔をしているから。そういうものだと教えられてきたものを、完全に捨て去ることは難しいもの。
魔法がイメージだと言うのなら、ちょっとでも失敗する、とか無理、だとかの邪念を抱いた時点でそれは発動しないということなのよね」
持っているペンから手を離した時、そのペンは下に落ちる。そんな常識を一瞬も想うことなく、手を離せばペンは上に飛ぶと信じればペンは上に飛ぶ。
簡単なようで難しい、魔法の真理。私も、普通の魔法では常識が邪魔をしてアヤメのようにすることは不可能だろう。
「でも逆に、100%信じることが出来ればその魔法は絶対に成功する。ここは言わば私と貴女を魔法でつなげた空間みたいなもの。つまり、ソフィアと私の魔法。だったら、絶対に成功する。そうは思わない?」
「無茶苦茶言ってますよ」
ソフィアがくすりと笑った。私も負けじとにやりと笑う。
「じゃあ、無理だと思う?」
「全然」
いつの間にか、光の道は途切れていた。ここが終点だ。
「フィリスさん」
「何?」
「好きです」
「私もよ」
ソフィアが光の粒になり、掻き消えていく。
それを見届けた私の意識は、そこで途切れた。
深く昏い水の中を、溺れそうになりながら進む。平衡感覚さえなくなりそうになりながら、水面から光の視える場所までようやくたどり着いた。
水面まであとほんの少しなのに、伸ばした手はその少しに届かない。
限界だ。そう思った時、私の手を、太陽みたいに暖かい誰かの手が握った。




