第79話 やっぱりおかしいよお兄ちゃん
ヴェルムスの白い門を背後に感じながらしばらく歩くと、街の喧騒が完全に遠ざかる。香辛料の匂いも商人の呼び込む声ももう届かない。代わりに、草と土の匂いが混じった風が頬を優しく撫でた。――それだけで、世界の広さを改めて感じさせる。
東へ。
緩やかに続く道を、ユウとサラ、そして二匹は並んで歩いていく。道の両脇には背の低い草原が広がり、柔らかな風が皆の背中を押すように吹いていた。
「ねえお兄ちゃん、そういえば聞きたかったんだけど」
「なんだ急に」
「今までってさ……ずっとキャンプしてたの?」
「ああ。ほとんどな」
「ほとんどって、どれくらい?」
「んー……九割とか?」
「いや、ほぼ全部じゃん!」
サラはツッコミを入れると、思わず笑いながら、ローブの裾を両手でつまみ、風にひらりと揺らした。ルゥはユウの腕の中で赤い目をキラキラと輝かせながら周りを見渡していて、セレスはユウの歩幅に合わせて隣を静かに歩いている。草の匂いがやわらかく流れ、空気はどこまでも澄んでいた。
「それじゃあさ、レベルは……やっぱり1?」
「いや、5だな」
「えっ、思ったよりある!」
「というか、いきなりなんでそんなこと聞くんだ?」
「いやいや、お兄ちゃん今はのんびりしてるけどさ」
サラは軽く肩を下げ、呆れたように言った。
「この辺だってもしかしたらモンスター出るかもでしょ? エンカウントしたら戦えるように、ちゃんと気にしなきゃ。というか、普通パーティー組むってなったら一番気にするとこだよ? レベルとか職業とか」
「んーまあ俺の場合、気にしてもどうしようもできないというか。今後も特にパーティー組む予定もないしな」
ユウがマイペースにそう言うと、サラはため息をつきながらも笑っていた。
「ふふっ。まあ、なんというかお兄ちゃんらしいけどさ。でもさ、職業も設定してないしキャンプばっかりしてるなら戦闘用のスキルとか使えないでしょ? どうやってレベル上げたの?」
「あー実は、グラナート商会の依頼を受けたときがあってな。銀霧ミントの採取だったんだけど、ウィンドホークと遭遇して戦闘になったんだよ。そしたらルゥとセレスが倒してくれて、その時に経験値が入った」
「……いやいや、ちょっと待って」
サラが思わず立ち止まる。
「今さらっと言ったけど、グラナート商会の依頼って――やっぱりあのグラナート商会!?」
「ん? ああ、あのデカい建物のグラナート商会」
「いやいやいや、普通あそこって会員制だよね!? 結局アップデートされても攻略組でも入れないって有名なんだけど!」
「そうなのか?」
「そうなの! どうやって依頼受けられたの?」
「んー……どうやってって言われてもなぁ。グラナートさんとたまたま知り合って、仲良くなって、それで紹介してもらった感じ?」
「たまたま……?」
サラは眉をひそめ、じとっとした視線を向ける。
「運でどうにかなる場所じゃないと思うけど……」
「いや、ほんとに運が良かっただけなんだって。ルゥとセレスもいたし、なんか色々あって仲良くなった」
「なんか色々が一番気になるんだけど……」
「説明すると長いから今度なー」
ユウが詳しく説明する気はないと悟ると、サラはため息をつきつつも、興味深そうに二匹へ目を向けた。
「でもさ、ルゥちゃんとセレスちゃんってそんなに強いの? 私もウィンドホークと戦ったことあるけど、めっちゃ苦戦したよ?」
「確かにデカかったし、風圧もすごかったな。でも、俺たちの時は……むしろ一瞬だったな」
その時の光景が、ふと脳裏に蘇る。
丘陵地を渡る風、陽光を反射して光る巨大な翼。
その迫力に腰が引けたのも束の間、ルゥの炎が空を裂き、セレスの蒼白い影が閃光のように駆け抜けた。気づけば、脅威だった五体のウィンドホークが、すべて地へと沈んでいた。
――あれは戦いというより、ただの蹂躙だった。
「えっと一瞬?」
「ああ。ルゥが飛び出して、半分倒して――そのあとセレスがもう半分を一撃で仕留めてたな。正直、気づいたら終わってたって感じなんだよなー」
「ちょ、ちょっと待って、それウィンドホークだよ? あの風圧で人ごと吹き飛ばしてくるやつ!」
「俺もやばいって思ったんだけどなー。割と余裕そうだったぞ」
「……えー」
サラは半ば唖然としたまま、ユウの腕の中のルゥと、その隣を歩くセレスを見た。二匹は自分たちの話題だと分かっているのか、どこか誇らしげな様子だ。ルゥはユウの胸元から身を乗り出し、ユウを見上げながら、小さな前足を上げて「ぴぃっ」と鳴く。尻尾をぶんぶんと揺らしながら、まるで褒めていいんだぞと言わんばかりだ。
その隣でセレスは、蒼白い尾をゆるやかに揺らし、目を細めて静かに頷くようにしていた。
「……ちょっと、何この連携した反応……」
サラが二匹の可愛い反応に思わず呟くと、ユウは思わず吹き出した。
「はは。まあ、褒めてほしいらしいな」
ユウが笑いながらルゥの頭を撫でると、仔竜は嬉しそうに喉を鳴らした。セレスもそれに合わせるように一歩近づき、尾でユウの足をそっと撫でる。それに応じるように、今度はセレスの頭に手を伸ばし、丁寧に撫でた。
指先が柔らかな毛並みに触れると、セレスはほんのわずかに目を細める。喉の奥から小さく「……コン」と声を漏らし、体をユウの手へと預けるように寄せた。
「ふふ……ほんと仲いいね」
「そうだな。もう家族みたいなもんだ」
その言葉に、ルゥが「ぴぃっ!」と鳴き、セレスが静かに「……コン!」と返した。どちらも誇らしげで、まるでその言葉を肯定するかのようだった。
穏やかな時間が流れていく。
風はやわらかく、街道の両脇に広がる草原が金色に染まりはじめていた。太陽が傾き、光が斜めに差し込むころ――サラがふと足を止める。
「ねえ、お兄ちゃん。なんか、この辺り……雰囲気、変わってきてない?」
「確かに。気のせいじゃないな」
道端に、薄青の花弁を持つ草花が群れていた。花の芯は淡い金色で、日差しの角度に合わせて微かに開閉している。背の低い木には、三つ葉にも似た細い葉が連なり、風で揺れると風鈴のように葉が鳴った。
「……こんなの、ヴェルムス周辺では見なかったよね?」
「ああ、見たことないな。どうやらアップデート要素っぽいな」
ユウはしゃがみ込み、指先で花の影をそっとなぞる。
指が触れない距離で止めても、花弁の縁に浮かぶ光のような輝きが、呼吸に合わせて灯り消えした。
「ルゥ、触るのはまだ待てよー」
「ぴぃ……」
仔竜は名残惜しそうに鼻先を引っ込め、ユウの腕の中で大人しくなった。
「アップデートで、地域固有の草花が増えるってあったよね」
「えっと、たしか、国ごとに環境が変わるからとかなんとか」
「ってことは――」
二人は同時に顔を上げ、遠くを見る。
視線の先には風が細い道を描くように走り、草原が波のように揺れていた。その合間を、花から浮かぶ光の粒がふわりと漂う。まるで花々が息をしているかのように、微かな輝きが空へと昇っていく。
「……これがアーヴェンティア」
ユウがポツリと呟く。
「――すべての命が寄り添い、息づく幻想の大地。ほんとに……そんな感じだね」
サラの声は、どこか夢を見るように柔らかかった。淡い光が風に舞い、彼女の栗色の髪をやわらかく照らす。ユウは無意識に、腕の中の仔竜をぎゅっと抱きしめた。ルゥはうれしそうに尻尾をぱたぱたと打ち、セレスは穏やかな風の中で目を細めた。
西の空は、ゆるやかに赤みを増しはじめていた。薄青の花弁が夕日の光を吸って、更にきらりとひときわ強く瞬く。丘の斜面に淡い影が伸び、四つの影もまた長く溶けていく。
「……ねぇ、ちょっとだけ寄り道していかない?」
「どうしたんだ?」
「記念にスクショ撮ろうかなって」
「おー。いいな、それ」
「そうでしょー。せっかくだし、みんなで撮ろ!」
ユウが軽く肩を寄せ、サラが画面の設定を内カメに切り替える。背後には淡く光る青い花々。夕陽が二人と二匹の輪郭をやわらかく包み込んだ。
「じゃ、撮るよー! お兄ちゃん、ルゥちゃん、セレスちゃん、ちゃんとこっち見てね」
「おう」
「ぴぃっ!」
「……コン」
――カシャリ
小さなシャッター音。
画面に収まったのは、青い花、傾く陽、そしてユウの腕の中で胸を張る仔竜と、その横でしなやかに尾を揺らす蒼狐だった。
「ふふ。いいの撮れたよ」
「……こういうの、悪くないな」
ユウは目を細め、深く息を吸う。風はやわらかく、草はささやき、世界は少しだけ広くなった気がする。そうして、ユウはサラに提案した。
「今日はここらへんでキャンプしないか?」
「ここらへんで?」
「ああ。花の光キレイだしな。夜になったらもっと幻想的になりそうじゃないか?」
「……確かに、悪くないかも」
ユウは少し周囲を見渡し、人が入ってこなそうな場所を見つけた。小さな花が群れて咲き、風が穏やかに草を撫でて通り抜ける。その中心で、ユウは立ち止まる。
「――ここにしよう」
振り返って、サラを呼ぶ。
「うん。ちょうどいいね」
彼女が笑みを浮かべると、腕の中のルゥが嬉しそうに翼をぱたぱたと鳴らして地面に降り立った。セレスも静かに尾を揺らし、草の上に身を落ち着ける。夕暮れの光が、ゆっくりと夜の暗闇へと溶けていく。
アーヴェンティア初めての夜が、静かに幕を開けようとしていた。




